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荒川、橋の下



窓から注ぐ朝日の中で、ちゃぶ台の上に並べられた料理が光を照り返して輝いている。


僕はそれらの中から『卵焼き』を慣れない箸でどうにか持ち上げると、恐る恐る口に運んだ。まだ熱いそれを前歯で噛み切った瞬間、今まで受け取った事のない信号が脳へと爆発的に殺到してくる。


「そんなにマズいのか?」


ちゃぶ台を挟んで対面に座る少尉殿が、僕の顔を見て典型的な憤慨の表情を浮かべている。それはまぁそうだ。食料をわざわざ用意した以上、提供した相手に感謝を期待するのは当然の事である。


だが、今の僕に何らかの意志を表明する余裕などない。基本的に無味である補給食だけを摂取してきた奴が、こんな複雑怪奇な物を口に入れたらどうなるか。それはもう、口内に爆発物を突っ込まれたようなものである。この卵焼きだって昨日の『カレー』に比べればだいぶマシだが(僕はアレを毒物だと誤認した)、それにしても暴力的に押し寄せてくる未体験の感覚を前にして、吐き出さずに済んだ事は認められても良いはずだ。


「私がこの世界で初めて食った時は、美味さに感涙したもんだがなぁ」


首をひねりながら、少尉殿は自分の皿をつつく。期待していた反応とは違う事が不満らしく、彼女はずっとブツブツと言い続けていた。やがて僕が七転八倒の食事をどうにかして終えると、ほぼ同時に箸を置いた少尉殿は両手を顔の前で合わせて頭を下げた。疲労困憊な僕を前に、テキパキと空になった食器を重ねて運び去っていく。


すぐに台所から、水の流れる音が聞こえはじめた。


「軍曹、何かやりたいことは無いかー?」


食器同士がぶつかる音を縫って、気の抜けた声が響く。

やりたいこと。……見当もつかない。


「特にないなら、ちょっと私に付き合ってくれー」


もとより選択肢は無い。僕は彼女から見えるはずもないのに頷いた。





暖かい日差しを浴びながら、僕は夢でも見ているような心持ちで歩いていた。少尉殿に借りたピンク色のジャージから、甘い香りが立ち昇ってくる。僕の前方では、何かが入ったビニール袋を片手に提げた少尉殿が、歌を小声で口ずさみながら長い髪を揺らしていた。


そこは、緩やかに曲がりながら続く見渡しのいい道だった。左手には草に覆われた小高い土手がそびえている。そしてその向かい側に視線を走らせれば、青々とした茂みの向こうに膨大な量の水がゆっくりと流れているのが見えた。荒川と呼ばれるこの河川は、かつての僕らにとってあまりにも貴重だった水を、石や土と変わらぬ価値なき物のように淡々と運んでいく。


今更ながら、僕はこの世界を満たしている豊かな自然に圧倒されていた。これまでは焦りと混乱で半ば観察力を喪失していたような状態だったわけだが、ようやく周りを見る余裕が出てきたという事なのだろう。アスファルトを踏む感触、風の匂い、そして目も眩むような色彩に半ば酔いながら、僕は少尉殿のあとをフラフラと歩き続けていた。


やがて少尉殿は、舗装された道を外れて背の高い植物の間へと分け入り始める。一心にその背中を追っていくと、僕らはいつの間にか開けた場所へと足を踏み入れていた。前方には、雑多な材料が組み合わさった如何にも急造な小屋が、大きな橋を屋根にして建っている。


「おっちゃん、いるかー?」


小屋に近づきながら、勝手知ったる調子で少尉殿が呼びかけた。すると小屋の入口らしき箇所を覆っている青いシートが揺れて、一人の小柄な男性が顔を出した。この世界の人間の年齢を推測する事にはまだ慣れないが、恐らく六十代と言った所だろう。白黒まだらの縮れた体毛に覆われた顔の中で、つぶらな瞳が熱を持った黒いボタンの様に並んでいる。


「……ハナちゃんが二人に増えとる」


呆然とした表情で独白する男性に向かって、少尉殿は右手のビニール袋を掲げながら歩いていく。


「増えるわけないだろ。こいつは弟だ」


あまりにも唐突に、僕は弟に任命された。


姉弟というものに上下関係が含まれる以上、僕が弟として下位に置かれる事は自然なのかもしれない。しかし、何故か激しく納得がいかない自分がいる。不満を込めた視線で僕が見つめる中、男性は受け取ったビニール袋を覗き込んでいる。


「いつもありがとね。このアルミホイルに包まれてるやつ、何が入っとんの?」

「鮭のおにぎり。海苔で巻いてある」

「ほんまけ?うれしぃなあ!」


男性の喜びように目を細めた後、少尉殿はこちらに振り返った。


「軍曹、紹介する。この人はマサさんだ。三年前にこの河で溺れていた私を助けてくれた恩人で、ホームレスをしている」

「溺れてたて言うか、そこのススキに絡まってたんよねぇ。ところでハナちゃん、酒はないん?」

「未成年者に酒を要求するな。ほら、立ったまま食うんじゃない」


広場の隅には、古ぼけたベンチが無造作に置かれていた。そちらに向かって少尉殿がマサと呼ばれた男性を引っ張っていく。僕はその様子を目で追いながら、二人が直前に交わした会話に一つの疑念を抱いていた。


「……少尉殿、質問があります。もしかして、少尉殿のA3はこの河の底ですか?」


僕の呼びかけにハタと立ち止まった少尉殿は、こちらへ振り返った。


「何で分かった?三年前、私はこの近辺の上空に出現したらしいのだ。機体は完全に機能停止しててなぁ、自分が水中に落下したことも分からん有様だった。慌ててコックピットハッチを強制開放したら大量の水がドバドバ入ってきて、危うく溺死しかけたものよ」


何故か得意げに語る少尉殿に背を向けると、僕は茂みを掻き分けて河岸へと走った。平穏に流れている広大な河面を見渡してから、すぐにネットを通じて情報を探す。出てきた行政機関の調査レポートに目を通して、僕は天を仰いだ。


この流域の大部分で、最大でも3メートル程度の水深しかない。


全力で駆け戻り、僕は叫んだ。


「何やっとるんですか、少尉殿!!!」

「「ひぇええっ!!」」


ベンチに並んで座る少尉殿とマサが、完璧に揃ったタイミングで悲鳴を上げる。


「何事だ軍曹!!」

「少しシャケ吹いちゃったじゃないの!!」


口々に抗議する二人に向かって、僕の怒りはさらに加熱する。なぜかマサまで怒りの対象になっているが、そこを気にしている場合ではない。


「こんな場所にA3を放置したままなんて、少尉殿は正気ですか!?現地人に容易に回収されてしまいますよ!!」


色々と信じられない話だ。己の半身とも言うべき存在を、危うい状況のまま三年間も放置するなど。僕ならば押し寄せる不安に数日と耐えられないだろう。


僕に強く迫られて、少尉殿の顔が渋面に満ちる。彼女は唸り声を上げた後で弁解を開始した。


「そうは言うがな軍曹、河に沈んだA3の巨体を、私一人でどうこう出来るわけないだろうが」

「だとしても、何故そんなに悠長な構えなんですか!?発見されたら大変なことになりますよ!!」


必死に訴える僕に、少尉殿は呆れたような表情を浮かべた。


「三年過ぎてもまだ見つかってないじゃないか。起きてもいない事を悩んでも仕方なかろうに」


その隣で、食料を胃に納め終わったマサが同意の声を上げた。


「そうだぞ坊主。先のことばかり心配しても仕方ないぞ」


少しは心配しろバカどもが!!





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