明ける世界
「こりゃ詰んだかな、って思ったんだけど町に同じ転移者の人がいてね、助けて貰えたの。歌に飢えた人でさ、何曲か歌ったらえらく感激されて」
その人にお金を幾らか貰い、装備を整えたリーンは乗り合い馬車に乗ってもう少し大きな町を目指したのだと言う。途中の危険は全て音の攻撃で凌いだらしい。
「この時のことはあんまり思い出したくない」リーンは言った。
「何度も死にそうになったからね、一度、監禁されかけたこともあるし」とだけ補足した。
そう言えばリーンを捕まえようと追ってきていたあの連中は今、どの辺りにいるのか。彼は少しだけ気になった。
「で、イアシスに着いて、ラクタルやファンテに会って……」
焚き火の火が尽きる。暗闇が訪れるかと思われたが東の空の裾が僅かに明るくなり始めており、夜明けが近いことを知らせていた。
「ああ、寝そびれちゃったね。ごめんね長々と話しちゃって」
いつの間に過ぎていた数時間。ファンテはしかし、眠くはなかった。
「一応、この話は誰にもしないでね、ファンテ」
「ああ、分かっているよ。でも、誰も信じないだろ、これ」彼は笑う。
「ま、そうなんだけどね。念の為だ……よっ、と」
ファンテに背を見せて立ち上がり、リーンは大きく伸びをした。「あ」と言って、弾かれたように振り返る。
「そう言えばファンテの用事は何だったの?」
リーンは、元はと言えばその話を聞きたくないが為に自分の話を始めた筈だが、徹夜のせいか、今やすっかり忘れているようだった。
「あ……いや、それはな」
彼は座ったままでリーンを見上げ、何故か恥ずかしそうにした。
「大したことじゃないんだ。俺に歌を教えて欲しい、そう思っただけさ」顔を逸らした。
「何ですと」リーンは驚いた顔で固まってしまう。
夜明けは近い。こんな時間帯に聞く話としては最高だと思った。リーンの護衛として雇われ、いつしか旅の仲間になったファンテ。リーンの歌に感動はしても、歌おうとはしなかった。その彼が、まさか歌を教えて欲しいだなんて。嬉しさが胸に広がる。
――ごめんね、ファンテ。
だったら、初めに聞けば良かったよ。
「うん、うん。勿論いいよ! や、嬉しいなっ」
リーンの満面の笑み。どこかではこんな瞬間を願っていたのだろう。
――まあほんの気紛れさ。
ただ、彼女と何かを共有したいと、思ったのだ。
徐々に明けていく夜。夜明けは足下から訪れる。地面からせり上がる重い闇とそれを追いかける鮮やかな紫。境界線上に、二人はいる。手元の薄暗さをものともせず、リーンは持っていた木の枝で地面に数行の英語を書いた。英語、とはリーンからの認識。ファンテからはそもそも文字としてすら解されない。
「じゃあ、私のブレイクのきっかけになった歌をやろっか」
「ああ、何かテレビ? とかで歌ったって奴か」
「うん、そうだよ」――ちょいちょい、可愛らしい手招きに従ってファンテはリーンの隣に腰掛ける。書かれていた文字らしきものは全部で六行。
「今日は最初だけね。残りはまた今度」
いい? いくよ? リーンがまず、最初の一行を歌った。
『アイ・シー・トゥリーズ・オブ・グリーン』
耳だけが頼りだ。ファンテはとにかく繰り返した。
『レッド・ローゼス・トゥー』
リーンがこちらを向いてにこにこと歌う。ファンテも笑んで、臆せずにフレーズを追った。
『アイ・シー・ゼム・ブルーム』
彼女の顔が払暁につやつやと輝いた。出会った頃より、随分と大人びて見えた。
『フォー・ミー・アンド・ユー』
ファンテが口ずさむたび、リーンは目を丸くしていた。
『アンド・アイ・シンク・トゥ・マイセルフ』
まるで子供の成長を見守る母親のようにリーンは何度も頷く。
『ホワット・ア・ワンダフルワールド──』
リーンの歌が止む。ファンテも歌い終わり、余韻が残った。
今や二人の顔は互いにはっきりと見える。一つの夜を乗り越えるたびに新しい朝が来る。それはどの世界でも繰り返される営み。誰かと迎える朝は寂しくない。黒髪の歌手は強くそう感じる。
もう一度、今度はファンテにだけ歌ってもらう。彼は早くも何か掴んだのか、素晴らしい歌声を披露した。
「ブラボー!」
リーンが白い歯を見せて拍手した。
「や、凄いよファンテ! もしかしたらちょっと見ないくらいの逸材かも!」
ファンテは頭を掻いた。彼女が歌に関して嘘を言う訳がないのは知っている。それだけに、無性に嬉しかった。
「ありがとう。いいもんだな、歌って」
「うんうん。よし、じゃあ今度、どこかでライブをすることがあったら二人で歌おうよ!」
冗談とも本気ともつかないリーンの顔。美貌の青年は苦笑いで首を振った。
「ちょっとちょっと、お世辞じゃないんだよ? 本当に――」
「ああ、分かってるさ。少なくとも歌について、お前が嘘を言うはずがない」
「分かってくれてるならいいよ。まあ考えといて」彼女はにこやかに応じた。
二人は自分の天幕をそれぞれ片付け、リーンの持つ魔法具、魔法の鞄に詰める。彼女が肩から提げた小さな魔法の鞄はあらゆる物理法則を無視し、全ての荷物を呑み込んだ。
「さっきの曲は何て言うんだ」
「ワンダフル・ワールド。サッチモの名曲」
「歌詞の意味は?」その質問にリーンはちっちっち、と彼の顔の前で自分の人差し指を振ってみせた。
「意味なんか要らないのよこの曲には。心で感じて欲しい」
リーンは彼に優しい眼差しを向けた。
「ね、ファンテ。歌ってみてどうだった?」
彼は腕組みする。ワンダフル・ワールドと言う言葉の意味はさっぱりだったが、歌っている時、何だかとてもわくわくしたのは確かだ。心が温かくなって、前を向いて両手を大きく広げたくなるような、そんな曲だと思った。
「――そうだな。お前の言う通りだ」
でしょ? どや顔のリーンにファンテは歯を見せて笑う。自分の背嚢を背負う。南の方角を瞬時に割り出す。そちらへ向けて歩き出した。
「そろそろ行こうか、リーン」
「あ、待って待って」彼女はファンテの横に並んで歩く。
リーンたっての希望で、この旅は基本的には徒歩だ。最初は馬で行こうと言ったファンテだが、徒歩の旅も悪くないとこの頃では思っている。食料なら魔法の鞄にいくらでも詰めておけるし、何より自分の足で歩く世界は。
すっかり明けた空が鮮烈に青く広がる。真っ白な雲が線状に、二人の行く先へ足早に流れていく。爽やかな空気が広野を渡る。風には匂いがある。少し前からその匂いは変わっている。きっと海が近い。
ファンテは空を見上げた。
――世界は無限だ。どこまで行っても終わりがない。
そう――こんなにも。
「こんなにも素晴らしい世界、か……」
ぽつりと呟いたファンテ、驚いて目を見開くリーン。嘘、英語なんて分からないでしょ、なのにどうして。よく分からないことを言ってファンテの前に回り込み、じっと彼の目を見た。状況が飲み込めていないファンテのきょとんとした顔。普段の彼からは想像もつかない落差に、リーンは思わず吹き出してしまった。
これでお終いです。
ありがとうございました。