武道館ライブ――リーン、異世界に降り立つ
この日の収録で思いがけないことが起きた。バラエティ番組のMCがリーンの事をよく知っていたのだ。
エンディングの収録中にMCは閃いた顔をした。
「歌が上手いって事だけど、今ここで何か歌ってみてよ」
男はにこやかだ。リーンは立ち上がる。
――何でもいいのか。
デビュー曲を歌えと頭の中で冷静なリーンが指示を出す。正直、あの歌は二度と歌いたくなかった。何の深みも広がりもない、小さな水たまりのような歌だから。ではなくて、もっとこう、広くて、雄大で……。
ひな壇で立ち上がる。リーンはふっと息を吸い込んだ。歌い出す。初め、にやにやと成り行きを見守っていた他のタレント達は、スイッチが切り替わるように驚愕の表情へ。
ワンコーラス歌い終わるリーン。一礼して誰の顔も見ずに着席。MCの拍手が孤独に響く。番組はそのまま終了した。
番組が放送されたのは次の週の深夜。リーンは見もしなかった。あの場で歌えたことは良かったがそれだけだ。何も変わりはしない。
はずだった。
火がついたのはSNSからだ。番組でのリーンの歌唱シーンだけを切り取り、誰かがアップロードした。瞬く内に再生回数が百万を超え、彼女は一躍時の人になった。そうなれば現金なもので入ってくる仕事は歌番組中心にがらりと変わる。リーンはマネージャーや事務所の言うことに耳を貸さないことにした。デビュー曲を歌えだって? 冗談じゃない。彼女は自分で詩を書き、曲を書き、SNSにアップした。そのどれもが驚異的な再生回数を叩き出し、事務所は何も言わなくなった。
そこからはとんとん拍子だった。今まで何がリーンを苦しめていたのかもう分からなくなるほどに。すでに要素は揃っていて、必要だったのは確かなきっかけだったのかも知れない。
何度もライブやツアーを演った。その度に動員記録を更新した。
一年が経ちリーンは十六になった。母親ももう何も言わなくなった。リーンの稼ぎはとっくに母親のそれを凌いでいた。
彼女が十六になって間もない頃。
「ぶ、武道館?」
マネージャーはにこにこと頷いた。十代での単独ライブ。別に珍しくもないだろうがリーンにとっては一大事。
――勿論、怖い。だけど、やる。
リーンはマネージャーの両肩を掴んでぶんぶんと揺すり、力強く承諾した。ライブは半年後、秋の初めに決まった。
春の荒野。焚き火を囲む歌手と戦士。
――あ、思った通りの顔してる。
戦士の顔にリーンは苦く笑う。
「あー、大丈夫? ファンテ。質問、聞こうか?」
美貌の青年は目をぱちくりとさせた。
「リーン、お前は嘗て裕福だった。歌は昔から上手い。で、前はここじゃない世界にいた、ってことは理解した」
「凄い。その通りです」リーンは感心する。
「……ギデオンさんやガッシュさんも同じなのか」
ファンテはこの旅で出会った人の名を口にした。
「そう、私は転移者って呼んでる。実は一回死んでるから転生かも、とかはまあいいとして。だって顔も同じだし、記憶もそのままだしね」
リーンは独り言のように呟いた。
「えーと、なんの話だっけ……そうそう、まず、ギデオンさんは私と同じ時代の人だね。んで、ガッシュさんは……はっきりしたことは言えないけど、ちょっと昔の人だと思う」
――つまり、別の世界から来たのは変わらないとしても、時間軸は異なるのか。
「ブドーカン、て所はそんなに凄いのか。そこで歌うってのは」
「そだね。どのくらいかと言うと……ええと、何て言うんだっけ、お城で王様の前で戦う」
「御前試合?」
「それそれ、その試合で十年連続優勝するくらい名誉なことよ」
自分のイメージの限り、ファンテは彼女と高揚感を共有出来た。
「で、それからどうなったんだ」
ファンテの問い。リーンは話を続ける。
秋。武道館は大盛況だった。
「みんな、ありがとねー!」
地鳴りのような歓声。会場が揺れる。リーンはステージを縦横無尽に駆け、歌った。
心の底から嬉しさがこみ上げた。きっとこれからは何もかも上手く行く。歌うのは楽しいし、幸せだし、私はこれを手放したりしない。そう、これからもずっと――。
ライブ終盤だった。
観客のつんざくような悲鳴と、轟音を聞いたのは覚えている。何かが降ってきた。見上げた目に、巨大なスポットライトの光が入って視界が真っ白になり、すぐさま真っ暗になった。
リーンの意識はそこで途切れた。
長い夜だと思った。ずっと暗く、いつまでも明けないから。やがてリーンは怖い想像をした。もしかして、この夜はもう。
――ずっと、夜のまま?
リーンは泣いた。
――こんなに暗い夜の中、どうしたらいいの?
それとも。
――私に出来ることはもう、何もないの?
「あ……」
目を覚ましたリーンは自分が仰向けに寝ているのに驚く。身体を起こす。滲んでいた涙を拭いた。咄嗟にどこにいるか分からなかった。自分は今、武道館で歌っていたはずだ。それにしては辺りが静かすぎた。正確には音は聞こえるが、とても小さくなっていた。リーンは見回し――愕然とした。
一面の荒野だ。まばらに生えた背の低い叢が風にそよいでいた。座り直す。胡座を掻いて改めて周囲を確認すると、遠くに石壁のようなものがものが見えた。
――石壁? 何でそんなものが。
自分の服装が変わっている。麻だろうか、ごわごわした長袖のシャツに同系のズボン。手には柔らかい布で出来たベージュ色のマントを持っていた。
混乱が深まっていく。とにかく落ち着こうとは思うが、中々上手く行かない。武道館での最後の記憶が蘇った。
――そうだ、照明ユニットが。
私の頭上に。
身震いした。じゃあ――死んだのか。
きっとそうだ。ここは死後の世界なんだ。
リーンは両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
――何もかも、上手く行くと思ったのに。
悲しいと言うよりはびっくりしている。だが、死んだことに変わりはない。母はどうなるのだろう。武道館でお客さんはショックを受けていないだろうか。願わくば照明ユニットの下に私はいなくて、無理のある状況だとしても失踪扱いになっていて欲しい。悲しくても希望のある、状況に。
――どうかお願いします、神様。
両手を合わせ目を閉じ、長く祈った。
――さて。いつまでもこうしちゃ居られない。
立ち上がった。手を庇にして遠くを見た限りでは石壁以外、他には何もない。ふらふらと歩き出す。取り敢えず石壁に向けて。
――きっとここは、知らない世界。
自分の身にこんな事が起きるとは、にわかに信じ難い。
とは言え、吹きすさぶ風の温度や匂い。踏みしめる足から伝わる土の感触。吸い込む度に肺が驚くほどの澄んだ空気。それら全てが告げる。ここが紛れもなく、異世界であると。
近付いてきた石壁は、町の一部だった。壁に取り囲まれた町がある。リーンはとにかくそこを目指した。