柚葉
煙るような雨だった。
「朝陽」
私の呼びかけに、彼は答えなかった。聞こえなかったのかもしれない。音もなく降り続ける霧雨が、墓石の前で立ち尽くす彼を濡らしていた。
「朝陽、風邪引くよ」
私もまた、立ち尽くしていた。動けなかった。妹の墓をじっと見つめる背中を、見守ることしかできなかった。傘を差している自分が卑怯だと思うのに、投げ捨てることさえできなかった。
妹が、柚葉が車に轢かれた。そんな現実味のない電話がかかってきてから、気付けばこんなに時間が過ぎてしまった。つい昨日まで一緒に通学していた気がするのに、これからも、私が高校を卒業するまで続くと思っていたのに、そんな日常はとっくに終わっていた。ここは、あの子がいない世界。あの子に伝えたいことがあっても、届かない世界。だから、彼も動けずにいるのだろうと思った。
「朝陽」
「……実佳」
消えそうなほど、小さな声だった。自分の名前でさえなければ、聞き逃していたかもしれない。
「実佳、俺」
振り向いた幼馴染は、こわばった顔を無理矢理動かすように呟いた。
「俺、どうすればよかったかな」
「……朝陽」
「こんなことになるんなら、俺、断らないで、一緒にいればよかったかな」
『今日はね、駅前のカフェに誘うつもりなの。ふふ、お姉ちゃん知らない? カップル限定メニューで有名なところなんだよ』
弱々しく吐かれた彼の声に、妹の声が脳裏をよぎる。それは場違いなほど、悪戯っぽく弾んだ声だった。
朝陽に告白したの、と柚葉が耳打ちしてきたのは、つい先日のことだった。目を見開いた私をあの子は心底おかしそうに笑って、でも振られちゃった、と続けた。妹としか見れないんだって、と。
『だから、言ったの。一週間でいいから、私のこと、女の子として見れるか試してみて、って。二人きりで出かけたりしゃべったりしてみて、それでダメだったら諦めるから、って』
『……そんなに、好きなの?』
『まあ、意地みたいなものかな。分かってたけど、やっぱりちょっと悔しくて』
柚葉は一度目を伏せて、でも、と私に笑いかけた。
『迷惑かけるつもりはないし、無理に誘うつもりもないよ。それに、ダメだったらすぐ吹っ切って、お姉ちゃんが羨ましがるくらいイケメンで優しい人を見つけてみせるからね!』
「……朝陽は、柚葉のこと」
思わず言いかけて、口をつぐんだ。私が聞いていいことではないと思った。けれど朝陽は迷うことなく言った。
「妹だと思ってるよ。告白される前も、後も。だから、……だから、応えられなかった」
でも、と目を伏せた彼は、ちいさく息を吐いた。
「もし、俺が一緒にいてあげていたら。少しでも、応えてあげていたら。そしたら……そしたら少しは、変わっていたかもしれないと、思ってさ」
それは、答えの出ない問いだった。あり得たかもしれない、今より最善かもしれない未来。
私はそっと問いかけた。
「……もし、時間が巻き戻ったとしたら、柚葉と一緒に行くの?」
朝陽は顔を上げて、目を瞬かせた。音もない雨が降り注ぐ。どのくらい時間が経ったのか、ほんの一瞬だったのか、あの日から時間感覚を失った私には分からなかった。
「ああ……行けないな、それでも」
顔を歪めて、朝陽は懺悔するように呟いた。
「そっか、そうだな、行けない。行けないから……たぶん、事故に遭わないように、三人でゲーセンでも行こうって誘う」
朝陽の言葉が、じわり、と心にしみこんでいく。それは、幼馴染の私たちにはありふれていた提案で、繰り返した光景で、馬鹿みたいな日常だった。
ふふ、と感情が零れる。零れたら止まらなくなって、私は震えながら俯いた。私の引きつったような声だけが響く世界で、いくつもの雫が、雨粒に紛れて落ちていく。そんなぼやけた視界に、見慣れたスニーカーが映った。
「実佳」
さっきまで柚葉のそばにいた彼が、私の濡れた目元を拭った。私は堪えきれずに呟いた。
「最低、だね」
「実佳」
「朝陽も、……私、も」
彼の答えに安堵してしまったことが心の底から苦しくて、申し訳なくて、呻いた。臆病な私は、今も一歩だって踏み出せないのに、どうしたって柚葉を応援することができないのだ。
「柚葉」
私の、大切な、ただ一人の妹。
「柚葉」
もう何も届かない、何も伝えられない妹。
「どうして……どうして、柚葉」
あの子は何も悪くないのに。不幸にも巻き込まれてしまっただけなのに。それなのにどうして、これからの未来に、柚葉はいないのだろう。どうして私は、柚葉に謝ることすら、できなかったのだろう。
朝陽が、嗚咽の止まらない私の頭を撫でた。いつの間にか傘も彼の手に渡っていて、自分の卑怯さに嫌気がさす。
それでも、いつか。
雨が止んで、動かないこの足が、心が、少しでも軽くなったなら。
あなたに顔向けできるように、ちゃんと伝えるから。
もう届かない誓いを抱き締めて、私は泣き続けた。