第12話 獣の旅立ち
母親は、いつものように娘と遊んでいた。
娘も、いつものように無邪気に笑っている。
いつもの、そう、昨日までの、そして今朝までの光景と変わらない。
ただ、母親の顔色だけが、蝋のように白い。
顔にかかる髪だけが、燃え上がるように赤く見えた。
娘に見せていない背中からは止めどなく血が溢れ、床の血溜まりはじりじりと、今も面積を増やし続けている。
父親と目が合うと、母親はあやすように娘に語りかける。
「さて、ルーナ。
もう、お母さんは遊んであげられない。
これからルーナは、お父さんと遠くまでお出かけするのよ。お母さんはお留守番しているから」
「えーっ、一緒に行こうよー」
「ごめんね、ルーナ。
行けないの」
娘の顔が歪む。
涙がこぼれ、泣きながら母親にしがみつく。
おそらくは、幼いながらも、なにかを予感しているのだ。
母親は、娘を抱え上げ、笑いかけながら抱きしめてその耳を塞ぐ。そして、父親に向けて言った。
「まさか、見えないところからいきなり撃つとはね。そして、その弾が当たるだなんて、さすがに予想外だった。
あなた、ルーナと銀貨を持ってすぐに発って。
さっきの狩人が犬を連れて戻ってきたら、言い逃れができなくなる。一家皆殺しよ。
私は、この家に火を放って、私自身を焼き尽くすから」
「ローゼ、そんなことできるわけが……」
そう言う父親の唇と膝は、ともに止めどなく震えていた。
「ごめんね。
あまり話していられない。
私、もう保たない。
……私がこの家、それにカイコの病気も持っていく。
だから、次の場所でのカイコは、もう病気には罹らないと思うよ。
そしてあなたが、ルーナを幸せにするの」
「俺は、俺は……。
俺の寿命はあまりに短い。
ローゼ、お前がいないと、ルーナはずっと独りに……」
父親は、なおも訴えかけた。
母親は、その訴えを無視して強く言う。
「急いでっ!
ルーナに、この家が燃えるところを見せたいの?
せめて、一尾根超えて、この家が直接見えなくなるまでの時間を考えてよっ!」
「ローゼ……」
「ほら、あなた、ルーナを受け取って。
あなたなら大丈夫。安心して任せられる。
それから、これ。私がC.R.C.から貰った、組織の紋章。
運が良ければ、誰かに見つけてもらえて、援助もしてもらえるかもしれない。
生き別れた母だって、いつか会えるかもしれない。
だから、今は逃げて」
母親は、蒼白をこえて土気色の顔色のまま、底光る眼で父親を見やる。
父親も、その眼を正面から見返した。
二呼吸の間が流れた。
歯を食いしばり、下唇を噛み破った父親の口の端から血がにじむ。
「ローゼ。
愛してる。
また会おうな」
「ええ、あなた。
いつまでも待っている。
また会いましょうね」
父親は、娘を抱き取ると、ポケットに銀貨と紋章をねじ込み、走り出した。
それ以外、なに一つ持ち出さず、着の身着のままに。
娘は父親の腕の中、叫ぶかのように泣きだす。
その悲痛な泣き声が遠ざかっていくのを聞きながら、母親は灯火の油、食用の油を床と壁に撒きだした。その油の上に、すでにほとんど身体から流れ尽くしてしまった血の残余が降りかかる。
家の出入口まで油を撒き、いつもの自分の居場所、台所まで戻って、ついに母親は床に崩れ落ちた。
残された最後の力で腕を上げ、震える指先で床に撒かれた油を、竈の残り火まで引き伸ばす。
引かれた向きとは逆向きに、油の線に沿って火が走り出した。
もはや、母親の目は、その炎を映すだけの力を残していなかった。
唇だけが、最後に動いた。
「……さようなら、あなた。
さようなら、ルーナ」
次話、獣、教婦になる
に続きます。




