参 【市場にて】
◆◆◆
「……まったくよう、とんでもないことになっちまったよな」
「なんでも、大将軍が蛮国に攻め込むと見せかけて、手勢を率いて王宮に突入したらしい」
「その割には、ここは静かだったじゃないか?」
「王宮内の衛兵も同調したらしい。大司尉と、将軍が結託したって話だ。王宮の裏手から山を伝って攻めたらしいぜ。ともかく、たった一晩で、王宮は占拠されちまって、陛下とお妃様は行方知れずなんだってよ」
「でもよー。王様が生きていたら、この先、将軍と戦うってことだろ?」
「まあ……。そうなる前に、そろそろ、都から逃げ出す準備でもしとくかねえ」
―――大司尉が、陶大将軍と手を組んだ……らしい。
大司尉、偉 伯豹は、国内においての軍事の最高責任者だ。
軍事方面の権力者二人が手を結んだとすると、やはり今回のエスティア出兵に対する不満が大きかった……ということだろうか。
(…………陛下とお妃さまは行方不明中……と)
洒落にならないことを言い合って、対岸の火事のように、笑い合っている商人の姿が眩しく見える。
花影は憂鬱な溜息を、乾いた風の中に零した。
都の大通りに沿うようにして、設けられた市場は一見、活気を取り戻しているかのように見えた。
――陶大将軍の突然の叛乱から、三日経過している。
将軍二人からの突然の攻勢に、小鈴の実家の浅氏が都から逃げ去った以外は、不気味なくらい都は静かだった。
陶大将軍は、民衆には一切手出しをしない触れを出したきり、黙り込んだままだ。
民衆は逞しいもので、いつどうなるのか不安を抱きつつ、逃げる算段をしながらも、日常を続けている。
現在、花影たちは、都の郊外にある丁李の実家に身を寄せていた。
勿論、小鈴の実家がある呂県を目指すことも考えたが、その方向は陶大将軍が差し向けた兵士たちが大勢いるだろうことは、明白である。
わざわざ捕まりに行くような危険を冒すより、しばらく身を潜めた方が良いだろうと、丁李と話して決めた。
今のところ、危惧していた追手は、やって来る気配はない。
きっと陶大将軍は小鈴よりも、王と妃の行方を追っているのだろう。
しかし、油断は禁物だ。
今日は曇天で、視界が悪いために、花影の容姿も頭からすっぽり襟巻で覆うだけで、隠し通せているが、これから先は分からない。
今、この時だからこそ、大人しくしていなければならないのだ。
……それなのに。
「もう、我慢できないわっ! お腹が減った」
子供のように、体をじたばたさせながら、小鈴が怒鳴った。
(あれだけ、変装するように言ったのに、目立ってどうするんだろう?)
大きな襟巻で、顔半分を隠している花影とは、真逆に小鈴は堂々としている。
(珠水殿とは、本当に性格が正反対だわ……)
――三日前。
宋 珠水は街の大通りに出たところで、凌星とは正反対に、あっさり過ぎるほど淡泊に、ここまでの約束だからと、去って行った。
(あの潔さも、正直かなり不気味だったけど……)
珠水がどのようにして屋敷に帰ったのかは謎だが、この辺りの土地勘はあるようだった。
よほど、庶民の生活に溶け込んでいるようだが、名門、宋家の娘の教育法を、花影が知る由もない。
しかし、この娘の教育法だけは、父親の浅 泰全に意見したいところだった。
「一体、いつまで待たせる気なのよ。一日終わっちゃうじゃないの?」
「むしろ、人生を終わらせようとしているのは、貴方のその大声というか、態度というか」
「何ですって!」
こういう時だけ、地獄耳なのも、困りものだ。
体にばかり栄養が回って、精神面の成長が遅れてしまったのだろうか……。
小鈴がもう少し自分の立場をわきまえて、大人しく留守番ができる性分だったら、花影だって危険を冒してまで、彼女を連れて市場になど来ないだろう。
どうしても、そうせざるを得なかったのは……。
「貴方ねえ! わたくしの持参金で、買っているんでしょうがっ!」
それだった。……それしかなかった。
元々、裕福ではない丁李の実家が、いきなり押しかけた三人分の食費を賄えるはずがないのだ。
当然のことをしているだけなのに、小鈴は恩着せがましい。
「しかし、買い物には相応に時間がかかるのです」
「食品以外にも買っていたじゃないの」
「あれは、私のお金で薬の原料を買っていたのです」
「薬?」
「これから先のことが不透明な分、収入を得る手段くらいは持っておかないと……」
あっけなく、日常が崩れ去ってしまった。
未だに悪夢を見ているような気分だったが、先々のことは考えておかなければならない。
学司の知恵を活かして、子供たちに物を教えるということも考えたが、このご時世に子供なんて集まりはしないだろう。
だったら、持っている知識を活かして、風邪薬などを作り、売りさばいた方が効率も良い。
花影は、自分の薬は自分で煎じている。
効能には自信があった。
今日は、その下見も兼ねて、市場に来ているのだが、そんなことを説明したところで、小鈴には、きっと理解できないに決まっている。
「……そんなに待てないのなら、私に、少しお金を託して下されば良いのに」
「何よ。元々、貴方の持参金が少ないから、こんなことになってるんじゃないの? 学司なんだから、もう少し蓄えがあるんだと思っていたわ」
――と、そこで、小鈴の怒声に、二人組の兵士がこちらを睥睨した。
この時分、甲冑を纏って市井を巡回している兵士なんて、陶大将軍側の人間に決まっている。
(…………いけない)
治安悪化を恐れて、大将軍が定期的に街を巡回させているのだ。
どくんどくんと、心臓が跳ねた。
さすがに、花影だけではなく、小鈴もまずいと思ったのだろう。
二人して黙り込み、身を小さくした。
しばらく無言で、硬直していたら、兵士たちは結局何事もなかったかのように、通り過ぎて行った。
「……ああ、びっくりした」
小鈴が怯えを吹っ切るように、両腕を擦っていた。
「小鈴殿。これからは、声量を抑えて話しましょうか……」
「ねえ? せめて、饅頭くらい買ってくれてもいいじゃない?」
忠告しているそばから、これだ。
「貴方って人はねえ」
あれで、どうして懲りないのか……。
小鈴は味にうるさいくせして、食い意地が張っている。
白い湯気と、甘い小豆の香りに、すっかり魅了されていた。
「駄目ですよ。ちゃんと朝食は召し上がったでしょう?」
「昼食の時間がすっかり過ぎているのよ。だったら、早く帰して頂戴」
「私の買い物は終わりましたが、凌星殿が戻って来ないのです。待たなくても良いかもしれませんが、今日の戦利品を託したままなので、それだけは回収して帰らないと」
「……戦利品って?」
「米と野菜と、味噌とか……」
「…………馬鹿じゃないの。どうして、あいつに渡しちゃったのよ」
「それは…………」
ぐうの音も出ない。
口達者な凌星に乗せられてしまったのだ。
完ぺきに、花影の落ち度である。
「面目ないです」
素直に頭を下げると、小鈴は延々と凌星の悪口を喋り出した。
(初めて会った時と、ずいぶん態度が変わったわよね……)
共同生活二日目にして、やっと凌星が男であることを知った小鈴は、それに気づかなかった自分が恥ずかしいのか、彼に対する態度が一段と傲慢になっていた。
花影も彼に対しては、いかにも弱みを握っているふうに脅された為、気持ちは複雑だった。
(私がエスティアの血を引いているのを知っているからって、何なんだろう?)
王宮ならともかく、市井にはそういう人間だって、いないことはないのだ。
別に、何ていうことはないはずだ。
付いて来る凌星を、拒否することも出来たはずなのに……。
しかし、それが出来なかったのは、彼が時折ちらりと垣間見せる凄味と迫力。
凌星のまとっているどこか懐かしい雰囲気だった。
少し前に、出会ったことはなかったかと尋ねたら『口説き文句にしては、古い』と茶化されてしまったのだが……。
どうしても、突き放せない何かが彼にはあるのだ。
「それで、その男女は、一体何処に消えたのよ?」
「それが……先ほど、すぐに戻って来ると言って、どこかに消えてしまったんですよね」
「はああっ!? どうして、追いかけなかったのよ?」
「この人ごみですよ。手持ちの荷物も重いし、貴方はあさっての方向に行ってしまうし、追うに追えなかったんですよ」
「言い訳は、見苦しいわよ!」
「はあ……」
それも小鈴が正しい。
反論できずにいると、次の瞬間、小鈴は不気味な笑顔を浮かべていた。
「じゃあ、饅頭食べながら、時間を潰しましょう。戻って来るとは言っていたんでしょう」
――やはり、饅頭なのか……。
「凌星殿もですけど……。貴方も、私にとって、さっぱり、分からない人です」
「どういう意味よ?」
「どうもこうも……。この地を去った、お父様や、お姉様は心配ではないのですか?」
「ああ、別に」
小鈴は遠い目をしながら、あっさり答えた。
「お父様は大丈夫でしょうよ。姉さまだって、さっき逃げたって、誰かが話していたから、命は助かったんでしょう」
「ですが、本当に無事なのかどうかは、まだ分からないんですよ?」
「でもねえ……。正直、わたくし、姉さまとは離れて育ったから、これっぽっちも情がないのよ。これから、後宮に入って陛下の御子を生む予定だったのよ。血は同じでも、むしろ敵対する人になるんでしょうし……」
「…………それは、大変なご関係ですね」
「今回は残念だけど、陛下がご存命であれば、再びわたくしに好機もあるでしょう」
「そうですか」
……残念……なのか。
国王は、姉妹で争うほど素晴らしい人物ではない。
遠目で何度か、国王の姿を見たことがある花影だからこそ、断言できる。
前国王の弟なので、年齢こそ少し若いが、覇気はなく、大人しい印象だ。まるで、人形のように浅氏に使われているだけだ。
あのいかにも虚弱そうな国王が、逃避行など出来るのだろうか?
「さっ、饅頭……。饅頭を買うわよ!」
「……あっ! ちょっと待って下さい!」
花影の隙を利用して、小鈴は人をかきわけ、饅頭の屋台に走って行ってしまった。
(小鈴殿一人では、買い物は出来ない……)
慌てて、花影は彼女を追いかける。
「代金は、これでお願い」
案の定、懐から金色の塊を突き出してきた小鈴に、店主が首を傾げていた。
「はっ? 何だい。姉ちゃん……これは?」
「お金だけど?」
「はっ、これが?」
「小鈴殿」
隣に並び立った花影が自分の財布から、銅銭一枚を取り出した。
「す、すいません。これでお願いできますか!」
「お、おう……」
店主は首をひねりながら、そのお金を受け取る。小鈴だけが納得いかないようだった。
「ちょっと、どういうことよ?」
「どうもこうも……貴方は、余りに世間のことを知らな過ぎるんです」
「はっ」
目くじらを立てている小鈴に、花影は嫌々耳打ちをした。
「いいですか。ここは庶民の集う市場なのです。庶民の通貨は銅が基本です。貴方の金貨は大きすぎる。ちゃんと両替商で両替した上で使わないと。お金の価値すら、認めてくれませんよ」
「……そんなに、面倒なことなの」
「はい。本当に面倒なことばかりです」
世の常識をお嬢様に教えるのは、大変な作業だ。
通常では、考えられないことばかりしでかしてくれる。
饅頭を頬張りながら、小鈴は正直に感想を言い放った。
「…………やっぱり、微妙な味だわ」
だったら、買わなければ良いのに……と言い返したいところを、花影はぐっと我慢した。
一体、凌星は何処に行ってしまったのか……。
頼んで、一緒にいてもらっているわけでもないのだ。
彼に託した味噌や希少な米は勿体ないが、さっさと先に帰ってしまおうか……。
(でも、さすがに、それは、冷たすぎるかしら?)
もっとも、そんなことを、まともに考えている時点で、花影はどうかしているのだ。
――と、そこに。