壱 【隠し通路と過去】
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花影が市井に出る日は、大体、雨か雪の日だった。
誰も外に出たがらない日に、母は花影を枯れ井戸から、外の世界に連れ出した。
王宮内の本の知識だけでは、本当の意味で賢くなれないというのが、母の口癖だった。
『教養が身を助けるの。花影。貴方は、一人でも生きられるようにならなければいけない』
きつく繋がれた手は、しかし、いつも冷たかった。
抑揚のない平淡な声は、彼女が感情を押し殺しているからだと、花影は物心ついてから、気がついた。
苛烈な生き方をしているのは、母の方なのに、それをずっと隠しているような気がする。
黒い頭巾は、その象徴だった。
母の素顔を知っていても、いつも頭巾をかぶっているように、本当の顔が見えないのだ。
――私のお父さんは、誰なの?
――どうして、お母さんは、顔を隠してまで、仕事をしているの?
――何で、私を引き取って、自分と同じように、育てようとしているの?
問いかけようとしても、親子の間には巨大な壁があって、近寄ることすら出来ないのだ。
市井に出た時、花影を丁李の実家に預けた母は誰かと会っていたようだが、花影はそれが誰だったのか、ついぞ教えてもらえなかった。
まるで囚人のように、娘にすら、心を閉ざして、学司をしていた人。
(なぜ、あの人は、隠し通路を伝って、逃げようとしなかったのだろう?)
学司は、稼げる仕事だ。
相応の金を手にしたら、隠棲することだって出来たはずだ。
体を壊してまで、続ける仕事ではなかったのに……。
十五年近く傍にいたのに、ついぞ分からなかった母の本心。
いまわの際に、うわ言のように謝っていた母の姿を目の当たりにしても、花影は泣くことすら出来なかった。
―――強く生きなければ……。
いつの間にか、母と同じ黒い頭巾で、花影は感情を隠すようになってしまった。
我知らず、母と同じようになってしまったのだ。
―――きっと、このまま、白い雪の中に閉ざされたまま、終わる人生なのだと、今日のこの時まで、花影は降る雪の静けさのように、独り思っていたのだった。