伍 【後宮からの脱出】
「お・そ・いぞっ!」
「分かってますって」
階下で聞こえる大音は、図書塔に、兵士の手が入っている証拠だ。
(急がなきゃ……)
頭巾をしたまま、全力疾走は不可能だったが、出来る限り小走りになって、花影は皆を裏門の方に誘導した。
分かりづらい構造になっている王宮は、内部に暮らす人間以外、知らない道が多数存在する。
十五年間の王宮暮らしで身に着いた知恵を、この時こそ重宝したことはない。
特に静かな場所を好む花影は、人気のない道を、よく知っていた。
おかげで、兵士たちの息遣い、足音はするものの、遭遇することなく、図書搭から、王宮の最果ての地まで案内することができた。
「やっぱり……あんた凄いな」
凌星は、素直に感動しているらしい。
「すべて、母から聞いたことですよ。私の知識じゃありませんから」
「それにしたって。天下の王宮に、こんなところがあるなんてさ……」
花影が伝えた情報をもとに、前を進む凌星は、歩きづらい格好であるにも関わらず、息切れ一つしていない。
雪をかきわけながら、明かりのない道をずんずん進んでいる。
王宮の中心地はともかく、ここまで来ると、雪は降ったままの状態で残っている。
昼間も日陰なので、ほとんど溶けていないようだった。
「いっそ、このまま歩いていたら、外に出られるんじゃないの?」
「それは……ありません。王宮は、巨大な外壁に囲まれています。四方八方から攻められにくい構造になっているのです」
酸欠で息を乱しながらも、黙っていられない。
そんな花影を一瞥しつつ、ふわりと微笑した凌星は、しみじみ頷いた。
「そうか……。まあ、国主の住まう場所だもんな。単純な造りはしてないんだろう」
「その先に、枯れ井戸があるはずです。縄が伝っているので、それを使って地下通路に出れば、外界に抜けられるんです」
「それは、すごいな」
「ねえ、本当に行かなきゃ駄目? 今からでも、戻ったら?」
「小鈴殿は先程、率先して行こうとしてましたよね?」
花影が呆れながら言うと、小鈴は喧嘩口調で答えた。
「仕方ないでしょう。あの状況で行かないなんて言えないし、あの舞妓さんがこんなんだって分からなかったし」
「あー、やはり、何も考えてなかったんですね……」
「なによ。たかだか学司の分際で、偉そうに」
「はっ、ここまで来て、怖気づいてるガキに言われたくないよなあ」
「凌星殿……」
「ねえ? 本当に貴方は、あの舞妓さんと同一人物なの?」
「舞妓の方が偽りだ。これが俺の素の顔だ」
「まあ! 俺……なんて……。なんと口の悪い。貴方、一体、どういう育てられ方されたのよ?」
「あのー……お静かに」
渋々、丁李が二人の間に立った。
誰よりも訳が分からないままに巻き込まれている、年少の丁李が一番冷静だというのが痛ましい。
凌星も小鈴も、まるで子供のような口論だ。
(子供……か)
懸命に頭巾を押さえながら、花影はふと先程の詞を思い出していた。
「そういえば、今朝、小鈴殿が書いた詩の一節についてなんですけど……貴方は子供時代……」
「はあっ!? なに? それ、ここでする話なの?」
ああ、そうだった。
怒鳴られて、納得した。
この点に関しては、小鈴が正しい。
育てられ方と聞いて、花影は、つい彼女の詩のことを思い出してしまったのだ。
「先生……」
丁李がつんつんと、花影の袖を引っ張った。
「おかしいですね」
――遠く、井戸の前に明かりが見える。
自然現象で、燭台に灯がともるはずがないのだ。
「どうしましょうか?」
「どうするも何も……」
「戻るの?」
してやったりとばかりに、小鈴が飛び跳ねる。
まあ、本人が戻りたいなら、戻っても良いのだが……。
しかし、凌星の次の言葉で、状況は一変した。
「でも、あれ……兵士じゃない。女だな」
「えっ」
残念なことに、花影にはまだ人影すら見えていなかった。
だが、丁李には特定できたのだろう。
はっとして、口元を押さえた。
「どうしたのです?」
「先生、よく見て下さい。あの子……分かりませんか?」
「えっ?」
視界が悪い。
でも、丁李に導かれるまま、前方に目を凝らした瞬間…………。
井戸の方から飛んできた雪玉が、花影の顔面に見事に命中したのだった。