陸 【銀花、煌めく】
「今、この時から、あんたを俺の正一品の貴妃に迎える。これからは、名を花叡と改めろ。花叡の「叡」は「叡智」の「叡」だ。かつての瓏国の王、叡台っていう偉い王様から一字をもらったんだ。不服はないだろう?」
「………………ちょっと……待って下さい」
「待たない」
言ってから、凌星は顔を真っ赤にして、うつむいた。
けれど、花影の頬に当てた手は、離してくれない。
彼の緊張が触れられた頰から、花影の全身に伝っていくようだった。
「貴妃っていうのが、嫌かもしれないけど、光西は瓏国の一領土に過ぎないだろ。他領には後宮なんてものもないし、一夫一妻制だ。妻はあんた一人でいい。あんたがこの先、俺の子供を生めば、そのまま正妃だ。それで、手を打ってくれないかな」
「仰っている意味がよく……」
「求婚しているんだろう」
「……………血迷ったとしか」
思っていたことが、そのまま声に出ていたらしい。
凌星が片眉を吊り上げていた。
「じゃあ、俺が今日あんたを呼んだのは、何だと思ってたんだよ?」
「どちらかといえば、官女として、ここに留まれというお達しの方を、強く疑っていました」
「つまり、ほんの少しは俺の妃になる可能性は、考えてくれてたんだな?」
……どうして、彼はいつも前向きなのだろうか?
「凌星殿。貴方はせっかく見た目が、光西人として生まれたのです。その幸運を活かして、名門貴族の令嬢を妃にお迎えし、しかるべき血筋を残すべきではないのですか?」
「くだらない。俺が決めたんだ。異論は認めない」
「で、ですが……」
「却下だ」
「……しかし」
「駄目……。却下」
「…………凌星殿」
「光西の領主、慧公として、俺は唯 花影に命じているんだ。断ることなんて許さない。あんたが俺に教えてくれたんだろ。領主としての権力の使い方を……」
「教えちゃいませんよ。そんなこと!」
目を逸らした花影の額に、凌星は茶目っ気たっぷりに笑いながら、自分の額を押しつけてきた。強引なところは、相変わらずだ。
「エスティア系がなんだって言うんだよ? 今、エスティアは瓏国を上回るくらい、増長している。この緊迫していく情勢の中で、見た目の差別をするなんて馬鹿げているだろ。今、瓏国内でもエスティア系が多く在住している領地の領主と、情報交換をしている。……あんたが俺の妃になるように、根回しは済んでいるんだ」
「まさか、それで……貴方は、いろんなところの領主とお会いになっていたんですか?」
「それだけじゃないけどな。でも、あんたのことは、何より重要なことだから。王宮に呼んでも、あんたが、がっかりしないような地盤作りを早急に進めるには、光西以外の領地の意見も重要だった。俺の妃で迎えなきゃ、あんたの気持ちには、応えられないだろう?」
「私の気持ちって……」
「だから、好きなんだろ? いい加減認めろよ」
圧倒的な輝きを放つ漆黒の瞳が、鼻がくっつくほど、花影の近くにある。
半年分の二人の距離を、凌星は瞬く間に縮めてしまう。
もう二度と会うことはないと思っていた花影の諦念など、軽く吹き飛ばしてしまうのだ。
(…………恐ろしい人)
以前よりも、はるかに成長している凌星から、逃げ出すことなんて、もはや花影には出来そうもなかった。
泣きそうになって、押し黙っていると、念押しのように、凌星は花影に言った。
「聞いたんだよ。あんた呂県から去る時……顛川で、ずっと泣いていたんだってな。俺と離れるのが、そんなに辛かったのか?」
「あ、あれは!!」
違うと言いかけて、花影は耳まで赤く染めた。
一体……誰が告げ口をしたのかと、頭の中で色々考えるが、心当たりが丁李か慈念の二択から、先に進むことはできなかった。
「あの時の私は、熱があって……」
「はいはいはい」
生温かい反応の凌星に、妙な対抗心から花影も黙っていられなくなった。
「わ、私だって、小鈴殿から聞きましたよ。凌星殿が玄瑞様と大司政との交渉の時に、私の……なんか違う話ばかりしていて、大司政は呆れて、交渉なんかどうでも良くなったとか……」
「えっ? あの時の交渉のことか? おかしいな。俺、とっても良いことを言ったような気がするんだけど?」
「小鈴殿は、そう仰っていませんでした。むしろ、後世に残る傷ましい歴史だそうで」
小鈴曰く、泰全が有事に備えて、連れていた刺客も、凌星が惚気話をしながら、にやにやしているので、毒気が抜かれて撤収となったらしい。
「重要な交渉の時に、貴方は一体何を考えてたんですか?」
「夕暮れ時の光仙の森を見てたら、あんたと一緒にいたかったなーって、感傷的になっちまってさ。まあ、結果的に和睦が早まったなら、良いじゃないか」
「今回が、幸運だっただけですよ」
「だったら、こんな俺を光西の主なんかにしたあんたの責任だ。幸運が続くように、ちゃんと近くで監視してろよ」
「監視……」
……と、ぽつりと言葉をなぞったら、花影は肩から力が抜けたような気がした。
(そうよね。どうせ、この気持ちは……生涯、付きまとう……)
もしかしたら、頑なな自分を納得させる落としどころを、花影は探していたのかもしれない。
「……そ……うですね」
ふわりと呟いた。
「……監視……しましょうか。貴方の近くで……ずっと。他でもない、慧公の主命ですから」
「えっ?」
「…………降参です。凌星殿。私も、ずっと貴方のことを想っていました」
「………本……当……に?」
はい……と、自分を追い込むつもりで、深めに頷いてみせると、凌星はみるみる染み入るような笑みを顔一杯に広げていった。
………駄目だ。
そんな凌星のことが、身を焦がすほどに、花影は好きなのだ。
半年前よりも、ずっと……遥かに……。
本当に、彼を失いたくないのは、花影の方だ。
(もし、この人を失う苦痛を味わうくらいなら、何もなかったことにしようと思っていたのに……)
凌星は苦労を重ねた末、花影を追いかけて来てくれた。
(嬉しくないはず……ないじゃない)
上手く言葉で表現できない自分が、もどかしいくらいだった。
そんな、複雑な花影の内心など、お構いなしに、凌星はややしてから、無言で顔をずらすと、突然、花影の唇を奪おうとした。
「ちょっ……と、いきなり、何をしているんですか。貴方は……!?」
驚いた花影は、反射的に身をよじって、凌星の胸を押し返す。
平然としている凌星は、まだ行為を諦めてないようだった。
「ここが、何処なのか、分かっているんですか?」
「別に、少しばかり喜びを態度で表現するくらい……いいだろ?」
「良くないですから」
「………………好きだよ。花影」
「えっ」
……ぐっと切実さを帯びた声音に、花影は完全に不意打ちを食らった。
その間隙を利用して、凌星が攫うようにして、花影を抱きしめる。
彼の伸びた黒髪が、首筋にあたって、くすぐったかった。
「あんたが変わらずにいてくれて、良かった。俺も……ずっと、好きで、心配だった。今まで、いろんな人に頼んで、あんたを見てもらってたけど、それでも、さすがに半年だからさ。悪い男がつくんじゃないかって、怖かった。……雪己なんか、あんたをここに呼ぶのは、銀花が咲いた頃の方が、雰囲気出るんじゃないですか……とか、適当なこと言いやがったんだぜ。俺は……すぐにでも、あんたに会いたかったのに……」
「今までの強気は一体……?」
「でも、たとえ……あんたに男がいようが、俺には関係ないからな。とりあえず、王宮に呼び寄せて、一から好きになってもらえば良いかと思ってた」
「素晴らしく、強気ですね」
呆れながら、花影は凌星の今の言葉を反芻した。
おそらく、凌星は慈念と丁李、両者とも交流があったのだ。そう考えれば、花影が顛河で泣いたことが凌星に伝わっていたことも、先程の丁李の別れの言葉も頷ける。
彼らは、いずれ、こうなることが分かっていたに違いない。
まったく気づけなかった花影は、情けなさで一杯だった。
凌星のことに関しては、何の考えも及ばないのだ。
「さて、あんたが俺を好きだと言ってくれたことだし、ここは寒くなってきたから、二人の部屋で暖まろうか……。花影」
「はっ?」
告白と寒さと二人の部屋に行くことが花影の脳内で、まともに繋がらなかった。
凌星が浮かべている艶めいた笑みが、この上なく胡散臭く見えてしまうのは、きっと花影の本能的なものだろう。
「貴方、まさか……。真昼間から、いかがわしいことを考えてはいませんよね?」
「いかがわしい? なぜだ? 俺には健全な欲望しかないぞ」
「やはり、考えてるんじゃないですか?」
「夫婦になるんだから、いいだろ。そういえば、あんた呂県では場所がいけないとか言ってたか。なるほど、場所と雰囲気と夜……だな。分かった。俺……ちゃんと、あんたの要望に応えるから」
「何が……?」
しかし、凌星はそれには答えず、不気味な上機嫌のまま、花影の痛いところを突いてきた。
「……後悔するなよって、俺、呂県であんたに言ったよな。あんた……これから、大変だぜ」
「だから、何を……?」
自分は、とんでもない青年を良人にしようとしているらしい。
(これからのことなんか、考えたら、私……倒れてしまうかも……)
凌星は今まで離れていた分を埋めようとするかのように、花影の肩にずっと顔を埋めたままだった。
やっと離れたと思ったら、今度は指を絡めてくる。
どうしても、彼は花影とくっついていたいようだった。
「婚姻については、大々的に光西中に触れを出したいけど、あんたの気持ちに合わせよう。みんなに祝福されるよう、俺も務める。それよりさ、まず……花影と色々話したいんだ。俺の半年分の苦労話は、一生、聞いてもらうことにして……」
「……一生ですか」
「こないだは、一年分だったけど、あんた逃げたからな。罰として一生だ」
「…………やっぱり、私のこと地味に恨んでますよね?」
「まあ、それはそれとして……。生前の唯 流月について、あんたの口から話を聞きたいんだ。光仙の実を他領から取り寄せたから、二人で食べながらさ。とりあえず、あんたに、似合う着替えを用意させて……」
「結構ですって。私は、これが仕事着なんですから」
花影は、頑として首を横に振り続けたが、しかし、凌星にはまるで通用しなかった。
「その格好じゃ……違うんだよ」
「はっ?」
そして、彼は花影の髪を撫でながら、片手を懐に入れると、布の中から、器用に銀花を象った赤い房のついた簪を取り出した。
以前と同じように、花影の髪の一部をまとめると、慣れた手つきで、横からひょいと簪を挿す。
「似合うな。やっぱり」
凌星が、感慨深げに目を細めた。
「この銀花の簪は、俺があんたにやったんだ。二度とあんなふうに、置いていくなよ」
「私の……」
「あんたのものだ」
晩秋の陽射しに照らされて、銀花の簪が花影の髪の中で、燦然と輝いている。
その煌めきが、花影には怖かった。
「……銀花には………毒があるのに」
最後の抵抗で、小声で呟く。
初めて、紫陽と流月が出会った……凌星と花影を引き合わせた、銀花の低木を横目に捉えながら……。
だけど、凌星はそれらを一切飲みこんで、悠然と答えるのだ。
「俺には、それくらいが丁度良い」
そうして、花影の銀髪に口づけると、陶然と囁いた。
「………………きれいだ」
―――その瞬間から……。
花影は『唯 花叡』となった。
瓏の都、維領より北西の冷たい雪の大地、光西の領主 慧 紫晴の片腕として、唯一の妃として、表舞台に終生、立ち続けることになるのだった。
――銀花、煌めく――
【 了 】




