玖 【光仙と涙】
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昨夜の暴雨が嘘のように、顛河の流れは、穏やかだった。
船着き場に到着した瞬間に、花影を待っていたのは、丁李と千李、そして慈念だった。
烈山がわざわざ、ここに迎えに来るよう、誘導したらしい。
(何と言う……腹黒なんだろう)
せめて、花影が寂しくならないようにとの配慮のつもりなのだろうか……?
彼女たちとは、もう少し都寄りの街で合流するつもりでいたのだ。
(そこまで、私、子供に見えるのかしら?)
確かに、一人で向かうのは、時間を持て余す。
川の流れが早いので、上流に向かう船は、陸から人力で引っ張る仕組みとなっていた。
それを見越して、慈念の船は呂県と礼県の境に置いたままなのだそうだ。
(まあ、いいか。流れに身を任せるということで)
凌星が追いかけて来ることは、二度とない。
彼と一緒にいた目まぐるしい時間が嘘のように、密やかな時が戻ってきたようだった。
対岸の山々の新緑の色が、そのまま水面を染めていた。濃緑の水の上に、ひらりと舞い落ちた一枚の若葉を目で追う。
火照った頬は、水場の近くに置いておくと癒されるようだった。
乗合船であったが、水辺に近い後ろの席を花影は陣取っていた。
「先生……。本当に良かったんですか? 一泊くらいなら、呂県で出来たんですよ。わざわざ水嵩の多い日に、船旅なんかしなくったって」
「本当に……無理ばかりなさるから、また熱が出るんですよ」
二人して、同じような顔をして怒っているが、それも心配の証だ。
まんまと烈山の思惑にはまってるようだが、賑やかなのが、今の花影には有難かった。
「…………あの、千李さん、丁李」
「はい、何でしょう? 先生」
丁李が姿勢を正し、その隣の千李が身を乗り出していた。
「私の都合で迷惑ばかりかけていて、申し訳ないのですが……都に戻りがてら、ゆっくりと旅に出ませんか?」
「…………えっ?」
突然の申し出に、丁李が目を見開いた。
船が左右に傾きながら、進む。
音がうるさいが、舞い上がる水しぶきが気持ち良かった。
「ずっと王宮にひきこもってばかりでしたから、私は世間のことを知らないのです。この機に色々と知りたいと思って。旅に出てみようかと……。慈念さんと途中で別れたら、エスティアの近くにも行ってみたいと思います」
「すごいっ! 楽しそうじゃないですか。ぜひ!!」
「あら、花影さんは最初から、そのつもりだったんじゃないですか……」
「……すいません」
千李には、見抜かれていたらしい。
どうせ、すぐに都に戻ることは出来ないのだ。凌星の邪魔になってしまう訳にはいかない。
「行きましょうよ。三人で」
千李の呼びかけに、花影は口の端を上げた。
(――親子三人で……か)
目尻に皺を寄せた千李が、愛おしそうに花影の髪を撫でた。
千李こそが花影の実母であり、丁李が実妹であることは、当分、丁李には知らせるつもりはなかった。
いつか時が来たら、話す時が訪れるだろう。
その時までには、千李との距離感も近くなっているはずだ。
――終わった……と、花影は波が引いては返す水際を眺めた。
こちらの春が伝染するように、王都は温かくなっているはずだ。
単純な話とはならないだろうが、きっと、顛河の河川工事は、秋を目途に大司天が主導して進めてくれるだろう。
「……あれ? 花影さん。……それで、凌星殿とは一体何処で待ち合わせているんだよ?」
「はっ?」
物珍しいからと、船着場付近のあちこちを偵察して戻って来た慈念が、空気を読まずに、尋ねてきた。
丁李と千李があえて触れないことを、わざわざ踏み込んで来るのだから、さすがだ。
「慈念さん、残念ながら、あの方は多忙な方なので、もう会うことはないんですよ」
苦笑しながら答えると、慈念は…………
「えっ、嘘だろ。いくら偉い人だからって、あんなに必死だったんだぜ。あんたのことを想って一途に……」
考えなしに、凌星の想いを代弁する。
そんな言葉一つに、花影の心はじんわりとした痛みを覚えてしまうのだ。
「……そのことは……よく……知っています」
声を詰まらせながら、かろうじて回答した。
彼を嗾けたのは、花影の方だ。
そして、今頃彼は陶親子に詰め寄られて、光西の主の座に就かざるを得ない状況を迎えているはずだ。
それが彼の本意でないことを知っているくせに、花影は自己満足のために、無責任に放り投げて来てしまった。
「大丈夫かい? 花影さん、顔が真っ青だぞ」
「へ、平気ですよ。このくらい……」
慌てて頭を横に振ると「ああ、そうだ」と慈念が肩掛けの鞄の中から、黄色い丸い実を花影の前に出した。
「待っている間にさ、都で余り見かけない果物だと思って買ってみたんだよ。これをあげよう。熱に効くんじゃないかな?」
「…………あっ」
花影は思わず、息を止めた。
「…………光……仙」
「えっ?」
「これ、光仙の実です」
「へえ……そんな名前なんだ」
無精ひげを撫でながら、きょとんとしている慈念に軽く礼を述べた花影は、光仙を貰い受けて一口だけ齧った。
しかし、あれほど切望していた光仙の味は、まるでよく分からない。
(何で……?)
もう一口齧っても、同じだった。
むしろ、塩気を感じるくらい……。
「……先生?」
……と、丁李が花影の手を強く掴んだ。
「大丈夫ですか?」
一体、何を言っているのだろうと思ったら、ぽたぽたと、自分の頬を伝って手の上に零れ落ちている涙の存在を知った。
(ああ、そうか……)
泣いているから、味がよく分からなかったのだ。
「そうよね……こんなんじゃ、分かりっこないわ……」
銀花のことをすべて知った時も、命の危険があった時も、凌星と別れた時だって、涙一つ零れなかったのに、こんなことで自分は泣くらしい。
熱のせいだと、言い訳を重ねながら、花影は止まらなくなった涙を、顛河の緑の水面に、落とし続けたのだった。




