肆 【周庵の頼み】
◆◆◆
「花影! 花影はおるか!」
声だけを先に飛ばしてきてから、少し遅れて、花影の私室に駆け付けた周庵は、全身煤だらけだった。
「柳先生?」
「ああ、ちょっとここに来る途中で、火鉢を倒してしまっての」
「大丈夫ですか?」
さすがに、長年の付き合いをしている周庵は、気づいたのだろう。
「君の方こそ、大丈夫なのか? 花影」
汚れてしまった白髭を擦りながら、問い返して来た。
周庵が花影を気遣うという時点で、きっと相当、おかしいことになっているのだろう。
「とりあえず、大変な事態だということだけは理解できましたが……」
「それで良い。それよりもだな……その」
そこで周庵は、目を細めた。
老いたとはいえ、長年学司長を務めた鋭い眼差しを凌星に送る。
「どうして、先ほどの舞妓がここにおるのじゃ?」
「柳先生……。それに関しては、説明すると、長くなってしまうのです」
「手短に出来んかの?」
「成り行きです」
「…………おお、非常に、分かりやすい答えじゃな」
周庵は凌星を見据えたまま、何事か考え込むように腕組みをしたが、すぐに我に戻って、袖口で顔の煤を払いながら、倒れこむように座りこんだ。
「まあ良い。とにかく、陶大将軍が兵を率いて、王宮に雪崩れ込んできた。すでに後宮まで手が伸びておる。私の生涯においても、一番の大事件だ」
「柳先生、陛下は?」
「一介の学司長如きに、陛下やお妃さまの安否など知らせてくれぬよ。私にも、何が何なのか、分からぬ状態だ。今のところ、抵抗しない限りは、手荒な真似はされてないようじゃ。特に女や年寄りには……な」
「では、ここで大人しくしていた方が得策ということですね」
花影は肩の力を抜いて、文机に背中を預けた。
きちんと話したことはないが、陶大将軍とは多少面識もある。
清廉潔白と名高い将軍が、か弱い後宮の娘や学司に手を掛けることはないだろう。
丁李の捕えられたという証言も、女性や年寄りの身を案じて、保護しただけではないのか。
どちらかというと、恐慌状態の後宮の衛兵の方が怖いくらいだ。
――しかし。
「いや……」
周庵は首を横に振り、白い眉を寄せた。
それは花影にとって、想定外の反応だった。
「実は……私からのお願いなんだが、花影、丁李。君たちは、ここから逃げてくれまいか?」
「………………はっ?」
脱力した拍子に、斜めにずれてしまった頭巾を、花影は慌てて直した。
「どうしてです? 将軍と相対した方が安全なら、むしろ、ここから動く方が危ないと思いますが?」
「君は、外界に抜ける道について、知っておるじゃろう?」
「それは…………知っていますけど」
王宮には、幾多の外界に通じている隠し通路がある。
周庵から母に、母から花影にと受け継がれてきた隠し通路は、母が亡くなった際、極秘で遺体を荼毘に付すために、使用したこともあった。
しかし、花影がここから命懸けで、逃げなくてはいけない理由が見当たらない。
「柳先生。私は学司です。務めを果たさず、自分だけ逃げるのもどうかと思いますが?」
「私は君だけに逃げろと言っているのではない。私的なことで頼みたいことがあるのだ」
周庵は、背後に目配せした。
侍女に付き添われて、よろけながら花影の前に姿を見せたのは……浅 小鈴だった。
「この子のことを、君に託したいのだ」
花影は、ごくりと息をのんだ。
つい今まで彼女の詩について考えていた。
当の本人がここにいるのが何とも不思議な気持ちがする。
…………だが、まあ合点はいった。
そういうことかと、周庵の思惑は、手に取るように分かった。
「そうでした。失念していましたが、八之宮で一番命が危険なのは、彼女でしたね」
「うむ。他に安心して、この子を託せる者がおらんのだ。君を信頼して、この子を頼みたい」
それが、周庵にとって最良の策だったのだ。
浅家と柳家は、親戚同士。
女性と年寄りには優しい陶大将軍も、彼女に対しては、何をするのか分からないのだろう。
学司は花影一人ではない。
他に男性もいるが、一番立場が不安定で断りにくいのは、花影くらいなものである。
「時間がない。花影、決めてくれ。今回のことが落ち着いた時、君のことは、必ず私が責任を持って、ちゃんとするから」
「そうは、言われましても……」
「君には、市井の人間に知り合いもおるだろう?」
「…………知り合い……というか」
丁李の母親くらいしか、親しくはしていない。
多分、彼女に頼れば、助けてくれるだろうと打算は働いていたが、しかし、小鈴を引き取るということは、周囲の人間も危険に晒しかねないということだ。
周庵には世話になっているが、この仕事がすべてを投げ打つことに値するのだろうか……。
(大体、当の本人がね……)
小鈴は、自分のことなのに、不機嫌な表情のまま無言で突っ立たままだ。
いつもの華美な装いとは真逆の地味な灰色の着物姿に、総髪姿。
侍女よりも見劣りする着物に、本人も恥ずかしいのだろう。
拳を握って、捻りだした言葉は……。
「やっぱり、柳のおじ様。わたくしは、ここに残ります!」
――案の定だった。
周庵は間を置かず、憤怒の表情で一喝した。
「何を言うておるっ! 小鈴!!」
花影は初めて、この老人が声を荒げるところを目の当たりにした。
それほどの危急な事態だというのに、小鈴は、まるで分かっていないのだ。
「だ、だって! 陶大将軍が陛下を殺したってことは、次の国王は将軍なんでしょ? わたくしが王妃になれば、それでよろしいじゃないの?」
「…………すっごい、めちゃくちゃな主張ですね」
「明鈴姉さまだって、前の王の妃から、今の王の妃になったんだもの。わたくしだって、出来ないことはないわ」
それは事実だ。
小蘭の姉の明鈴は、元々、前国王の妃で正一品の位にいた。
その後、現国王の寵愛を受けて正妃となったのだ。
しかし、そんな幸運が今回も巡って来るとは、到底思えない。
「……柳先生……ご本人がそう仰っていますけど、どうします?」
「すまないのう。どうも、親の躾が至ってないようじゃ」
周庵は、沈痛な表情を浮かべていた。
遠縁なので、彼女の教育に関しては、あまり口出しできなかったようだ。
だが、それでも、周庵はこの子憎たらしい娘が可愛いのだろう。
「だからな……君にはそれも含めて、お願いしたいのじゃ」
「とてつもない重労働になると思うので、もう少し、考える時間を頂きたいのですが?」
「残念ながら、その答えを待っていたら、陶大将軍に、ここが見つかってしまうだろう」
「……そうですよね」
困った。
何の呪いが発動しているのだろう。
断ることも、快諾することも出来やしない。
「嫌よ。絶対に嫌! こんな黒ずくめの薄気味悪い人と一緒にいたくないもの! たった九十日の講義だけの辛抱だって、父様が言うから耐えてきたけど、講義以外で一緒にいるのは、嫌。病気持ちなんでしょ。伝染したら、どうするのよ!」
「えっ?」
「絶対にイヤ!」
小鈴が大声で喚き散らす。
いつも静かで涼やかな笑みを浮かべていたが、内心がそれだったとは、がっかりだ。
「あの……別に、私は病気なんて持っていませんけど?」
「いいえ! みんな、そう言っているわ。病気で、顔を見せることが出来ないんだって」
「はあ……。それは初耳です。そんな面白い噂が出回っていたのですね?」
「だから、絶対に、わたくしに近寄らないで!」
「あのなあ……」
――と、横からぬっと間に入ったのは、まったく無関係な第三者、凌星だった。
「いい加減にしろよな。クソガキっ!」
「きゃあっ!!」
そして、凌星は小鈴の袖を勢いよく掴んだ。
「黙って聞いてれば、胸糞悪いガキだな。時間がないんだろ。とっととしろよ」
「えっ、ちょっと、待って。貴方は……?」
下を向いていたせいで、小鈴は凌星の存在には、気づいていなかったのだろう。
やがて頬を赤く染めた小鈴は、分かりやすいくらい単純に彼に微笑みかけた。
「あら? 先ほどの綺麗な舞妓じゃないの。貴方がわたくしを連れて行ってくれるの?」
「連れ出すもなにも、こっちも外に出たいんだよ」
「じゃあ、貴方が一緒なら、外に出るまでは一緒に行ってあげても良くてよ」
「へえ……」
凌星があからさまに嘲笑を浮かべている。
小鈴はそれに気づいていないのか、がぜんやる気になっていた。
「さ、行きましょ」
「………………はっ?」
まさか、そうくるとは……。
(そんな、あっさりと……いいのかしら?)
凌星の虜になってしまった小鈴は、早速自分から彼を廊下に連れ出してしまった。
(小鈴殿は、あの人のことを、男だと気づいているのかしら?)
いや、あの様子だと何も気づいてはないのだろう。
「ちゃっかり宴に参加していたのですね……。小鈴様は」
丁李が呟いた。妃の妹というコネを最大限に利用したようだ。
花影は、あきれ果てていた。
しかも、今日は一日中頭巾姿で、頭痛も酷くなっている。
半ば放心状態で取り残されていると、扉の横から、凌星がひょいと顔を出した。
「おい、何ぼさっとしてんだよ。あんたが来なきゃ始まらんだろう。隠し通路を教えろよ」
「貴方は、どうして、ついて来る気満々なんですか?」
「えっ、俺もとっとと逃げたいし」
――絶対に、何かがおかしい。
(だって、凌星殿が逃げる必要性はなくなったんじゃないの?)
むしろ、陶大将軍と合流した方が良いはずなのに、花影と一緒に行くつもりなのだ。
「なあ、花影……。あの女装した舞妓は、陶大将軍の配下なのか?」
周庵の問いかけに、花影は溜息しか出なかった。
「それが分からないから、困っているんですよ」
「敵ではなさそうだが……な。どうも」
「怪しいの一言ですよ。あの人がいて、私たちは逃げ切れるかどうか……」
「……そうじゃなあ。あの舞妓。どこかで見た気もするしなあ。あれは、どこだったか……」
「えっ?」
……が、その答えが出る前に、激しい物音が階下で轟いた。
「花影……?」
周庵が慌てて、腰を浮かせる。
本当に時間がなさそうだ。
「分かってますって。どうせ、答えは、最初から決まっていましたからね」
もし、花影が顔を明らかにして、出生のことを話す羽目になったら、学司の仕事は、きっと罷免されてしまうだろう。
――だったら、ここで王宮を出るのも同じではないか……。
「丁李。頼めますか?」
「もちろんです。行きましょう。先生!」
「助かります。……柳先生。では、またいずれ……」
「ああ、申し訳ないが、よろしく頼んだぞ。花影」
申し訳ないと、本当に思っているのか、いないのか……。
複雑な気分に襲われていたら、今度こそ廊下の先から凌星の怒声が響いた。