漆 【二人の朝】
◆◆◆
凌星が浅い眠りから目を覚ましたのは、花影が丁度、衝立を使って着替えを終えた頃だった。
勢いよく、硬い床から上体を起こした凌星は、きょろきょろ不安そうに周囲を見渡してから、窓際にいた花影の姿を発見して、はあっと息を吐いた。
「……一瞬、いなくなったのかと」
「ええ……。私、信用ないですからね」
透かし窓から差し込む、きらきらした日差しが、今日は快晴だと告げていた。
花影が朝焼けの中に佇んでいると、吸い寄せられるようにして、凌星がしがみついてきた。
「…………一体、どうしたんです?」
「ちゃんと、あんたが、ここにいるんだなって……」
「凌星殿って、子供のようなところがありますよね……」
「何とでも言えよ。ちゃっかり着替えてるし、俺を置いてどっか行くつもりだったんじゃないだろうな?」
「朝一番で、出発するって、貴方が言っていたんですよ。このままだと追いつかれると思って、身支度を早めたのです」
「…………まあ、完全に寝坊しているけどな」
いつもの黒服を、浅氏の別邸に置いて来てしまった花影は、昨夜の侍女の姿のままだ。
明るい水色の深衣は、まだ乾ききっていないが、ちゃんと絞って干しておいた為か、濡れているのが気にならない程度には、なっていた。
「昨日は言いそびれたけど、侍女の格好もなかなか良いな。可愛いよ」
「また、朝から歯の浮くようなことを……」
「朝じゃなきゃいいのかよ? 可愛いと思ったんだから、いいだろって……ああ、そうだ」
凌星は懐から紫色の絹布を取り出すと、それを広げた。
……金色の簪。
流月の形見だった。
彼はいつもそれを持ち歩いているらしい。
「……ほら、これを、挿したらいい」
「いや、待って下さい。これは、貴方の……」
「男の俺が持っていたって、意味ないだろ。本当は、昨夜髪を梳かしてる時に挿してあげようと思ったんだけど、寝る前だったしな。俺、何するか分からなかったし……」
何だか後半は、よく聞き取れなかったが、凌星の手つきは、慣れたものだった。
花影の髪を左右からたっぷり取って、ぐるぐると、お団子を作るとあっという間にそこに簪を挿して、完成させてしまった。
(母様が、紫陽様から頂いた……簪)
変な気分だ。
流月の簪が、花影を女性らしくしているのかと思うと、むず痒くなってしまう。
「うん……。結い上げると、綺麗な銀髪が台無しになっちまうからな。下ろしていた方がいいよな」
「凌星殿って、女性の髪の扱いが、手慣れていますね……」
「何だよ。もしかして嫉妬か?」
以前にも感じたことだが、嫉妬だとして、凌星が喜んでいる理由が、花影には分からない。
「どうして、凌星殿は嬉しそうなんですか?」
怪訝に問うと、凌星は笑顔を崩さずに、さらっと答えた。
「嬉しいに決まってるだろ。あんたが俺のことを男として意識してくれてるんだぜ。それに、あんたとずっと一緒だって思ったら、これ以上ないくらい、幸せだよ」
「……ああ、なる……ほど」
「相変わらず、薄い反応だな」
唇を尖らせている凌星に、掛ける言葉が見当たらない。
単純に花影は、経験がないだけだ。
彼の直情的な思いに、どう反応して良いのか分からない。
(この人は、本気で私のことを……)
少し遅れて察すると、花影は真っ赤になって、凌星から視線をそらすしかなかった。
八角形の窓から見える外の景色は、二日前と変わらない。
朝日の中には、燦然と輝く黄仙の森があって、宝石のような輝きを放つ池があった。
「……絶景だな。これを見るだけでも、価値があるかも」
どうしても、花影に触れていないと気が済まないのか、凌星が花影の肩を抱き寄せる。
「そうですね」
……綺麗だ。
黄仙がたわわに実っている美しい風景を、凌星と見ることが出来ただけでも、奇跡的なことかもしれない。
花影はこの景色を一生忘れまいと、脳裏に焼きつけるつもりで目を細めた。
「夕暮れ時も、また違った美しさがあるでしょうね」
「そうなのか?」
「何となく……。黄仙の実が黄色なので、橙色の日差しにも映えると思ったのです」
「そうか……。でも、もう一泊は、無理だしな……」
「もちろん、そうです。急がないと……。本当は早々に支度をして、貴方を起こして、すぐにでも行かなければ……と思ったんです。私はせっかちな性分なので……」
「ああ、知ってる。早く行こう。俺もすぐに支度するから……」
「いえ……。それが、思いの他、体が動かなくて」
「…………はっ?」
花影は、小さく溜息を落とした。
「私、雨に濡れたせいか、ちょっと熱っぽいのです」
「……何だって!?」
凌星が花影を身体ごと自分に引き寄せて、額に手をやると、苦い表情を浮かべた。
彼の計画が狂ったからではない。
凌星は、心底花影を心配しているのだ。
「熱……あるな。前ほど高くないけど……。ごめん。俺、今まで……気付かなかった。大丈夫か?」
「このくらい平気ですよ。でも、少し……くらくらしてしまって」
「昨夜、濡れたままだったからな。ちゃんと、養生しておけば良かったな。もう少し、俺が密着して……だな」
「いや、全面的に私の体調管理が行き届いてなかったせいです」
花影が素直に詫びると、凌星がじろりと睨んでいた。
「あんたさ、もしかして、俺が来る前も、無理ばかりしてたんじゃないか。前も、夜更しばかりしてたし、毒だって舐めちまうし。……その、不摂生。いきなり来るからな。毎回、あんたの健康不安を考えてたら、俺の方が早死にしちまうよ。もう少し自分を労わってくれよな」
「面目ないです」
「とりあえず、同じ場所にいたら、見つかりやすいだろうし、場所を移そうか。そんなに高い熱じゃないから、一日寝てれば……て、熱あるのに半乾きの衣を着ていたら、駄目だろ」
「……ああ」
「あとで何か衣を借りようか……。俺も、さすがに女装ばかりしてられないしな」
「凌星……殿」
「ん?」
正直に発熱のことを告白したら、花影の身体が自覚したのか、目がとろんと重くなってきた。
「お願いがあるのです……」
「…………あんたが、俺に?」
あからさまに、驚愕しているのは、彼にとって、それが非現実的なことに思えたからだろう。
出会ってから、花影が凌星に頼んだことなど、一度もなかった。
「な、な、何だ?」
よほど、とんでもないことを言われるのだろうかと、明らかに身構えている凌星だったが……。
「…………私……黄仙の実が食べてみたいのです」
その一言に、面白いくらい、がっくりとよろけた。
「えっ? ああ、あの……あそこに生っている実か。貴族様は観賞用にしているもんだと思うけど……。あれが良いのか?」
「風邪に、よく効くらしいです。都では出回ってなくて……」
「……まあ、甘酸っぱいから、体には良さそうだけど」
……ということは、凌星は食したことがあるのだろう。
戸惑っている凌星がおかしくて、花影はくすくす笑いながら、自分の髪に輝いている銀花の簪をなぞった。
「昔……母が……流月が、風邪をひいた私に、あの実を食べさせてくれたことがあったんです。今、思うと、あれが唯一の親子らしい時間だったのかもしれません。……あの時、私、緊張していて、味を……よく覚えてないんです。でも、すぐに治ったので、多分効果があったんだと思います」
「……花影」
凌星は前から覆い重なるように、花影を抱擁した。
嫌がる理由もない。
花影は彼の背中に手を回して、目をつむった。
「本当は自分で買いに行こうかと思ったのですが、思うように体が動かなくて……。呂県の何処でも売っているのなら、凌星殿……あれを買ってきてもらうこと……出来ませんか? あれを食べたら、きっと動けるようになると思うんです」
「…………一緒に、買いに行こう」
「動けないから、頼んでいるのですよ。……でも、ここの店の亭主さんだったら、丁度庭先になっているようなものですし、少しだけでも売らずに持っているかもしれません」
「…………本当に、それだけか? まさか、あんた何か企んでなんかないよな?」
「この状態で、私が何を企むことが出来るんです? それとも、お金が足りないのでしたら……」
「それくらいは、あるって……」
「凌星殿……」
熱で潤んだ瞳を向けると、観念したのか、凌星は何度も頷いた。
「……はい、はい、はい。分かった。聞いてくる。瞬く間に帰って来るからな」
「頼みます」
「いいか! 絶対にそこから動くなよ。脱いだ寝間着でも羽織って、温かくして待ってろ」
「はい」
殊勝に頭を下げた花影を見届けて、一瞬出て行ったと思ったら、凌星はまた顔を覗かせた。
「やっぱり、もう一泊しようか。あんたの体調が最優先だからな。花影」
「…………ありがとうございます」
花影が微笑を浮かべると、太陽のような笑顔を見せて、凌星は出て行った。
ぱたぱたと廊下を走る音がしたから、きっと亭主に掛け合いに行ったのだろう。
亭主がいる母屋は、入口に近い。
ここに泊まったことのある花影は、この店の間取りを頭に入れていた。
(隠し通路は、確か……)
窓際に寄りかかっていた花影は、すぐ横の棚を横にずらして、予め小鈴から聞いていた隠し通路の扉を首尾よく開けた。
折よく、微熱が出たのは良かった。
もし、花影の体調に異変がなかったら、凌星を騙すことなど出来なかっただろう。
――凌星が花影を信じないことは、前提だった。
おそらく、彼は花影の態度に不審を抱き、ここの亭主が黄仙を持っていようが、いまいが構わず、訊くだけ訊いたら、走って花影のいる部屋に戻ろうとするだろう。とりあえず、義務は果たした……と。
……しかし、すでに追手は『黄見亭』に来ているのだ。
花影以上に付き合いの長い、烈山と雪己が、凌星を見逃すはずがない。
「さあ……行かないと」
急がなければならないと、慌ててその場を去ろうとしたが……その直前。
黄金色の日差しがぱあっと伸びて、花影の頭にある銀花の簪を一際輝かせた。
(ああ、いけない。これは……)
これは、凌星のものだ。
(私のものではないんだから……)
花影はそっと自分の髪から簪を抜くと、部屋の奥の鏡台の上にそっと置いた。
(さよなら……)
簪に残っていた温かい感触を忘れようと、花影は小走りになった。
通路の扉を内側から閉めると、棚が自然に戻ったことが分かって、素晴らしく徹底したつくりだと、苦笑した。
さすが、密談向けと小鈴が言っていただけのことはある。
薄暗いものの、何処からか自然光が入っていて、辺りは、程よく見えた。
おかげで花影は急ぎながらも、転ばずに済んだ。
小さな階段を降りてから、しばらく直進して、突き当たりの引き戸を開けると、そこはあの庭の隅だった。
眩しい日差しの下に出て、呼吸を整えていたら、鳥のさえずりが慰めのように聞こえた。
頭上は、青一色だ。
(快晴……ね。この分だと、船も大丈夫かもしれないわ)
とにかく、必死になって、池の横を突っ切っていたら、足元に長く伸びている影に気づいた。
「雪己……殿?」
彼もまた小鈴から、通路の存在を耳にしていたのだ。
花影がそれを使うことは、予期していたのだろう。
一つに結った髪を微風になびかせながら、花影の前に立ちふさがっていた。
「ああ、随分とお待たせしてしまったようですね。気を揉んだことでしょう?」
「別に、私は……お二人のことを見守っていたただけです。踏み込もうだなんて、思っちゃいませんでしたよ」
減らず口を叩くのは、凌星が怖いからかもしれない。
そんなふうに考えようと思ったが、雪己のこの上ないほど深刻な面持ちに、花影の心はざわついた。
「雪己殿、どうしたのですか? まさか、珠水殿が……!?」
「いいえ、彼女はぴんぴんしています」
「じゃあ……浅氏との争いが……?」
「その件でしたら、想定内ですよ。浅氏の別邸前で依然、小競り合いが続いていますが、我々の方が優勢です。民衆に化けているので、浅氏側を見事に攪乱してくれています。元々大司尉の指揮下の精鋭隊ですからね。私達が指示しなくても、ちゃんとやってくれるんですよ」
「それなら、良いのですが……」
では、何だろうと、花影は首を傾げている。
雪己は、凌星を光西の王に据えたいはずだ。
ならば、何も困ったことなど、ないはずではないか?
「今朝は、珠水殿も貴方に会いたがっていましたが、今回だけは待っていてもらうことにしました。貴方がどういう選択をするのか……彼女も一緒にいたら、介入してくるかもしれませんから」
「介入……とは、穏やかではないですね」
花影は作り笑いを浮かべながら、肩を竦めてみせたが、雪己はにこりともしてくれなかった。いつもながら仄暗い物思いに沈んでいる。
「今、凌星殿の方には……?」
「父が行っています。私ではあの御方を確保できないでしょうから……以前より、時が来たらと、父に頼んでおりました」
「万全の態勢ですね。私が貴方がたに託した『紫陽様の遺詔』も、正しく使って頂けることを祈ります」
「…………あの……花影さん」
「はい?」
雪己は……逡巡の果てに、ようやく口を開いた。
「今更ですけど、貴方は本当にこれでいいのですか?」
「えっ?」
「他に道はなかったのでしょうか?」
やっと切り出した雪己の心の蟠りは、そんなことだったらしい。
(何だ……そんなことを気にしていたの)
花影は、再び歩き出す。
あの部屋の窓から見える位置にいたとしたら、大変だ。
「私が考えていたことを、大司尉も陶大将軍も、貴方も分かっていたはずです」
「…………しかし、これでは……貴方が」
「私のことは大丈夫です。最初から決まっていたことですから。どうぞ、あの御方に、慈念さんとの約束を果たすようにと、お伝えください」
「……慈……念さん?」
目を見開いた雪己は、子供のようなあどけない表情になった。
花影は、小さく首肯した。
「お伝えして下さったら、分かると思います」
「はあ……」
「最後に、こんなことを私が貴方に言うのも、おかしな話ですが、雪己殿。あの御方のこと…………お願いします」
頭を下げたら、下ろしていた銀髪がばさっと前に落ちた。
…………凌星が、好きだと言ってくれた髪色だ。
ふとした拍子に涙が零れないように、花影は唇をきつく結んだ。
現実の話、保守層の塊が蔓延っている王宮内で、花影が凌星の傍にいることは、どんな形であれ災厄でしかない。
それが分かっているからこそ、凌星は花影を連れて、どうしても逃げたかったのだ。
「…………これで、いいんですよ」
これから先の仕事は、彼らの手腕でどうにかなるだろう。
何とか愛想笑いを浮かべることに成功した花影は、拳を握りしめている雪己の横を、背筋を伸ばして通り過ぎて行った。




