陸 【玄瑞との対峙】
◆◆◆
審栄の街道を北上して、小さな山を登るほどの急勾配の坂の上に、泰全の別宅がある。
馬車から下りて、大きな御門を潜り、敷地に足を踏み入れると、爽やかな風の音が聞こえた。
息切れするほど、歩いたところに、豊かな森の中に埋もれるようにして、整然と建っている平屋の建物が建っていた。
「ここが?」
小鈴が首肯した。
「別宅はいくつかあって、今はここに滞在していらっしゃるわ」
「珠水殿、やはり貴方は、雪己殿と一緒にいますか?」
「ここまで来て、何を仰っているのですか……」
珠水も、意地になっているようだった。
自分付きの侍女も皆帰してしまっているのだから、危険だということは、承知しているだろうに……。
(宋氏の娘を手に掛けるほど、玄瑞も泰全も人でなしではないでしょうけど……)
巻き込んでしまったのは自分だが、それでも、花影は心配だった。
(やはり、珠水殿を返してから、決行するか……)
思案していると、当の本人、珠水から話しかけられた。
「王都では、見ない建築ですよね?」
「えっ? ええ。エスティアの影響が濃そうです。変わっていますよね」
白亜の壁紙と、青の瓦屋根は王都では、絶対に見ないものだ。
白は太陽に映え、青は空の色だ。
日差しの強いエスティアだからこそ、屋敷が輝いて見えるように、二色をよく使うと、書物で読んだことがある。
呂県も光西にあって、温暖湿潤なので、こういった建物が風土とはよく似合っていた。
(さすが、浅氏ね……)
浅氏は元々、呂県を支配していたため、泰全は世襲でこの土地を継いだはずだが、こういうものを上手く別宅として使用しているところを知ると、やはり、やり手なのかもしれない。
……だからこそ、きっと玄瑞は浅氏の手によって、厳重に護られているに違いないと、花影は覚悟していたのだが……。
実は、そんなことはなく、衛兵は疎らで、侍女の姿すら見えなかった。
それも、そのはずだと気づいたのは、歩き進めていくうちに、中廊下の奥から旋回しながら、庭に落ちた物体を目にしたからだった。
「…………何が?」
「あー…………」
小鈴が突き当りの部屋を遠慮気味に指差した。
つまり、あの部屋から、何者かが物を投げたらしい。
「今日は、駄目かも」
「駄目って……?」
その時だった。
奥の部屋から従者に抱きかかえられるようにして、部屋から妙齢の女性が飛び出してきた。
小鈴とよく似た勝気な瞳をした女性……。
花影はとっさに拱手しながら、小鈴と彼女の他の侍女の背後に隠れた。
――玄瑞の正妃、明鈴だ。
彼女のことは、花影も知っている。
たまに柳 周庵のもとを訪れていた。
乱れた髪に、幾つもの金色の簪を挿し、地が赤で襟元が紫の珍しい裙を着ていた。
図書搭にいた頃、彼女からは、どうも敵視されているような気がしてならなかったが、どうやらそれは本当だったようだ。
今なら、分かる。
彼女にとって、流月も花影も、憎しみの対象でしかなかったのだ。
――彼女は、紫陽の妃でもあったのだから……。
(まさか、こんなふうに会うなんて……)
今日もまた、きつい黒曜の眼差しが、殺気を伴って、こちらに向けられていた。
今回の対象は、流月と花影ではない。小鈴だった。
「姉さま……」
目が合ったせいだろう。
小鈴は渋々、お辞儀をした。
「なによ。その目……。わたくしを馬鹿にしても無駄よ。どうせ、貴方だって、これから大変な目に遭うのだから」
「…………」
「精々、頑張ることね。浅氏の娘として、陛下の御心を掴めるように!」
「……力の及ぶ限り、努めたいと存じます」
小鈴の回答は、感情的な明鈴と比べて、極めて冷静かつ、棒読みだった。
彼女自身、玄瑞に興味がないのだから、そんな反応になるのだろうが、明鈴にとっては生意気にしか映らないようだ。
二人の間に漂う剣呑な空気を、珠水が明鈴に挨拶することによって、崩した。
――宋氏の娘が、玄瑞の見舞いに来ている。
それが、明鈴の意地に繋がったのだろう。急に、大人しくなった。
そして、簡単に挨拶を終えた明鈴は、足早に廊下を通り過ぎようとした。……が、何を思ったのか、急に足を止めて、こちらを……花影を凝視してきたのだった。
「………そこの娘は、誰?」
「ああ、この者は新しい、わたくしの侍女です」
少しだけ、小鈴の声が上擦った。
花影は緊張を隠すように、袖で顔をなるべく隠し、無言を貫いた。
「そう……。ここはよく人がいなくなるものね」
意味深な言葉を残した明鈴は、しばらく花影を睨んでいたものの、やがて侍女を引き連れ、今度こそ去って行った。
完全に明鈴の姿が見えなくなってから、三人一斉に、安堵の息を漏らし、激しく咽せた。
明鈴の衣に薫きしめられた香りは、激しすぎるのだ。
「さて、無事に乗り切ったところで、これから、どうしましょうか?」
珠水が、花影に目配せをする。
中廊下の半分くらいの場所で、花影たちは立ち尽くしたままだ。
明鈴は去ったものの、玄瑞の怒りは収まらないのか、甲高い罵声は、花影を通り過ぎてかなり遠くまで届いていた。
確かに、これでは仕える者もいなくなってしまうはずだ。
「これで、一心地すると……陛下はお休みになってしまうのよね」
これでは、埒があかないと、小鈴は廊下に面した個室に、花影たちを迎え入れた。
「陛下は、日に日に酷くなっていらっしゃるのよね。昔から、そういう癇癪みたいなのは、持ってらしたみたいだけど。ここまでじゃなかったって、父様が……」
「確かに、今は非常事態ですからね。御心を乱されるのは、仕方のないこととも思いますが……」
「珠水……。それにしたって、尋常じゃないのよ。わたくし、妃は無理だって分かったわ。無理よ、無理。あんな怒鳴り散らしている御方、絶対嫌よ。今日だって、お会いできるかどうか」
「ああ、そういうことで、小鈴殿は協力的だったのですか?」
珠水が疑惑の眼差しを向けると、小鈴は逃れるように、部屋の中央の寝椅子にちょこんと座った。
「それが、少しもないって言ったら、嘘になるけど……。でも、そこの先生のお手並みを拝見してみたいと思ったのも、本当よ」
「しかし、先生の侍女姿もいつまで通用するか分かりませんし、私とて明日以降、お会いするにしても、限度があります。最低でも明日まで。それ以降は危険です。時間切れですよ」
時間切れというところを強めに言ったのは、珠水がそれを望んでいるからだ。
やはり、彼女は大司天と同じで、無茶をするより、現状を貫いた方が良いと考えているのだ。顛河に関しても、出来るところまでという、父親の意見に同調しているのだろう。
もっとも、花影だって、長引かせるつもりはない。
早々に、決着はつけるつもりだった。
「……実は……私、慧正記という、希少な書物を拾ったのです」
「はっ!?」
寝椅子でだらりとしていた小鈴がその場に突っ伏し、隣の珠水がよろめいた。
あまりに、脈絡のない話だったらしい。
しかし、花影にとっては、重要なことだったのだ。
「け、慧正記……て、何です? 陛下が、お妃様に投げられた書物ですか。先生、いつの間に拾っていたのですか?」
「ええ、庭に落ちていたので、拾ってみました」
「……貴方、勝手に何しているのよ?」
「ですが、これは大変に貴重な代物なのですよ。ここで、出会えたのは奇跡に等しい」
書物は日焼けして、色が黄ばんでいた。
所々に、墨で細かい注釈が入っていて、持ち主が何度も読み返したことがうかがえる形跡があった。
「小鈴殿、確認したいのですが、陛下が癇癪を起こした時に、投げ捨てた書物って、こちらだけですか?」
「それを、調べてどうするって、言うのよ?」
分かりやすいほど、がっかり小鈴が呆れていた。
しかし、彼女は悪態をつきながらも、丁寧に、玄瑞が捨てた書物を保管している小さな書庫へと、花影を案内してくれた。
(……なるほど)
それは、花影にとって、追い風に違いなかった。
その後、小鈴の言っていた通り、玄瑞は休んでしまい、珠水も泊まるわけにはいかないので、外で待機となった。
……図らずも、すべて花影の狙い通りになった……らしい。
夕刻頃に、玄瑞が目を覚ましたという報告が小鈴のもとに届いた。
「もう、明日で良いんじゃない?」
夕食を邪魔された小鈴は、子供のように剥れていた。
「どうしてです?」
「天気も悪くなりそうだし」
「それ、特に関係ないですよね」
花影はにべもなく言い返したが、生温かい風が嵐を呼んでくる気配を、花影も感じてはいた。
(早く用件を済まして、嵐を利用して逃げるという手もあるか……)
先を急ぎたくなった花影の心情が伝わったのか、小鈴は、渋々ながら玄瑞に取り次いでくれた。
花影が『慧正記』を拾ったことを口実にするよう小鈴に伝えたら、睨んだ通り、玄瑞の反応は早く、目通りが叶った。
「……失礼いたします、小鈴でございます。陛下」
しかし、室内から、応答がない。
謁見を許すと、許可はあったはずなので、小鈴は気にも留めず、花影を誘導しながら、伽羅の香が焚き染められている室内に、足を踏み入れた。
入ってすぐ、螺鈿の衝立の前に、玄瑞付きの従者が静かに二人佇んでいて、そのうちの一人が広い部屋の奥に、案内してくれた。
白い天蓋に覆われた寝台だけが、主張している殺風景な部屋だった。
天蓋の中、燭台の灯りによって浮かび上がる黒い影を、花影は見つけていた。
(この御方が……?)
黒い影は、前後に揺れている。
玄瑞は、空咳をしていた。
「ただいま、薬湯をお持ちいたします」
「いらぬ」
一蹴だった。
だが、これも小鈴は、慣れているのだろう。楚々としていた。
「失礼しました」
粛々と頭を下げてから、そのまま跪拝する。
花影も小鈴の後ろで、それに倣った。
玄瑞の咳がおさまってから、小鈴はあらかじめ花影が託していた『慧正記』を、玄瑞の隣に空気のように佇んでいる従者に渡した。
「陛下、こちらを庭先で拾いまして、お返しに参りました」
「今度は、知的さを売ろうというのか?」
玄瑞が嘲笑と共に、掠れた声で言い放った。
「姉が駄目なら、妹を……ということなのだろう?」
「残念ながら、わたくしには、父の気持ちは分かりません」
いつもの小鈴なら、頼まれても願い下げだ……くらいのことを言い返しそうだが、さすがに相手が国王とあって、懸命に我慢しているようだった。
そして、忘れないうちにと思ったのだろう、花影が先程、伝えた段取りの通りに『慧正記』の話を始めた。
「その書物……慧正記は、慧氏の正統な後継者、つまり国王になる御方しか継承できない書だったはず。無くされてしまっては、いけないのではないですか?」
「………なぜ、それを知っている?」
厳かな声音に、燭台の炎が、ゆらりと揺れた。
「それを知っていること自体、ごくごく身内の者しかおらぬ。それに、慧正記など捨てたところで、どうってこともない物だ。大切でも何でもない」
「天地既に別れて、天に日月星辰を流し、地に山川草木を布く……」
小鈴が、ぎょっとして振り返った。
花影は、跪拝からすでに顔だけ上げていた。
「…………お前?」
玄瑞が少しだけ身を乗り出したのが、寝台が軋む音で分かった。
「直言をお許しください。陛下。『慧正記』の冒頭は、天地開闢からだったと、思い出しまして……。神話から君主としての立居振舞まで、多岐にわたって記された……我が国にしかない、君主の心得書だったかと存じます」
「ちょっ、ちょっと!」
無礼なことと知りながらも、どうにもならなかったのだろう。
にじり寄って来た小鈴が、花影の袖を強く引っ張った。
「何しているのよ。急に……」
「いいのです。小鈴殿は申し上げていた通り、お逃げになって」
「馬鹿言わないでよ!」
小鈴が離れない。
ならば、仕方ない。
花影は腹を括って、話を続けた。
「陛下はそちらを、大切な物ではないと仰りましたが、しかし、そちらの『慧正記』よく読みこまれております。横に注釈も入っていたり、大切な箇所は端を曲げていたりと、とても、数年でこのような形にはなりますまい」
「何が言いたい?」
「他にも、陛下が投げ捨てた書物を保管しているということで、小鈴様に見せて頂きましたが、どちらも、慧正記に負けず劣らず、歴史を感じるものでした。そして、そのいずれも、注釈の達筆はお二人分。お一人は陛下で、もうお一方は先の国王陛下……紫陽さまでございますね?」
途端、玄瑞がはっと息を飲んだのが花影にも分かった。
「……お前は、何者だ?」
「私は元王宮の学司、唯 花影。唯 流月の娘にございます」
「…………なるほど。あのエスティア人の娘……か。長く我らを謀った」
玄瑞は重そうな身体を引きずるようにして、天蓋から顔を出した。
従者が手を貸そうとするが、それを拒否して立ち上がり、花影と対峙する。
「謀ったとは、残念なお言葉でございます。私でさえ事実を知ったのは、つい先日にございました」
「一体、何をしに、ここに来た?」
至近距離で、玄瑞の顔を見るのは、花影にとって初めてのことだ。
玄瑞は、凌星とはまったく異なる彫の深い顔をしていた。
……ということは、紫陽とも似ていなかったはずだ。
痩せ衰えているせいか、目だけぎょろりと昏い光を帯びている。
「瓢風は終朝せず、驟雨も終日ならず……こちらも、『慧正記』にあったはずです」
――激しい風は半日とは続かず、夕立も一日中は続かない。
不自然なことは長続きしない。
――君主を暗殺して、掠め取った王座は、不自然だ。
刹那、光が一閃して、雷鳴と共に、激しい雨が降り始めた。
これも、いずれ止む雨だ。
花影は臆することなく、決然と言い放った。
「私は陛下に、禅譲をお願いに参りました」
「……お、お前!」
玄瑞の従者がいきり立ち、小鈴が花影にしがみついた。
剣を抜こうとした従者を制して、玄瑞は口の端に笑みを浮かべた。
国王としては簡素な貫頭衣姿は、従者よりも質素だった。
とても、光西で一番偉い人間には、見えない……小さな男性だった。
「それを、私に言ってどうする?」
「私は貴方様にお話をしたかったのです。紫陽様を、少なからず敬愛なさっていながら、紫陽様が御命を落としても、黙して、何も語らなかった……貴方様に」
玄瑞の真意が知りたい。
だが、さすがにそれを口にするのは、無礼すぎる。
「私が兄上を殺したとでも、言いたいのか?」
「いいえ。もし、そうであれば、お薬を嫌がりはしないでしょう。紫陽様と同じ目に遭うのではないかと、案じていらっしゃるから、そのように人を遠ざけていらっしゃる。……特に今、紫晴様が現れてから、そう思われるようになられた。ご自覚をなさっていらっしゃるのなら、既に……貴方様の御世は破綻していらっしゃるということです」
「え……どういうことよ。それって?」
小鈴が、ようやく話の流れを理解したらしい。
「紫陽様は……あ、殺められたってこと?」
「……小鈴さまっ!」
突如、割って入った女性の悲鳴は、本物の小鈴の侍女のものだった。
誰も口を挟むことが出来なかったのは、侍女が必死で、焦燥感にかられていたからである。
「小鈴さま! 大変申し訳ありません! 至急お話を!!」
稲光と共に、侍女の金切り声が轟いた。
その命懸けの訴えが何を示すものか、花影には容易に想像がついた。
――浅 泰全が感づいたのだろう。




