肆 【凌星の旅路】
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――結局、一軍を率いて行けとか、護衛をつけるだの、散々言ったものの、偉 伯豹は凌星が呂県に行くことを止めなかった。
大司天は、そんな大司尉の寛容さが怪訝なようだったが、裏にどんな思惑があろうが、凌星はとにかく、前に進むしかなかったのだ。
――早く花影を追いかけなければ……。
柳 周庵のことを知ってしまったからこそ、凌星は更に焦っていた。
旅路に必要な路銀だけを借りた凌星は、とりあえず、行けるところまで……と、顛河で船頭をしている慈念に船を出してもらった。
陸路で行くことも頭にはあったが、川沿いの呂県であれば、顛河を下ってしまった方が圧倒的に早い。
しかし、謎だったのは慈念の反応だった。
花影は呂県に行く前に、慈念と接触を持っていたらしい。
凌星は、彼と会った途端に言われた。
『花影さんから、凌星さんが来たら、黙って船を出してやって欲しいって頼まれたんですよ』
――花影は、凌星が呂県に追ってくるのを待っている?
天候まで読んで足止めしたくせに、今度は素早く移動できるよう、慈念に頼みごとまでしていたのだ。
一瞬、罠かと警戒したものの……。
凌星には、慈念以外、頼るあてもなかった。
この男以外、いくら天候が回復しても、増水した河を下ってほしいなどという、無茶な願いは聞いてくれないだろう。
(行くしかないよなあ……)
唯 花影という、とんでもなく頑固で、先読みが得意な女性に惹かれてしまった。
この成り行き自体、まんまと彼女の策にはまっている気もするが、最後に凌星が笑えばそれで良いのだ。
(こうなったら、もう……根競べのようなものだな)
『まいった』と言った方が負けの、持久戦のようなものなのだ。
一種の悟りのようなものを開いてから、臨んだ小さな帆掛け船の旅は、思いの外、風の力を受けて順調に進んだ。
このまま、何事も起こらず、花影のいる呂県に到着するのかと思った矢先だった。
――呂県の隣、礼県の川岸で、偉 伯豹の手下が凌星を待ち構えていた。
(ああ……そうか)
尾行されていることには、気づいていた。
凌星はそこに至って、花影の真意を確信したのだった。
――彼女は、凌星を『慧 紫晴』として、玄瑞と対峙させようとしているのだろう。
だから、偉 伯豹は引き止めなかったし、花影は決して凌星が追いつけない距離を稼いでから、呂県に来やすいよう、慈念に船を出すように頼んだのだ。
確かに、王都から一隊を率いて太子が駆け付けるとなれば、大掛かりな行軍になり、浅氏にも準備期間を与えることになるので、不利になる可能性が高い。
しかし、太子が一人で呂県の駐留軍に合流したとしたら、それは、奇襲みたいなものだ。
(先生は、戦争をさせたいのか……俺に?)
もしも、花影と出会っていなかったら、凌星は必死で彼らを撒いただろうが、凌星が『紫晴』になることを、花影が望んでいるのならば、乗ってやるしか手はないのだ。
仕方なく凌星は、慈念を一人の兵士に託すと、その馬を借りて、偉 伯豹の軍勢に合流することにした。
(あー……また面倒なことに、首突っ込んで)
凌星が殿下と呼ばれている様を、呆然と眺めている慈念を置き去りにしてしまったのは、心苦しかった。
あとで、慈念と家族には、うんと謝らなければならない。
(戦争にはならないと、約束した人の手で、戦地に送られるという……この皮肉)
花影から、安易に約束なんてするものではないと、叱られている気分だった。
(……と、いけない、いけない)
とりあえず、前進していることには違いないのだ。
凌星も何とか楽天的に、とらえようと努力はしていた。
(もしかしたら、陶のおっさんと一緒に先生も、軍の中にいるかもしれないし……)
――まあ、しかし、そんなことはなかった。
広々とした草原に設営されている白い大きな天幕を、揃いの赤い甲冑を纏った厳つい兵士たちが、取り囲んで警護をしている。
それ以外の者は一角で、剣の稽古をしていた。
ここに女性がいたら、かえって大変なことになっていただろう。
(やっぱり、俺は撒けばかったのか?)
伯豹直属の家来が凌星を神のように扱い、接待をする。
……なのに、肝心な陶大将軍は姿を現さないのだ。
(まいったな……)
軍人たちが次々に物騒なことを、凌星に吹き込む。
浅氏をどうやって炙り出し殺すかなんて、凌星にとっては、どうだって良いことだった。
過去の因縁があったところで、それと凌星は関係のないことだ。
(俺はただ……あの人に)
しかし、凌星をこんな場所に送り込んだのは、確実に花影なのだ。
いろんな考えが頭の中で渦巻き、凌星は苛々していた。
更に、凌星の怒りを煽ってくれたのは、柳 周庵の存在だった。
この老人は頼んでもいないのに、凌星のもとに押しかけてきたのだった。
柳 周庵が自らしゃしゃり出て来なければ、ここに周庵がいることも、凌星は知らずに済んだはずだった。
だが、謁見を申し込まれたら、断るわけにもいかない。
この老人をとっちめてやりたい気持ちも、元々凌星にはあったのだ。
「その凛々しい御姿。貴方様は男装すると、紫陽様そのものになるのですな」
すでに、夜も更けていた。
白々しい口上に、凌星が欠伸を押し殺していたら、いつのまにか跪拝から柳 周庵が顔を上げていた。
凌星のことを、紫陽の息子と認めながらも、みくびっている。
そんな冷たい目を、していた。
「……久しいな。柳 周庵。あの時は、お互いに、たいした話もできなかった。一度、あんたとは会って話したいとは思っていたんだ。まさか今になるとは思ってもいなかったが」
「ええ……。まさか、貴方様が花影と一緒にいるとは知らず……」
「何だか、少し痩せようだな」
「元気だけが自慢だったのですがな。陶大将軍に振り回されて、こんなところまで連れてこられてしまい、一段と具合が悪くなって……」
「つまり、王宮に帰りたいと?」
そういうことだ。
凌星が詳細を知らないだろうと、高を括っている。
周庵との話し合いは花影と陶大将軍、雪己しか同席していなかったからだ。
痛い腹を探られないうちに、立ち去ってしまおうと、そういう魂胆なのだろう。
「恐れながら……。体の回復に務めるためにも、早々に都に帰らせて……」
「…………それは、許可できねえな」
凌星は皆まで聞かずに、一蹴した。
もとはといえば、この老人が発端でもあるのだ。
「まあ、だけど、そうだな。……いつか、王宮の…………銀花の下で、あんたとは話したかったな。色々と、昔話も含めて……さ」
馬鹿にするなと、凌星が不敵に笑ってみせると、周庵はごくりと喉を鳴らした。
広々とした天幕は、凌星専用のものらしい。
だったら、遠慮する必要もないだろう。
凌星は人払いをすると、周庵の前に回って、手前で胡坐を掻いた。
「柳先生……俺が、何も知らないとでも?」
「…………貴方様が自力で、知ることのできない内容のはずです」
「頭は良いみたいだが、耄碌しすぎだぜ。陶大将軍も、大司尉も、大司天も大体のことは掴んでいた。知っていて、あんたを黙認したのは、当時、国主慧氏の血を引く人間が、玄瑞しかいなかったからだ。俺はエスティア系だからな。さすがに、見た目が外国人のようでは、国主にはなれない。成長を待っていたそうだよ」
「…………流月だけでなく、皆で私を騙していたと仰りたいのですか?」
「光陰流星如 銀花明々為」
諳んじてみせると、周庵はぶるぶると震えだした。
流月に遺した、紫陽最期の伝言。
花影が王宮に来てまで『銀花』を調べていたのは、その詩がただの恋文でないことに気づいていたからだ。
そして、出立の前に、凌星も伯豹から銀花の成分については、聞いていた。
「その詩は恋文であって、恋文というだけではない。人生の流れることの速さを詠っているのは、自分の死が間もなくであることを伝えている。そして、自分を殺したものが『銀花』であることを……」
「貴方様に、その詩を花影が教えたというのですか?」
「何の因果かな。紫陽と流月が、俺と先生を結びつけたのか……」
天幕の真白い天井を仰ぎながら、凌星は今生で結ばれることのなかった二人の姿を想像した。
慧 紫陽が死の間際、どんな気持ちで、流月にその詩を託したのか……。
そして、それを知った時の花影の気持ちは、どうだったのだろう……。
早く彼女に会いたいと、心から思った。
「…………『銀花』には、毒がある。慧 紫陽は……毒殺されたんだろ」
「で、ですが、私は……」
「あんたは証拠になりそうなものは処分したかもしれないが、紫陽の毒味役は生きているよな?」
「なぜ、それを?」
「へえ……。かまをかけてみたんだけど、やはり、そのようだな」
「違います! 私は毒を盛ってなどおりません。花影だってそれは知って……」
しかし、その時には既に凌星は周庵を眼中に入れてはいなかった。
そんなことは、百も承知だ。
……柳 周庵は犯人ではない。
おそらく……。
「あー……だからさ、先生は一体、呂県で何をしようとしているんだよ? 今更、犯人なんて暴いてどうしたいんだ。俺に戦争をさせたいのか? なあ……」
周庵がその場に崩れ落ちるのと同時に、凌星は立ち上がった。
天幕の外に感じる微かな人の気配。
その人物に向かって……
「唯 花影は、呂県の何処にいるんだ!?」
腹の奥から叫ぶ。
凌星は随分前から、無断で立ち聞きしていた男の存在に、気づいていた。
「教えろよ。陶のおっさん……」




