参 【世界の崩壊】
◆◆◆
名前を凌星と名乗った青年は、狙った獲物は逃さないといったふうに、花影の傍を離れなかった。
いくら人通りが少ないとはいえ、王宮内だ。
おかしなやりとりをしていれば、尋問されるのは必定である。
ともかく、いつまでも立ち話をしている方が怪しまれると判断した花影は、渋々、凌星を図書塔の最上階の自室に連れ帰ったのだが……。
「まったく。……どうして、こんなことに」
丁李との会話を引き伸ばし、喋っている隙に、凌星に私室に行くよう促した花影だ。
まさか可愛い妹分まで、怪しい青年の思惑に巻き込むわけにはいかない。
普段の倍は喋り倒し、私室に戻った時には、すっかり疲れ果ててしまった。
…………しかし。
文机に突っ伏して、放心状態になっている花影をしり目に、凌星はいきいきとしていた。
狭い私室の大部分を占拠してしまっている母から受け継いだ古書の山を、興味深そうに眺めている。
「さすが先生だな。蔵書が充実しているようだ」
「どうして、それを……?」
「図書塔で暮らしているのは、学司だけだって、陶のおっさんから聞いたんだ」
「陶大将軍とは親しいのですね?」
「まあ、近所の親戚みたいなものかな?」
「…………だったら、陶大将軍のところに行けば宜しいのでは?」
「それは駄目だろ。ただでさえ、玄瑞と仲悪いのに、共倒れになる可能性がある」
「…………それは、そうかもしれませんが」
陶大将軍は元々、国王からも、大司政の浅 泰然からも疎まれている。
彼を匿うことは、百害あって一利もないだろう。
(まあ、確かにそうかもしれないけど……)
何だか、釈然としない。
玄瑞が好色な目で見た。
……それだけで、この青年が剣を突き立てたりするだろうか?
「念のために、言っておきますけどね、たとえ、私の格好になりすましたとしても、ここからは出られませんからね」
「……だろうな。聞くまでもない」
「どうせ、貴方の目的は、逃げ出すことじゃなくて、ここで匿ってもらうことだったんでしょうけど……」
「ははっ。分かっているのなら、話が早い」
凌星は中性的な蠱惑的な微笑を浮かべ、板の間にごろんと横になった。
かなり、自由な青年のようだ。
「……まっ、そういうことだからさ、すこーしだけ時間稼ぎをさせてくれないかな。付け焼刃な考えだったけど、匿ってもらうには、あんたは、最適の人物だと思ったんだよ」
「まさか、そんなことで、私を宴に招待するように、陶大将軍に頼んだということですか?」
「いいや。俺にあんたを宴に招待する権限なんてないさ。朝会った時、面白そうだから、もう一度会いたいとは思っていたけれどね」
「そう……ですか」
益々、分からなくなってしまった。
赤く縁取った目元を擦りながら、凌星は苦笑している。
その仕草一つでも、優雅だ。
男とも女とも取れない中性的な魅力に、そのまま絆されてしまいそうなところだが、外見に惑わされるほど、花影は乙女心を持っていないのだ。
「ともかく、貴方とは縁も所縁もないので、今の私には、正直我が身の方が大切なのです」
「人一人の命など、どうなろうが知ったことではないと?」
「そう……露骨に言われましてもね」
本音を言えば、今すぐこの青年を誰かに突き出してしまいたいくらい、迷惑な存在だ。
しかし、それをしてしまうと、花影も注目を集めることとなってしまう。
自分の秘密だけでも、一杯一杯なのに、人のことなど構ってなどいられない。
花影は何も見てないし、聞いていない。それで良いではないか……。
「分かりましたよ。もういいです。少しの間だけなら、貴方にこの場所を提供しましょう。必ず、明日の朝までには出て行くとお約束頂けるなら、その辺で適当にお過ごしください」
「ありがとう。先生。恩に着るよ」
柔和な笑みが、作為的だった。
(こんなことなら、意地でも宴に行かなければ良かった)
重い沈黙に溜息を落としていたら、次の瞬間には規則正しい寝息が聞こえてきた。
「はっ?」
まさかと思って振り返ってみると、結い上げていた髪をほどき、豪奢な金色の簪を大切そうに握りしめながら、仰向けで眠っている凌星の姿があった。
この短い時間で、本当に彼は寝てしまったらしい。
「すごいな……。この人」
いまだかつて、このような人と会ったことがない。
そもそも、三歳の時から図書搭にいて、ほとんど異性と話したことがない花影だ。
(世の中の男性がみんなこの人みたいな人だったら、大変だな……)
多分、心臓が持たない。
長い睫に、高い鼻梁。
口を開くと、ぞんざいだが、可憐な小さな唇。裾の間から微かに覗く白い足はすらりと長く、床に散らばった黒髪が濃厚な色気を放っていた。
(本当に、男なのかしら?)
何処か懐かしいと思ってしまった自分が恥ずかしいくらい、常人離れした美しさだ。
――と、つい見惚れてしまった花影だったが、頭を横に振って、気持ちを切り替えた。
「何やっているの。私……」
不本意だが、こうなってしまっては、彼が自分から出て行ってくれることを期待するしかない。
(もし、怖いなら、外界に繋がる抜け道くらい、教えてあげても良いかもしれない)
いずれにしても、凌星が何をしでかそうが、花影は学司として明日の講義に備えておかなければならないのだ。
「……あっ、そうだ」
そういえば、今朝、講義で妃候補の娘たちに書いてもらった詩作がある。
その採点を、しっかりしておかなければならない。
丁李が集めた詩を、花影が見やすいよう一つに文机の端に束ねて置いてくれていた。
さすがにこの時間まで、頭巾姿でいると、頭がぼうっとしてくるが、詩の評価くらいなら出来るだろう。
燭台の灯を頼りに、百人はいるだろう娘たちの詩作を詠み、一人ずつ朱墨で丁重に評価を加えていった。
教書の丸写しのような試験より、詩作の採点は楽しかった。
独創的な詩の数々に、花影は一人のめりこんでいく。
――そうして、とうとう最後の詩にたどり着いた。
「…………浅 小鈴」
彼女の詩は、五語七句。定型的な詩形だった。
一応、家庭教師から習っていて、詩のことについては、知っているようだったが、勉強嫌いの彼女だ。
予想通り、その内容は稚拙なものだった。
子供の頃、寒い夜に遣いを頼まれて、一人でそれを成し遂げた時の情景を表現していただけのものだ。
まるで、子供の日記のような詩。
だが……。
最後の一句で、花影は息をのんだ。
――玉簡結銀花。
玉簡とは、相手の手紙を敬った言葉である。つまり……。
「手紙を……銀花に結んだってこと?」
誰かから、銀花に手紙を結ぶよう、頼まれた。
――それが子供の時の遣いの内容だった。
「さっぱり、意味不明だわ……」
何か、花影が知らない意味が銀花に隠されているのだろうか?
まさか今日だけで、二度も銀花の話題が出てくるとは思ってもいなかった。
「それにしたって、偶然にしては、出来過ぎだし……」
いや、しかし、今が盛りの花は、王宮内で銀花しかないのだから、それについて詠むこと自体は、珍しくないのかもしれない。
……だったら、ただの過剰反応だ。
花影は、うーんと大きく伸びをしてから、後ろに手をついて、低い天井を仰いだ。
明日、丁李を通して小鈴に『銀花』のことについて聞いてもらおう。
そう考えをまとめて、頭巾の下で、ほっと一息吐いた途端……。
「……で? 銀花が何かあるのか?」
「うわっ……!!」
驚いた。
振り返るまでもなかった。
すぐ横に、凌星がちょこんと正座をして、花影を眺めていた。
「おはよう。先生」
「寝ていたんじゃ?」
「こんな近くで、ぶつぶつ独り言続けられていたら、誰でも起きるんじゃないか?」
「えっ? 私、そこまで酷かったですか?」
昔から、よく指摘される花影の悪い癖だ。
しかし、深刻に聞き返したら、なぜか大声で笑われてしまった。
「やっぱり、自分では分からないんだな。面白い人だな」
つれない人から、面白い人と、花影の人物評はめちゃくちゃとなっているようだ。
「ほら、先生。それで、銀花がどうしたんだって? 誰かの詩を詠んでいたのか?」
「これは、駄目です」
妃候補の娘たちの詩作を外部の得体の知れない人間に見せる訳にはいかない。
「でもさ、少しくらいなら……」
「絶対に、駄目ですからね!」
怒鳴りつけると、彼は肩を竦めて、溜息を零した。
「はいはい、分かったよ。でもさ、先生、ずっと顔を隠したままだと疲れないか? いっそ、その頭巾取ったらどうだ? 少しは柔軟な考えも出来るようになるかもしれないし」
「余計なお世話です」
「おかたいな……」
「と、ともかく。もういい加減、出て行ったらどうですか? この時間になっても、王が貴方を探した気配はありません。危険はないと思います。人気のない道なら教えますから」
「……危険がないって、本気で言っているのか?」
「はっ?」
呆けていたら、花影の横から、凌星がすっと立ち上がった。
「まさかと思ったけど、本当に先生には、聞こえていないのか?」
「何を?」
さっぱり意味が分からず、眉を顰めた花影だったが……。
しかし、すぐに彼の言っていることを耳で理解した。
「……な……に?」
――地響き?
地震ではない。
継続している揺れは、人が起こしているもののようだった。
耳を覆いたくなるような、怒声と悲鳴と共に地面が鳴動している。
大地を震わせているのは、大勢の人間の足音だ。
「一体、何が起こって……?」
「さっきからずっと聞こえていたのに、先生、上の空だったから……」
「あの! それ、もっと早く言ってくれませんかね?」
花影は、集中すると、他がまったく見えなくなってしまうのだ。
自覚はあったが、今のところ治療法がなかった。
「……多分、陶大将軍……だと思う。陶のおっさんが、やっちまったんだろう」
「はっ?」
あっさり告げられて、花影は困惑した。
考えをまとめようとしたが、突然、引き戸を開けられたところで、導き出そうとした答えは無になった。
「先生! 先生! 大変です!!」
「丁李?」
伺いも立てずに、転がり込むようにして入室した丁李は、激しく息を乱していた。
「先生! あの……本当に一大事なんですっ!!」
「丁李。どうしたんです? 慌てず、ゆっくり落ち着いて……ね?」
だが、落ち着くどころか、丁李は凌星を発見して後ろにひっくり返ってしまった。
「だ、大丈夫ですか? 丁李」
「どうして? 先生の部屋には、美人の幽霊が出るのですか?」
「残念ながら、あれは生き物で、生物学上、男です」
「えええっ……?」
丁李は、今度こそ絶句した。しかし、細かく説明している時間的余裕はなさそうだ。
「それで、丁李。陶大将軍がどうしたと?」
「そうだ。先生、逃げなきゃ! みんなもう、逃げています! 早く行かないと!」
「いや……逃げるって、一体? 順を追って話してもらわないと……」
「だって……。私にもよく分からないんです。でも、逃げないと駄目だって、みんなが」
言いながら、丁李は子供のように、声を上げて、泣き出してしまった。
「みんなって……?」
困惑している花影に、丁李がしゃくりあげながら話し始める。
「後宮の人たちですよ。私、物音がしたので、気になって……。多分、この時間だと先生は仕事に集中されている時間だろうから、私一人で外に出て確かめに行ったんです。そしたら、なんか武装した男たちが大勢いて……。ここは、基本男子禁制のはずなのに……」
「そうですね。おかしいですね」
「八之宮から、大勢の娘たちが駆けてきました。多分、みんな外に逃げようとしているんです。けど、捕えられてしまって……。兵士たちは、皆、黒い鳥の紋が入った旗を掲げていました。先生、この家紋って、陶大将軍のものですよね?」
「まあ……。黒鳥は、確かに陶大将軍の家紋ですが……でも、それが事実なら」
陶 烈山は、今日の宴の接待役だ。
大勢の兵を率いて都に来ていたのなら、すぐに露見するはずだ。
……ということは、寡兵で王宮に攻め入り、王宮内の反乱分子と合流したとみるべきだ。
王の重臣の誰かが陶大将軍に同調したということになる。
(一体、誰が?)
刹那……。
わあああっと、一段と怒号が王宮内にこだました。
ここまで来ると、どんなに否定したところで、この異常事態の結論は一つしか導き出せない。
「今のは?」
「勝鬨じゃないか……。玄瑞が見つかったとか、制圧したとか……そういう類の?」
凌星は、淡々と告げる。
まるで、この事態を予見していたのかような言い草だった。
「……つまり、陶大将軍が陛下を弑逆したと?」
「確定ではないけど、その辺りが濃厚だろうな」
「そんな……」
――何てことだろう。
十五年の間、花影が生きていた世界はあっけなく崩壊してしまったのだ。