参 【花影の目的】
◆◆◆
――それは、遠い昔。
花影が幼かった頃のことだ。
流月の仕事が一段落した、霙の降る寒い日だった。
その日、風邪気味だった花影は、図書塔で寝込んでいたかったが、流月が外に出る日に、留守番という選択肢はありえなかった。
いつもの隠し通路を使って、二人で灰色の街に出た。
早足で連れて行かれたのは、都の郊外にある千李の住まいだった。
しかし、流月は所用があると、何処かに行ってしまい、結果、花影は千李のもとに取り残されてしまった。
……多分、その時、流月は、烈山や凌星のもとに行っていたのだろう。
だが、当時の花影は、そんなことなど、知る由もない。
早く休みたい。
だるい時間を丁李の相手をしながら、やり過ごしていた。
流月が戻ってきたのは、夕刻だった。
すでに、辺りは暗くなっていて、冷たい霙は牡丹雪に変わっていた。
こんな悪天候の中を歩いたら、花影の風邪が悪化してしまうと、心配した千李が数日、花影を預かりたいと申し出たが、流月は頑なに拒否して、花影を強引に伴い、王宮に戻ったのだった。
案の定、花影の熱は高くなってしまい
――夜。
一人で臥せっている花影を、流月が見下ろしていた。
数瞬、本気で殺されるのではないかと思ったほど、流月には表情がなかった。
『これを、食べなさい』
怯える花影に向かって、おもむろに差し出してきたのは、初めて目にする、まん丸で黄色い……?
果物と分かったのは、微かに甘い香りがしたからだ。
一瞬、花影には何が起こったのか、分からなかった。
流月は風邪によく効くから、皮ごと食べるように花影に言った。
普段、寄り添うことのなかった母が枕辺にいるだけで、花影は緊張してしまい、その果物の名前も味も分からずに、脇目も振らずに齧りついた。
甘かったのか、苦かったのか……。
熱が下がった後、もう一度、味を確認したくなり、花影は懸命にその果物を探したが、ついに王都の市場で見つけることは出来なかった。
……結局、その果物の詳細を花影が知ったのは、流月の死後だった。
その黄色い果物は、黄仙というらしい。
エスティアでしか栽培されていない果物で、都では余り出回っていない希少な品なのだそうだ。
今、振り返ってみれば、この『黄仙』が後にも先にも、流月が直々に花影にくれた唯一の……形ある贈り物だったのだ。
「…………て、このわたくしが、わざわざ直々に会って差し上げているのに、外ばっかり見ているなんて、どれだけ不義理なのかしらね!?」
「ああ、すいません。まさか、このような場所で『黄仙』に出会えるとは、思ってもいなかったもので」
珠水の計らいで、久々に小鈴と再会することが出来たのだが、花影は目前に広がっている黄仙の樹林に目を奪われてしまった。
青葉の茂った高い木に、たわわに実っているのは、花影が探し求めていた、あの黄色い果物だった。
小鈴が案内してくれた縁側の席の横には、小さな池があり、その水面には黄仙の樹の鮮やかな新緑が映りこんでいた。
往来の喧噪が、嘘のような別世界だった。
広い空間に大きな四角い机と、黒壇の格調高い、透かし彫りの椅子。
一枚の絵に閉じ込めたくなるような、静謐で優雅な空間が、そこには広がっていた。
「へえ、ここが気に入ったの? わたくしのお気に入りの場所なのよ。黄仙の樹が森のようになってるから『黄見亭』っていうの。こちらの店主が客の要望を汲んでくれて、密室にしてくれるし、何の事情も聞かないのよ。密談向けね。宿も兼ねているから、泊りがけで定宿にしている商人とかもいるみたい。浅氏もよく使用するわ」
「いや、私は黄仙が……」
「……一体、貴方は何しに来たわけ?」
「先生、外の露店で、ここで獲れた『黄仙』売っているみたいですよ。そんなにお気に召したのなら、買ってお持ちしましょうか?」
「いえいえ、そこまでしなくても良いのです。ちょっと懐かしかっただけですから」
「懐かしい? 黄仙なんて、呂県じゃ珍しくないわよ。エスティア商人が沢山いるもの」
「………………それで? 皆さん、この会合の趣旨は何なのでしょうか?」
女三人に挟まれて、肩身を狭そうにしている雪己が堪らず口を挟んできた。
せっかちな小鈴も、同じ気持ちだったのだろう。
木目の美しい四角い机を、どんと叩いた。
「そうよ! 久々に会いに来たと思ったら『黄仙』が気になるって、意味不明よねえ! ………て、あら、貴方……?」
……そこで、ようやく小鈴は雪己の正体に気づいたらしい。
「えっ、嘘!? 貴方……その顔、陶 雪己じゃないの!? てっきり従者か何かだと……? どうして、貴方がここにいるのよ!? せめて、自己紹介くらいしなさいよね!」
「……えーっと。まあ……色々、ありまして。こんなことに」
……相変わらず、元気な人だ。
雪己が勢いに押されて、仰け反っている。
彼とて、何度も自己紹介しようとしたし、花影も珠水も話そうとしたのだが、その都度、会話を遮ったのは小鈴の方だった。
むしろ、今更なぜ気がついたのか……だ。
「何よ? まさか、わたくし陶大将軍に、誘拐でもされるわけ? 卑怯じゃない! 」
「卑怯? 私が?」
今まで言われっ放しの雪己だったが、その単語は、聞き捨てならなかったらしい。
怒りの形相で、小鈴を睨みつけた。
「馬鹿な。今更、どうして、そんなことをするんです? 第一、この場所で圧倒的に不利なのは、私でしょう。泰全のもとに連れて行かれたら、貴方よりも上物の人質になってしまいますよ」
「はあっ!? わたくしより貴方のほうが、人質の価値があるっていうの!?」
「いや、それ……競うようなことじゃないですから」
身を乗り出した小鈴の袖を、隣に座っている珠水が冷めた顔して引っ張った。
尚も、雪己に睨みを利かせている小鈴は、まるで逆毛の立った子犬のようだった。
……仕方ない。
「小鈴殿、断りもなく、雪己殿を連れて来てしまったことは詫びますが、もはや、敵も味方も、どうでも良いでしょう。貴方がお父上の浅 泰全を王にしたいと言うのであれば別ですけど……」
嫌々、二人の間に入った花影だったが、しかし、小鈴の矛先は花影に返ってきてしまった。
「変よ、貴方」
「変? 小鈴殿によると、いつも私は変ですが?」
「そうじゃなくて……。いつも、貴方にくっついている丁李がいなくて、どうして、この男がついているわけ? あの子は王都に置いて来たって言うの?」
「はい、今回は置いてきたんです」
花影が素早く吐いた嘘に、雪己だけがぴくりと眉を動かしていた。
「何か怪しいわね。だから、一体、貴方は何をしに来たのよ? ちゃんと目的を言いなさい」
「いや、ですから、現国王……玄瑞のことですよ」
言い放ってから、花影は人払いされる前に、給仕してもらった冷茶を手に取った。
いつもの頭巾がないので、普通に飲食出来ることが嬉しい。
一口含んだ後で、ようやく静かになった一堂をぐるりと見渡した。
「答え合わせのようにもなりますが、私が知りたいのは、陛下のお身体についてなんです。凌星様の存在を知ってから、一層お加減が優れなくなったということで、宜しいのでしょうか?」
「……えっ、ああ、そうなのよ。太子がいたってことに、驚いたんでしょうけど」
花影の真剣な物言いに、戸惑いながら、小鈴は真っ直ぐに答えた。
「確か、お妃様すら、遠ざけていると……?」
「ええ……そうよ。姉様と、顔を合わせたくないって仰るので、最近はわたくしがお世話をさせて頂いているの」
「…………薬師は、どうしているのです?」
「絶対に、お薬は飲まないと仰っているから、治るものも治らないのよね」
「………………なるほど」
うっかり微笑を浮かべてしまったらしい。
小鈴がそんな花影を横目に、頬を膨らませていた。
「ちょっと、何一人で納得しているのよ?」
「雪己殿から、陛下のご気性について、お話を伺いました。今は大人しい御方ですが、即位する前は、ちゃんと自己主張をされるお方で、紫陽様とはよく、政について意見を交換されていたそうですね。しかし、紫陽様が亡くなった後、玄瑞様は紫陽様の物をすべて処分された……とか?」
「あー……ほら、上辺では仲良くしていても、本当はお嫌いだったとかじゃないの?」
「あの、先生。私も詳しくは存じ上げませんが、紫陽様はお優しい方で、何かと玄瑞様のことをお気に掛けてらしたと聞いたことがあります。玄瑞様も紫陽様に懐いていらっしゃった……と」
問題は、やはりそこだった。
小鈴と珠水の見解は、真逆だ。
(やはり、二人の兄弟関係までは、よく分からないか……)
紫陽は亡くなっていて、玄瑞の内心は誰にも分からない。
しかし、玄瑞が紫陽の御子である凌星の登場に、異様に怯えているのは、確かなようだ。
……それなら、活路はある。
考え事に集中していた花影は、小鈴が再び立ち上がって、卓を叩くまで、自分の世界に入ってしまっていた。
勢いで、高級そうな茶器が壊れないようにと、手で押さえる。
「小鈴殿、一体、何です?」
「貴方は、あれだけ顛河のことで騒いでいたのに、ここに来た途端、陛下のことを知りたいって、さっぱり、わたくしには意味が分からないわ。やっぱり、凌星様に何かされて、逃げて来たんじゃないの?」
「どうして、そうなるんです? 違いますって」
驚きのあまり、声が裏返ってしまった。
小鈴は、たまに恐ろしい図星をついて来るので、侮れないのだ。
「と、ともかく……ですね。河川工事に関しては、喫緊の問題です。今から盛大に人を雇って、お金を使って、光西の総力を挙げて、取り組む必要があります」
「……だったら、王都にいなきゃ駄目でしょう?」
「小鈴殿。国庫には今、余剰のお金がないのです。大司天はある分だけで、工事を進めようと提案して下さいましたが、私はできるのにやらないというのは、納得できません。浅氏の協力が得られたのなら、早急に大規模工事だって出来るのです」
「…………父様は」
しかし、小鈴は充分な沈黙を持ってから、がくりと肩を落とした。
「折れないわね……」
「浅 泰全様のご気性の方が、陛下よりも有名ですからね。旗印がいる限り、抵抗を続けるのかもしれません。争いに発展しないのは、その旗印のやる気がないからでしょう。だからこその……陛下なのですよ」
「…………つまり、先生は?」
珠水が眉間の皺を揉んだので、多分彼女には読めてしまったのだろう。
がっかりさせたい訳ではないが、もはや、花影は引き返すつもりもないのだ。
「……私は陛下を説得して、禅譲して頂こうと考えているのです」
はあ……と、雪己が深くて重い溜息を落とした。
彼はその件で、何度も花影を説得していた。
珠水も、同様の気持ちのようだ。
――……玄瑞に、王位を譲ってもらう。
そんなこと、花影一人で、出来るはずもない。
だが、こじつけのような目的だとしても、花影はどうしても、玄瑞に会ってみたかったのだ。
……あの『詩』について、一つだけ解けていない謎がある。
それを、花影は追いかけていた。
「恐れながら、小鈴殿……。協力と申しますか、私に脅されたという形で構いません。私が陛下に拝謁できる機会を作っていただきたいのです」
向かい側の小鈴に深々頭を下げながら、言い切ると、周囲から鳥の鳴き声しか聞こえなくなっていた。
予想はしていた。
そんな恐ろしいことに、巻き込まれたくないと言い張る小鈴を……。
ただ、目的を明らかにした花影に対して、見て見ぬふりくらいはしてくれるんじゃないかと、期待もしていた。
しばらくして、小鈴は長い髪を掻き分けると、憮然とした表情のまま着席した。
「小鈴殿?」
しかし、彼女の答えは、花影の想像をはるかに超えていた。
「いいわ。そのくらい」
「はっ?」
「そういうことなら、色々準備が必要でしょう? もっと早く言いなさいよ」
小鈴は、あっけらかんとしていた。
下手したら、自分の身も危ないのに、何も考えていないだけなのか……?
「とりあえず、わたくしの侍女が良いかしらね。そのむさ苦しい黒服を着替えて、髪色を変えて、化粧くらいはしてもらわないと駄目だわ」
しかも、なぜか嬉しそうだ。
小鈴は花影を着飾らせるという、斜め上の方向に、熱意を燃やし始めたのだった。




