弐 【呂県にて】
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真冬の顛河は、大きな氷雪などが流れて来るので、船旅をすると命懸けとなってしまうのだが、春先ともなれば遠出をするのなら、河を下った方が早い。
先日の大雨で水嵩が増えた為、しばらく船を使えず、陸路となったが、ここ数日の快晴ですっかり水量は減り、花影は生まれて初めての船旅を快適に終えることができた。
呂県の都、審栄は、川下に位置する水陸共に要の土地である。
隣のエスティア国や瓏国の宋禮領に通じる道があるため、商人や旅人が必ず訪れる場所だ。
また、顛河を介して商売している者は、温かな呂県を経由地としている場合が多い。
瓏国とエスティア、そして、光西の様々なものが織り交ぜとなった独特の景観をした街は、どこもかしこも人だらけだ。
この活気と比べると、王都の市場は大人しすぎるくらいだった。
「……すごい」
王都とはまったく違う賑わいに、花影は一瞬すべてを忘れて見入ってしまった。
………が、やがて隣にいるべき人物がいないことに気がついてしまった。
「…………あれ?」
「……とうとう、着いてしまった」
未だ船着き場の近くで、この世の終わりのように頭を抱えている青年。
「雪己殿?」
近頃では武装を解いて、平服で事務仕事ばかりしている姿しか見ていないので、忘れがちだが、彼は陶大将軍の息子で、元々武官である。
花影もここに来て、実用的な大剣を腰からぶら下げている彼を見て、ようやく文官ではなかったのだと実感していた。
その生粋の武官が、顔を真っ青にして、ぶつぶつ呟いているのだ。
「まさか……花影さんと、同行することになるなんて……こんな」
失礼な……。
しかも、往来のど真ん中で、人波に逆らってまで、言うことなのか?
「別に、一緒に来なくても良かったのですよ」
ここに着いてから、黒頭巾を取った花影は酸素が吸える分、表情も豊かになっていた。
ムッとしていることを隠せない。
「私は貴方に来て欲しいと頼んだわけではありません。でも、丁李と千李さんの移動には協力して頂きましたし、ここに行くことは伝えておいた方が良いとも思ったので、一応、お二人に声をかけたんです」
彼と烈山は、先日の花影と周庵との話に立ち合った。
花影は雪己に人払いを求めたが、駄目だと言うので、渋々だったものの二人を同席させたのだ。
そして、すべての事情を共有したところで、彼らは花影一人には行かせられないと、言い張って、呂県までついて来てしまった。
さすがに烈山は、広く顔が知られていることもあり、県境で展開している大司尉の軍勢の方と合流しているが……。
……しかし、この機に乗じて、烈山が浅氏を叩くつもりであることは、花影にも分かっていた。
(私がそれを望んでいることも、陶大将軍は気づいているみたいだし……)
これもまた花影が頼んだわけではないが、もしもの時に備えて、烈山は王宮から柳 周庵を連れて来ている。
周庵は、浅氏の遠縁である。
いざとなった時、深い事情を知っている人間として、交渉役にもなるはずだ。
とにかく、緊張感を持って臨まないといけない場所に来てしまったわけだが……。
この青年は、おかしなところで、父親に似ているようだった。
「……すいません。凌星様……怒るだろうって思ったら、なんか面倒になってしまって」
「そこですか?」
つまり、それが彼の本心であり、気がかりだったらしい。
(別に、私が嫌でも、浅氏が怖いわけではないのね……)
ある意味、敵の本拠地に来てまで、凌星のことに心を砕けるというのは、大物の証だろう。
花影は呆れながらも、言葉を返した。
「まあ……黙って来てしまいましたからね。しかも、長雨が降るだろうと予期して出て来たのですから、相当怒っているでしょうね。雪己殿のことはともかく、今頃、私の顔は見たくないと思っているかもしれません」
「いやいや、花影さん」
適当に流したつもりが、雪己は不機嫌そうに、目を吊り上げていた。
「それはありませんよ。長く一緒にいる私が保証します。むしろ、凄まじい形相で追いかけて来ますね。私は半殺しの目に遭うかもしれませんが、あの方は貴方のことを、痛々しいくらい、お気に召していますから、再会したら、泣いてしまうかもしれません」
「…………それは逆に、恐ろしいです」
反論しかけて、花影は凌星の告白を思い出していた。
凌星が花影を好きなことは、誰でも知っている。
(この人も、それを言いたいのか……)
頭巾をかぶる時は、一つに纏めている髪を、今日は下ろしていた。
春風に揺れる銀髪を眺めながら、花影は初めてこの髪色を、恨めしく感じていた。
「あのー……雪己……殿」
「何ですか?」
呼びかけると、いちいち、姿勢を正してしまうのは、彼の癖みたいなものだろう。
真面目すぎる性格は、凌星と真逆で良い意味で相棒なのだろうと感じた。
そんな雪己だからこそ、花影は訊いてみたいことがあった。
「自虐ではなく、冷静に見て……ですね。私ほどつまらない人間は他にいないと思うのです。それなのに、凌星様は一体私の何処を気に入っているのでしょう? 私には分からないのです」
「……分かり……ませんか?」
「ええ」
くだらないと一蹴しても良いだろうに、雪己は懸命に答えを探しているようだった。
「実は、私もそういう経験がないので、よく分からないのですが、その手の感情に根拠はないそうです。何処をどう気に入っているのか本人も分からず、気が付いたら、そうなっているようです。だから凌星様も、ある日いきなり始まっていたのだと思います」
「つまり、病気みたいなものですね。一過性の風邪のような……」
……なるほど。
だったら、凌星に対する花影の感情も、やがて風邪のように治ってしまうのかもしれない。
花影が凌星に寄せる気持ちとは、きっと違うのだ。
(早く、そうなってしまえば良いのに……)
しかし、雪己は自分の回答に自信がないようだった。
「……と、まあ、そういう解釈もできますが、それを認めたら、多分、私は凌星様にめちゃくちゃ怒られるような気がするので、答えにはならないかと思います」
「正解はないということですか。……難しいです」
「…………あのー……」
「………あっ」
熟考していたら、花影の前に壁のようにして立っている少女の存在を、すっかり見落としていた。
「…………珠水殿」
「一体、難しい顔をして、お二人は何の話をしているのですか。呼び止めるのも、恥ずかしかったです」
久しぶりに会った珠水は、萌黄色の明るい深衣を着ていた。
しかも、いつも中性的に見えていた面差しが、どことなく女性らしくなったような気がした。
やけに頬が紅い。
知らなかった。
珠水はこの手の話が苦手なのだろうか?
どういうわけか、やけに緊張しているようだった。
「改めて、ご無沙汰しております。唯先生。今朝、陶大将軍の配下から早馬で知らせを聞いて、船着き場の近くで待機しておりました」
「久しいですね。珠水殿。貴方のお父様には何かと助けて頂きました。こうして今回も再会することが出来て嬉しいですよ」
「私もです」
珠水がはにかみながら、拱手する。
感情表現が苦手な娘だと思っていたが、そんな乙女な顔も出来たらしい。
「珠水殿。私もお会いするのは、久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
花影に続く形で、雪己も丁寧に挨拶をした。
女性としては背の高い珠水と、男性にしては背の低い雪己が向き合うと、同じくらいの高さになるらしい。
雪己は、珠水と目を合わせて笑っていた。
気安いのだろう。
話には聞いていたが、幼馴染みとは本当のことのようだった。
「珠水殿は、まだ呂県に滞在していたのですね。私はてっきり、都に戻っているんじゃないかと思っていました」
「ええ、都に戻ろうとは思ったのですが、なんとなく、滞在を伸ばしたのです」
「そうなんですか。やはり、まだ傷口が深いのですね?」
「……はっ?」
珠水は、雪己の一言に相当動揺したらしい。
道行く人にぶつかっても、動けずにいた。
「珠水殿?」
「そうだ。花影さん」
訝しげに珠水を覗き込んでいると、雪己に肩を叩かれた。
「珠水殿は失恋の痛手を癒したいから、自らあれこれ動くのだと、凌星様から聞きました。もしかしたら、先程の質問は彼女の方が、詳しく分かるかもしれません」
「いや、それは……」
さすがに今、それを珠水に尋ねてはいけないことくらい、花影にも空気で分かる。
「……先生。残念ながら、私は先生が訊きたいことには答えられません。何せ、失恋するような相手がいないのですから、出来るはずないのです」
その笑顔が泣いているように見えるの幻覚だろうか……。
花影は人混みから庇うように、珠水の横に 回った。
「あの! 雪己殿、私があれこれ頼んだから、珠水殿は、わざわざ呂県に残って下さったんですよ」
「………頼みごとって、例の話を宗家の誰かではなく、彼女に直接頼んでいたのですか?」
まずい方向に話を誘導してしまったのか?
急激に、雪己が纏っている空気が変わった。
「あの……雪己殿。私が好きで調べているんですから、いいんですよ」
「しかし、貴方が目立つことは、宗氏にとっても良くはないでしょう?」
柳 周庵との話を聞いて、真実を知ってしまったのだから、彼なりに深刻になるのは当然だった。
「でも、私は簡単なことしか、調べていませんから」
「簡単なことなら、私たちだって、陛下の居場所くらいなら、わかっていますからね。あの御方は審栄の浅氏の邸宅にはおらず、別宅の方に離れていらっしゃると……」
「実は、そのことについてですが……」
珠水は軽く咳払いをすると、いつもの冷静さを取り戻して、話し始めた。
「私、僭越ながら、先回りして先生が必要としている人とも交渉してみたのです。会えるそうですよ」
さすが珠水。手回しが早い。
別れた時には、二度と会えないだろうと思っていた人物と、再会ができるようだ。
(また、騒がしいんだろうな……)
花影は我知らず、苦笑いを浮かべてしまった。




