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銀花、煌めく  作者: 森戸玲有
六章
37/57

壱 【思い出】

◆◆◆


『…………君は、泰全の娘さんだね』


 小鈴を呼んだのは、優しい声音をした男性だった。

 光和殿は、国王の場所だ。

 限られた臣と正妃以外、特別な許可がないと立ち入れない場所だが、父と都に来た時だけ、浅氏の娘という特権を活かして、勝手に忍びこんでいた。

 父はそれを知っていて、わざと小鈴を行かせていた節がある。


(父様は良くても、王様が知ったら嫌がるんじゃないかしら?)


 子供ながらに、小鈴にもそのくらいの分別はあったが、知らない世界を見てみたいという好奇心には、いつも勝てなかった。

 しかし、いよいよ国王に見つかってしまい、寝所にまで呼ばれてしまった。

 殺されても、文句は言えない。

 蒼白になっていた小鈴を、当時の国王、紫陽は叱るでもなく、もっと近くに来るようにと手招いた。


『君……。少し、頼まれてくれないかな?』


 紫陽は、申し訳なさそうに言った。

 この国で一番偉い人なのに、奢りが一切なく、澄み切った漆黒の瞳をしていた。

 その美しい人が天蓋の奥から、手を伸ばしている。

 痩せ細った手が必死に握りしめていた紙の切れ端。


『早く……』


 促されたことで我に返った小鈴は、それを恭しく受け取った。

 その場に、紫陽一人だけだったが、人目を気にしていることが分かったから、素早くそれを折り畳んで、襟口に仕舞った。


『これを……光和殿と図書搭を繋ぐ渡り廊下の下にある『銀花』の枝に括ってくれないか?』

『……銀花……ですか?』

『ああ、そうだ。外国産の花でね。地味だけど、月明かりによく映える。今行けばすぐに分かるよ』

『……でも、どうして、わたくしなんかに?』

『君でなくては、駄目なんだ』


 目を細めて微笑う。

 衰弱しきった御身は、子供の小鈴から見ても、もう長く生きられないことを予感させた。


(こんなに、素敵なお方なのに……)


 この国で一番権力を持っていて、容姿にも恵まれていて、優しいお方が、どうして今、お命を失われなければならないのか?


 その感情を、小鈴は上手く表現できなかった。

 ただ胸が切なくなって、怖くなって、早々に光和殿から退出した。

 言われた通りの場所に銀花を見つけると、急いで枝に短冊を括った。


(ああ、月が……)


 ふと見上げたら、薄気味悪い図書の塔が月を背負うように建っていた。

 ここは、陰気で嫌いだ。

 ……だけど。

 何か今日は違っていた。


「…………誰?」


 満月を背景にして、塔の手摺に寄りかかっている何者かが見えた。

 誰何しても答えなかったが、幽霊ではない。

 青白い月のような女性だった。

 銀色の髪が冷たい風に頼りなく揺れている。

 唇を噛みしめ、何かを堪えている表情は、まるで…………?



「…………まるで、唯 花影。似ているというか、何がどうって言うわけじゃないんだけど」


 呂県の少し暑いくらいの日差しの中、小鈴は冷茶を啜りながら、呟いた。


 あの時のことを、鮮明に思い出しつつある、今日この頃だ。

 多分、凌星と花影に会ったせいだ。

 銀花に短冊を結んでいる時に、目が合った女性は花影の母、流月ではないか?

 彼女と紫陽との関係は、正直確信は持てない。

 けれど、王宮のことなら、小鈴だって大体分かる。


 ――エスティア系の女性が妃になることは、当時の情勢的に考えられなかった。


「あの二人って双子だったりするのかしら……?」

「……まさか。凌星殿は、光西の人間にしか見えませんよ?」

「そうよねえ……」


 仲良く……という訳でもないが、最近、茶飲み仲間化しているのは、宋 珠水だった。

 呂県まで宋家の人間が送ってくれたのだが、その後、宋 珠水が自らやって来るようになった。

 今のところ、宗家は中立の立場を貫いているので、父も何も言わない。

 まさか珠水が唯 花影の依頼を受けて、玄瑞を探っているとは、思いもしていないだろう。


「本当、街中は暢気なものよね……。父様なんて、毎日殺気立って大変だっていうのに」

「それでも、まだ浅氏は動いていないじゃないですか。苛々しているのなら、県境に展開している大司尉の軍勢と一戦交えることだって出来るはずでしょう?」

「雇い入れた傭兵やら、私兵やらを田舎の方で訓練しているみたいだけど」

「おや? 戦になったら、まず攻められるのはここなのでは?」

「都で軍事演習なんてしたら、経済が崩壊するじゃない」

「まあ、そうですが」


 物騒な話をしている。

 とても茶店の軒先で話せることでもないのだが、激しい喧噪の中で、聞き耳を立てている者もいないだろう。

 小鈴は慣れたもので、堂々としていた。


(多分、父様は攻められるものなら、攻めてみろと、陶大将軍を挑発しているのよ)


 王都と同じくらい繁栄している呂県の都を攻撃すれば、評判を落とすのは烈山だ。

 しかし、こちらからも攻撃はできない。

 紫陽によく似た太子、凌星の評判は大きく、迂闊に動けない状況が作り出されてしまったのだ。


「やっぱり凌星……様みたいな、あんなのでも、太子だって名乗り出ると、大きいのかしらね?」

「しかし、永遠に、こんな状態を続けてはいられないでしょう。和解案を持って、陶大将軍も度々使者は送っていると聞きましたが?」

「父様は、陶大将軍に降参したくないだけよ」

「じゃあ、泰全様が新王を、名乗るのでは?」

「自分に人徳がないことくらい、あの人だって、分かっているんじゃないかしら」


 長く伸びた髪を、小鈴はくるくると回した。


 ――退屈だ。


 花影や凌星と暮らしていた生活が懐かしく思えてしまうのは、自分の世界観が変わってしまったからだろう。

 綺麗に着飾って、国王に気に入られることだけが少し前までの小鈴のすべてだった。


「実は……わたくし、今度陛下のお世話をすることになったのよ。姉さまじゃ嫌だって、陛下が仰ったみたいでね」

「泰全様は、ここで貴方に陛下の寵愛が移れば良いと、考えているのかもしれませんね?」


 ……絶対に、そうだ。

 父にとって、小鈴が太子を生めば、玄瑞など用済みなのだ。

 以前の自分なら、意気込んでいただろうが、今はまったくやる気がなかった。

 玄瑞の子を生んだところで、凌星が王になったら、面倒ではないか。

 小鈴は、花影も凌星も嫌いではないのだ。


「……で? 唯 花影の方はどうなのよ?」

「先生は、もしかしたら、ここにいらっしゃるかもしれません。このことに関しては、内密にと頼まれたので、雪己殿にも報告していないのですが……」

「どうして? 凌星様に口説かれて、王宮に行ったんじゃなかったの? 河の氾濫とか、どうなったのよ?」

「あの人はいつも考えている人ですから。顛河のことも含めて、色々と思惑があるのでしょう」

「……思惑……ね。単純に、凌星様が強引に迫って、嫌になっただけかもしれないわよ。呂県に逃げ込めば、安易に凌星様も追っては来れないでしょうから」

「まあ、そういう可能性もありますが……」


 口元に薄く笑みを浮かべる。

 以前はよく分からなかったが、珠水が本心から楽しんでいる時に、そんな表情をする。

 名門の生まれのくせに、化粧っ気のない、野暮ったい娘だと見下していた。

 でも、蔑まれていたのは、小鈴の方だったらしい。


「陛下のことを貴方が調べているのなら、きっと、そのことで来るんでしょう」

「貴方には迷惑な話かもしれません」

「…………借りは、ちゃんと返すわ」


 どうしても、口が悪くなってしまうが、小鈴は密かに、花影が呂県に来ることを心待ちにしていた。


(あの人なら、何か変えられるかもしれない)


 膠着状態を打破する知恵を持っている可能性だってある。

 元々、頭が良いくせに、日々努力をしている人だった。

 愛想の欠片もないくせに、人の為の薬を毎日、徹夜して作って、感謝されるだけで満足するようなお人好しだ。

 丁李だけではない。花影の背中を、小鈴だって見ていたのだ。

 浅氏の中に、彼女のような女性は一人もいない。

 …………だから、きっと駄目なのだ。


『ありがとう。君は優しい子だね』


 遣いを終えた小鈴をねぎらってくれた。

 遠い記憶の中で、紫陽は今でも微笑している。


(そうなのよね……)


 彼らの纏う空気は、あの夭折した美しい国王のものに、とてもよく似ているのだ。

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