弐 【謎の舞妓】
◆◆◆
「君も陶将軍のことは、良く知っているだろう?」
花影の秘密を知り、母の死を隠した上で、後を継いで学司になれるよう手配してくれた人物。
学司長の柳 周庵は、いつものように、鷹揚に花影にそう切り出した。
豊かな白髯で口元の表情はうかがえないが、きっと笑っているようだった。
「……良くなんて知りませんよ。先代の王の頃に、たまに遭遇した程度ですから」
先代の国王に可愛がられていた大将軍の陶 烈山は、王宮に来る機会が多く、周庵とも多少交流があったせいか、流月共々、図書塔で遭遇する機会がたまにあった。
彫の深い面立ちをしていて、大柄な陶はとにかく目立つし、なぜか無視できない迫力があったのだ。
しかし、すれ違った時に会釈する程度で、別段親しくしていたわけではなかった。
あちらは、流月と花影が親子であるなんて知りもしなかったのではないか?
「最近は、さっぱり会っていませんけどね」
「陶家は大将軍。三公に匹敵する力を持ちながら、浅家の台頭で、陛下から冷遇されておるからの……。王宮自体に立ち入れなくなってしまったのだよ。可哀想に……」
「言い過ぎですよ。柳先生」
誰が聞いているかもしれないのだ。
花影は黒い紗の中から、周庵をきつく睨みつけた。
講義後、周庵に連れ出された花影は、半強制的に、光和殿の桟敷席に案内されてしまった。
国王の妃の数は多くないが、その侍女たちが多いせいか、光和殿の中庭から内殿にかけては、大いににぎわっていた。
予想通り、妃候補の娘たちは呼ばれていないようだが、不特定多数が集まっている宴席で、大胆発言だ。
(柳先生は良いよな……)
柳家と浅家は、親戚同士だ。
周庵は中立を保っているつもりだろうが、浅家が栄華を誇っている現在、周庵がのびのびと好きなことを発言できるのは、確かなのだ。
だが、花影は違う。
決して、誰かに顔を見られるわけにはいかないのだ。
幸い国王や妃が観覧している中央の席からは遠いものの、正直、人の多い場所は勘弁して欲しかった。
「……で? その大将軍が私を招待したと言うのですか?」
「そうじゃ。何せ、この宴自体、陶大将軍が進言したものだからの。なかなか子供に恵まれない正妃様を慰めるためのものらしい」
「…………聞き違いではないですよね?」
敵対する家の繁栄を祈る会なんて、そら恐ろしい宴を開くものなのだろうか……。
「陶大将軍は、隣国のエスティアに出兵命令が出ている。この宴に参加した足で、あちらに向かうそうだ。散々大将軍は反対していたのに、浅 泰然に押し切られた格好だ。最後の好機とばかりに、陛下と直談判をしたかったのかもしれぬな」
光西の隣には、エスティアと呼ばれている超大国が君臨している。
巷では、蛮国と蔑称されている国で、人種も言語も文字も、信仰もすべてが違う国だ。
何度も侵攻を受けては、紙一重のところで乗り切っていた。
(確か、三年前の前国王の死も、エスティア遠征がきっかけだったな……)
最近、休戦したばかりだったのに、今度はこちらから、仕掛けるらしい。
……が、そのことと、花影が宴に招待されたこととは、まったくの別問題だ。
「それだけでは、まったく意味が分かりません。ますます、混乱します」
「さあな。陶大将軍に直接聞いてみたらどうじゃ?」
「そんなこと、できませんよ」
大体、将軍は王の近くに侍っているはずだ。
そんな危険な場所に自ら出向くなんて真似はできない。
周庵だって、分かっているくせして、からかい半分で、そんなことを言うのだ。
「じゃあ、何じゃろうなあ。心当たりは、君の方にはないのかね?」
「まったく」
――ない。
そう即答しようとした矢先、わあっと割れんばかりの歓声が轟いた。
「あっ……」
「舞が始まったようじゃな」
頭上を乱舞するのは、花弁を模した桃色の紙片だ。雅やかに笙が奏でられる。
絵に描いたような栄華の一幕にも見えた。
そして、即席で儲けられた舞台の中心に突如現れた人物を、花影は確かに知っていた。
「あの子は……?」
どうやら、朝一番に、花影が目撃したのは、天女ではなかったらしい。
「何だ。舞妓さんだったの」
「へっ、あの舞妓。君の知り合いかね?」
「知り合いというわけじゃ……」
今朝、ただ一瞬、目が合っただけの間柄だ。
(大体、私とは別世界の子じゃないの?)
純白の衣と真っ赤な赤い袖の対比が、華やかな彼女の顔立ちによく似合っている。
化粧も、目元に赤い縁取りを施す独特のもので、王宮で流行っている淡い色を主体にした可愛らしいものではなかった。
長い被帛をすらりとした手で、自在に操り、重い剣を軽々と手にして舞う姿は、まるで武を司る女神のようだ。
真っ赤な夕陽が、彼女の金色の簪を際立たせるように、熱い輝きを放っていた。
「きれい……」
思わず見とれてしまう。
それは花影だけではない。その場の誰しもが彼女の魅力に惹きこまれていた。
まるで、陰と陽。
花影が日陰の存在なら、彼女は陽の存在に思えた。
そして、やはり、どこか懐かしい感じがするのだ。
(でも……なんで、剣舞なんだろう?)
見目麗しい彼女ならば、花でも持って舞った方が似合っていただろうに……。
妃候補の誰よりも、王の心を揺さぶってしまうかもしれない美貌と優雅な舞。
だが、次の瞬間……。
舞台一杯、軽やかに舞っていた彼女の目つきが一変した。
ぎらりと一閃。
まるで、鋭い切れ味を誇る剣の刃のように、殺気に満ちた瞳で、何者かを捉えた。
それは舞台から真っ直ぐ……光和殿の中に向かっているような気がした。
「柳先生……」
「何じゃ?」
周庵は、まったく気づいていないらしい。
鑑賞している妃や侍女も笑い合っていて、誰も彼女の目は見ていないようだ。
寒気がする。
もしかしたら、彼女は、この場で何かをしでかすつもりなのかもしれない。
胸騒ぎを感じた花影が上体を前に乗り出した同時に、娘は勢いのまま、剣を舞台の中心に力一杯突き刺した。
「きゃあっ!」
微かな女性の悲鳴が上がる。
だが、舞妓は微動だにせず、笑顔で観衆に手を振った。
舞は終わり、現れた時と同様、彼女は天女のように忽然と姿を消していた。
悲鳴のような喝采の中で、一際大きく鳴り響いた拍手は、国王のものに違いない。
だからだろう。
慌てていない国王の様子に、舞の流れで剣を突き刺したと誰もが解釈したようだ。
「勘違い……だったの?」
よく分からなかった。
簡易的に作られた木製の舞台に、刀身の半分が埋まっている。
剣は、本物だったのだ。
(やはり、彼女はあの時、誰かに殺意を抱いていたのでは?)
花影には、そう思えて仕方なかった。
……と、その時、光和殿の内部を覆っていた紗がふわりと翻った。
一瞬、小柄な国王の蒼白な顔を、花影は見たような気がした。
(やはり、何か感づいてらっしゃった?)
しかし、舞台は怖いくらい何事もなかったかのように、進行している。
次は演劇をするらしく、すでに数人の役者が壇上に上がっていた。
すべて終わってしまったことなのに、花影は気になって仕方ない。
(あの子、国王を狙ったんじゃないわよね?)
まさかとは思いつつも、嫌な予感を覚えた花影は、自分の肩を擦って、早々に立ち上がった。
これ以上の面倒ごとは、ごめんだ。
「さっ、一応、参加はしたわけですから、もう帰っても良いですよね?」
「おやっ、もう帰るのかな? 宴は、始まったばかりだというのに」
「しかし、私はこの姿では、飲食できませんから」
黒い紗の部分から、物を見ることは出来るが、顔を見せない限り、飲食は絶対に無理だ。
長時間、この格好でいるのは息苦しいし、ただでさえ目立つのに、これ以上、誰かに興味を抱かれるのは困る。
周庵もまた異様な光影の格好に同情したのか、意外なほどすんなりと、頷いてくれた。
「分かった。仕方あるまい。陶大将軍には折を見て、私から上手く伝えておこう」
「ありがとうございます」
慇懃に頭を下げた花影は、周庵の気が変わらないうちにと、光和殿を足早に後にした。
(ある意味、怪我の功名かしら……)
朝からずっと、銀花のことがひっかかっていた。
宴席は大の苦手だが、おかげで、帰り道に、じっくりあの花を観賞できそうだ。
花影は、吹き晒しの冷たい風に耐えながら、朱塗りの長い橋を一人で渡って行った。
皆が宴に集中しているせいか、橋の上に、人気はない。
むしろ、国として心配になるくらい、緩い監視体制だ。
先程は国王が暗殺されてもおかしくなかったのに、ここはこの世に人がいないくらい、静かである。
本当に、この先で華やかな宴が催されているのかも、怪しいくらいだった。
図書塔寄りの鳳凰の透かしが入った欄干のすぐ脇に、月光の下、銀花はひっそり咲いていた。
「よく見ると、綺麗なのね」
満開になっていることすら、気づかないような、地味な花。
むしろ、青々とした葉と、枝の方が目立っている。
けれど、先程の大輪の花のような舞台より、こちらのひっそりとした鑑賞会の方が、花影には馴染むのだ。
「銀花……明々」
今宵は満月ではなかったが、わずかに王宮の外に残っている雪にも光が反射して、小振りな花が光っているようにも見えた。
明々……ではある。
そして、月と共に、流れ星があれば、夜空の下で銀花を愛でながら、人生の儚さを痛感している優雅な宮廷人が詠んだ詩にも思えなくもない。
「だったら、ちゃんと詩の体裁にするだろうに……」
詩と呼べるものにするには、あと五語が二句必要だ。
二十文字あれば、詩として成立する。
「まあ……たしかに、栄和二年に詠まれた詩で、十文字の短い詩もないわけではなかった……ような気もするけど……あれは」
ぶつぶつと呟きながら、しばらく銀花の花弁を凝視していた花影だったが、突如、花の中からぬっと何かが起き上がって、後ろに仰け反った。
「うわっ!?」
色気のない悲鳴を上げるより先に、とっさに、頭巾がめくれないよう手で押さえた。
銀花の咲き誇っている下から、突き上げるように勢いよく出現したのは、人だった。
「な、何で、ここに人が?」
花影は、何度も瞬きを繰り返した。
見間違いではない。
つい今まで、宴の主役を演じていた舞妓が欄干の下で、銀花を見上げているではないか……。
「……どうして?」
「どうしてって、話しかけているのに、あんたが気づいてないみたいだから、花の下から出たら、気づいてくれるかなって思ったんだけど?」
「いや、そうじゃなくて……」
そんなことを、花影は問いたいわけではなかった。
舞妓は、低い声をしていた。
宋 珠水も低音であるが、それよりも更に低い。
しかも、舞の時の衣装に重ね着をしているせいか、体つきもがっしりして見えて、舞っている時の繊細な雰囲気は一切なかった。
「あの……貴方は、見間違いでなければ、つい今しがた、あちらで踊っていた舞妓さんですよね? それがこんな所に来て良いのですか?」
「良いも悪いも、国王相手にやっちまったからさ。あの場は妃の手前、何事もないように進行したけれど、あのまんま残っていたら、殺されるかもしれないだろう?」
「やっちまったって……」
随分、砕けた話し方をする舞妓だ。
それに……。
「やはり、あの時感じたのは、殺気? 貴方は陛下を……?」
「あっ、そうそう。あのおっさん、好色な目でこっちを見るからさ。つい……ね。でも、あんたまで殺気を感じたって言うんじゃ、陶のおっさんだけじゃなく、浅氏にもバレるよな。今頃、玄瑞には報告されちまっているだろう。まったく、こんなことなら、いっそのこと、本当に斬りかかっておけば良かったかもしれないなあ」
舞妓は、物騒な言葉の割に、にやにやしている。
まるで、花影を試しているかのようだ。
『玄瑞』は王の御名だ。
呼び捨てにした時点で、どんな罰を受けても文句は言えないのに、斬りかかっておけば良かったなんて、危険にもほどがある。
……しかも。
(陶のおっさん?)
陶 烈山の知り合いのようだ。
仲も良さそうで、知れば知るほど、最悪な予感しかしない。
(どうしよう……)
花影は、とんでもなく、大変な人に声を掛けられてしまったようだ。
「と、ともかく……。私は今のことは何も聞かなかった、貴方のことは見なかったことにするので、さっさと何処かに行って下さい」
「何だよ。随分と、冷たいじゃないか?」
「冷たい?」
花影は、ごくりと息をのんだ。
まるで、自分を知っているような台詞に、驚いた。
やはり、何処かで会ったのだろうか?
――しかし。
「今朝、ばっちり目が合った仲だろう?」
やはり、朝の件だったらしい。
たったそれだけのことで、因縁を押し付けてくるなんて、恐怖ではないか。
――逃げよう。全速力で。
舞妓にくるりと背を向けた花影は、本当に彼女を見なかったことにして、とっとと前に歩を進めようとした。
――が、着物の袖を、がっしりと掴んだ舞妓は離す気がないらしい。
どうしたものか……。
完全に、厄介者に絡まれてしまったようだ。
「離してくれませんか」
「どうして?」
「はっ……?」
「朝……あんたの姿を見た時に、これはいけるなって直感したんだよ」
「一体、何を?」
「ほら、よく分からないけど、あんた顔隠しているじゃないか? なのに、みんな平然としてる。なぜか王宮に溶け込んでるだろ? だから、あんたの格好をして王宮を出れば、怪しまれずに済むじゃないだろうか……と。ここで会ったのも何か運命的だなって、思ってさ」
「はあっ!? どうして、私が……」
「しーーーって!」
ふわりと跳躍して、軽々と欄干を越えて来た舞妓は、布越しに花影の口元を押さえた。
思いのほか、大きく骨張った手が、花影の心中に更なる動揺を刻む。
「危ないだろう。今、見つかったら、間違いなく、あんたも共犯扱いされる。あんただって、誰かに顔を見られたくないんだろう?」
「…………貴方?」
けれど、そんな軽い脅し文句よりも、花影は今、この瞬間、気づいてしまった事実の方に、愕然としていた。
「何?」
舞妓は至近距離から、花影を覗き込んだ。
とっさに顔を逸らした花影の言わんとしていることに気づいたのだろう。
彼は人懐っこい笑みで口元に人差し指を当てた。
「あー……もう気づいちゃったんだ? 俺のこと」
もはや言い逃れしようとも、思っていないのだろう。
ゆったりした内襟で隠れていた舞妓の喉元の隆起を、花影はしっかりと確認していた。
―――天女の如き麗しい舞妓は、男だったのだ。




