陸 【小鈴の告白】
◆◆◆
千李との話し合いが終わり、丁李と顔を合わせた時、彼女はいつもの聞き分けの良い妹分に戻っていた。
凌星は一体、どんな妖術を使ったのか……。
小鈴だけが、食卓に姿を現さなかったものの、それもいつものことで、皆で何ごともなかったかのように夕食を囲み、花影は疲労感に沈みながら、納屋に戻った。
行くと言ったのなら、早い方が良い。
病み上がりの体調を無視して、花影はありったけの材料で薬を作り、準備を整えていった。
少しだけ休もうかと、着替えを終えたところで、外から声が掛かった。
「…………ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「小鈴殿?」
寝間着の上に、綿入りの上着を羽織ってから、静かに戸を開ける。
納屋から向かってすぐ横の馬小屋に明かりはなく、人気はなかった。
(凌星殿は、眠ったのかしら?)
凌星のやんごとない身分を知った二人は、彼の寝所を変えようとしたが、彼は頑として受け付けなかったのだ。
(こんな夜更けに、何処かに行ったのかしらね……)
そんなことを考えながら、小鈴に燭台の灯を近づけると、彼女は腫れた頬を撫でながら、気恥ずかしそうに横を向いてしまった。
「べっ、別に、寝てたのならいいのよ」
「今更ですよね」
花影は散らかしていた薬の材料を仕舞うと、小鈴を室内に招いた。
花影のまとめた荷物を一瞥した小鈴は「本気なのね」と小さく呟いた。
それこそ、今更の台詞であった。
「一体、どうしたのです?」
小鈴は装いは、昼間と同じだ。
つまり、今まで眠っていなかったということだ。
「もしかして、丁李のことで、落ち込んでいましたか?」
「嫌だわ。落ち込んでなんかないわよ。わたくし、悪くないもの」
「…………そうですか」
…………どうやら、相当落ち込んでいるようだ。
しかも、それから、らしくなく、黙り込んでしまったので、花影は困ってしまった。
(話があると言われたのは、私なんだけどな……)
とはいえ、このまま無言で向かい合っていても、仕方ない。
「えーっと、小鈴殿。今回の件は、貴方が悪くない……とは申しませんが、ここに来てから、貴方は貴方なりに、色々と学ばれたと思います」
「浅氏の横暴を、学んだってこと?」
「あれ? 貴方は彼らの言い分を、信じないのではなかったのですか?」
「嫌味? もはや、信じるとか、信じないとかの問題じゃないわ。わたくしだって、色々見たし、聞いたもの……」
凌星は、小鈴が一人でここを抜け出して、慈念と家族のもとに行っていたことを話していたが……。
彼女なりに、すべてが真実であることに気づいてしまったのかもしれない。
「ですが、小鈴殿、浅氏がうんと悪いということではないのですよ。浅 泰全様の性格はともかく、優れた為政者の面もあります。特に、エスティア系の人間に関しては、浅氏の治めている呂県では、手厚い保障などもしているんですから」
「…………まあ、全部、お金のためでしょうけどね」
「貴方、一体どうしたんですか?」
いつも強気な小鈴が弱音を吐いていることが信じられない。
花影の眠気は、完全に飛んでしまった。
下を向いていた小鈴は、ようやく顔を上げた。
「ねえ、これから、陶大将軍のところに行って、貴方はどうするわけ?」
「はっ?」
「貴方は、陶大将軍につこうって言うの?」
いきなり、真正面から問いかけられて、花影は驚いた。
どうやら、話したいこととは、そのことだったらしい。
「いえ、別に。そんなこと、思ってもいないですよ。私は、ただ今後の水害について、真剣になってくれる権力者の方と知り合いたいだけです。残念ながら、浅氏の方とは無理そうですから」
「……でしょうね」
「本当……。今日は、やけに物分りが良いですね」
口調の中に、微かな侮蔑の響きがあったのは、聞違いではなかった。
今夜の小鈴は、いつもと様子が違う。
少女らしい、憂いが垣間見えていた。
「わたくし、本当は……あの親子に、浅氏がしたことを指摘された時、とっさに違うと言ったけど、きっとそうだろうって、分かっていたの。でも、父様からは証拠がなければ、絶対に認めるなって、いつも言われていたから」
「……まあ、浅氏らしい教えというか……何というか」
「だから、きっと……父様に河の氾濫のことを伝えても、陶大将軍に付け込む手が増えたとしか思わないでしょう。自分優先に物事を考える。…………それがね……わたくし、当然だと、思っていたの。みんなの言う通りよ。わたくしには、それが絶対だった。王の妃になって、子供を生む。それしかなかったの」
淡い橙色の灯りが、小鈴の横顔を照らしていた。
いつもの派手な化粧はない。
意思の強そうな瞳は、自然体で輝いていた。
(彼女も、少しずつだけど、成長しているのか……)
今はもう、我儘なだけの子供ではない。
誤解されやすいが、しっかり、自分の目で見聞きしたことを、信じようとしている。
今日は、みんなに責められてしまって、少しだけ可哀相だった。
「小鈴殿。それがおかしなことだと、貴方が気づけたのなら、素晴らしいことだと思います」
「そうかしら……。わたくしは不愉快だわ」
「どうして?」
「だって、貴方のせいだわ」
「………………私の?」
また意味不明なことになってきた。
「本当に、そうよ。貴方が自分のことより、人のことばかり気にするから、わたくしも、気になるようになってしまったのよ。わたくし、こんなふうに、なりたくなかったわ」
「えー……っと。成長したんだなって、私、密かに感動していたのですが」
……おそらく、照れ隠しだ。
素直になれないのが小鈴の特徴なのだから……。
(ここは、私が大人にならないと……)
けれど、続く小鈴の言葉に、花影の余裕は木端微塵に吹き飛んだ。
「どうせ、今回だって、あの男女……でなく、凌星……様に言い含められて、王宮に行くんでしょう。…………まったく、いくら恋仲だからって……」
「…………貴方、何を口走っているのですか?」
せっかく、殊勝な態度に感心していたのに……。
小鈴は、聞き流してしまいそうなほど、当然のように語っていた。
「別にいいのよ。そんな、隠さなくったって……。貴方たちを見ていれば、分かるわ」
「いや、隠すも何も……。私は」
…………そうだった。
小鈴は風邪で花影が倒れた際、介抱していた凌星の姿を目撃していたのだった。
誤解されるのも無理はない……のか?
「平気よ。わたくし、ちゃんと分かっているから。あれは見た目だけは、良いし。惹かれるのも無理ないわ。でも、残念ながら、万が一の可能性で、凌星……様が王位に就いたとしても、貴方が妃になることは絶対に不可能だから、そこのところ、分かっているのかと思ったのよ」
「…………ですから、何もかも、誤解ですって。私のような人間が、そのような野心を持っていると思われること自体、心外です」
「貴方、とことん、素直じゃないわね。いい? 貴方の愛しい男は、さっき宋 珠水と連れだって、どっか行っちゃったわよ。だから、変に期待しない方が良いって、忠告しに来たわけ」
「…………珠水殿と一緒に?」
「そうよ」
そうか……。
この時間に、二人で出かけたのか……。
以前から、彼らの間には立ち入れない空気があったが、そういう関係だとしたら、花影は申し訳ないことをしているかもしれない。
「だから、あの……凌星……様には、とっとと王宮に行ってもらって、貴方は……」
「分かりました」
花影は腕組みをして、深く頷いた。
「貴方の支離滅裂な言動。小鈴殿、貴方は、この生活を壊したくなかったのですね?」
「……はっ!?」
驚いた小鈴は、後ろに仰け反ってしまった。
「何言っているのよ。わたくしが、こんな生活、気に入っているわけないでしょう?」
「しかし、ご実家のことを知るにつれて、貴方は戻ることが嫌になってきた。……そもそも、一人で出歩けるほどに、私達は貴方を放置していました。本当に帰りたいと望んでいたら、私などに伺いを立てず、浅氏と連絡を取って、すぐにでも帰ろうとしたはずですよね?」
「違うわ。柳おじさまの言いつけを破りたくないから……わたくしは」
「柳先生と貴方が、そんなに仲が良いとは思えませんでしたよ」
花影が指摘すると、小鈴は唇を尖らせた。
変なところで、素直なのだ。
「柳先生の狙いは、貴方を逃がしたかったことと、もう一つ他にあるのかもしれません。私は顛河のこと以外に、それについても知りたいから、王宮に行くのです。これは、最早覆すことは出来ません」
「そんなこと、知ってどうするのよ?」
「さあ、どうするのでしょう。私にもまだ分かりません」
「馬鹿ね。……あいつのためなんでしょう」
「だから、それ違いますから」
反駁しているのに、小鈴は完全に無視していた。
「いいわよ。もう……。忠告しようと思ったけど、無駄なんだって分かったわ。恋は盲目なんでしょうよ」
「小鈴殿」
何がどうして、そうなっているのか。
けれど、小鈴の言うことを、花影は全部否定できないのだ。
花影の憶測が事実と証明できた時……。
凌星の立場は、確固たるものになる。
結局、小鈴の言う通りなのかもしれない。
花影は凌星を、どうにかしたいのだろう。
………………あの人の遺志を、継ぐつもりなのだ。
「ところで、小鈴殿。丁李にはきちんと、謝ったのですか?」
「何よ。急に?」
「どっちなんですか?」
「この家自体が、針のむしろなのよ。逃げることなんてできるはずがないじゃない」
つまり、渋々だが、謝罪したということだ。
もっとも、頑固な小鈴は自分に非がないと分かっていたら、絶対に謝罪なんてしないだろうから、このことに関しても罪悪感は持っていたはずだ。
(見事なくらい、捻くれているな……)
思ってもいないことを、口にしてしまうのは、周囲の反応を試しているからだ。
それが分かれば、可愛らしい娘……なのかもしれない。
「貴方はとことん、分かりづらい人ですね」
「……だから、お互い様でしょ」
「丁李には謝ったとのことですし、貴方が本気でここにいたいのなら、私は方々に掛け合っても、良いのですよ」
宋氏に身の保証を頼んで、小鈴をここに置いてもらう。
珠水なら、協力してくれるのではないだろうか……。
そんなことを思案していた花影だったが、小鈴の切り替えは、意外なほど早かった。
「馬鹿言わないで。帰るわよ。わたくし」
「えっ?」
「ここで居候しているより、わたくしにも、何かできることの一つはあるでしょう。余計なことは、しないでちょうだい」
「どうしたんです。今まで嫌がっていたじゃないですか?」
「考えが変わったのよ。それに、宋 珠水に借りを作るのだけは、絶対に嫌」
さすがだ。
そういうことに関してだけ、勘働きが良いらしい。
「大体、貴方は人のことで働きすぎなのよ。毎日夜なべして、薬作ったり、一人で勝手に河の氾濫なんて気づいて倒れたり……。気の遣いすぎ。そういう馬鹿なところ、大嫌いだったけど……本当は悪くないと、思っていたわ」
「…………良いのか悪いのか、意味不明ですね」
げんなりした声音で答えると、小鈴がにっこり笑っていた。
いつもの高慢さの欠片もない。
優しい表情をしていた。
「だからね、貴方に餞別代わりに教えてあげる」
「何を……です?」
「ほら、凌星……様のお顔。わたくし、思い出したのよ。あの御顔、先代の紫陽様に瓜二つだわ。わたくし、紫陽様のご尊顔を間近で拝したことがあるの」
「紫陽様と、凌星殿は似ていらっしゃると?」
「もちろん、男装した姿よ。女装だったら、怖いでしょ」
「…………もちろんです」
「貴方が、知りたがっていたことよ」
袖を引っ張られた花影は、彼女に促されるまま耳を傾けた。
小鈴は花影の耳元で、か細く囁く。
「……わたくしに、詩を書いた短冊を、欄干の下の銀花に結ぶよう命じられたのは、亡くなられる少し前の……先の国王陛下……紫陽様よ」
………………まさしく、それは花影の想像していた通りの答えだった。




