弐 【疑惑】
◆◆◆
……熱が下がらなかった三日間。
花影は、千李に養育されていた頃の記憶を、おぼろげに思い出していた。
彼女は、溢れるばかりの愛情で、花影を包んでくれていた。
たまに熱を出した日は、付き切りで看病してくれて、小さかった花影は千李のことを、実母のように『お母さん』と呼んでいた。
その時のことがあるから、彼女はいまだに我が子のように、花影を心配してくれるのだろうか……?
「本当に、もう大丈夫なんですか?」
「ええ。もうすっかり良くなりました。千李さんと、丁李のおかげです」
花影の身体にかけられた毛布の数が、二枚も増えている。
千李の配慮だろう。
この親子には、一生頭が上がりそうもない。
「でも、花影さん。いくら良くなったと思っても、あと数日は休んでいなければ駄目ですよ。風邪は病み上がりが一番怖いんですからね……」
あと数日という言葉に、花影は過敏に反応した。
顛河のことだって、半端な状態なのに、寝たきりでなんかいられない。
「もう大丈夫ですって。そんなに寝てられませんよ」
「でも、凌星さんとは、いまだに会うことを嫌がっているじゃないですか」
「それは…………」
どうしてなのか?
………………抱きしめられた。
たった、それだけのことで、花影は動揺している。
彼は単純に熱が出た花影を介抱していただけなのに…………。
(その程度のことで、私、何でこんなに意識してるんだろ)
彼には聞きたいことが山ほどあるのに、合わせる顔がないのだ。
こんなにも弱い自分を、花影は誰にも知られたくなかった。
「まあ、仲が良いことは、いいことですけど……」
「そういうのとは、違いますって」
「本当は会いたいんでしょう。会って差し上げたら良いではないですか」
千李は、たまにぐさっと刺さることを指摘する。
そして、押し黙ってしまう花影に、彼女は目尻に皺を刻んで、親しみを滲ませながら微笑むのだ。
「まあまあ、凌星さんのことは、ともかく。貴方は、この機にちゃんと休んだ方が良いんですよ。他のことは気にしないで、寝ていてください」
「……しかし、今の私には、貴方にお返しするものが、何もありません」
「私はお金なんていらないって、お話ししましたよね?」
気安く言いながら、千李は特製の木の実入りの粥を、花影に手渡した。
茶碗から立ち昇る湯気が優しかった。
かえって毒になりそうなほどに…………。
「無償というわけには、いきませんって」
「花影さんは、強情ですね。いらないって言っていますのに」
肩をすくめる千李が纏っている浅黄色の深衣。
目立たないが、ところどころに継ぎ接ぎをしていることに、花影は気づいていた。
「それに、花影さん、無償なんかじゃないんですよ。流月さんも、貴方も毎月私に送金してくれました。貴方には絶対にいらないって伝えたのに、それでも、毎回、お金を送ってくれましたよね。私は、それで充分」
「送ったお金は、私達の生活費ではありません。千李さんに対する慰謝料ですから」
「やめてくださいって」
千李の最初の夫は、流月が暴漢に絡まれているのを助けようとして、命を落としたのだと、聞いていた。
その人は、母とは幼馴染で、共にエスティアとの混血児だったということも……。
だから、流月は千李のもとにやって来ると、その都度、金を渡していた。
流月が亡くなってからは、花影がそれを引き継いでいた。
母の時代ほど、お金も出せていないし、丁李の給金だって、ほぼ無償に等しいのに……。
(どうして、この人はここまで私に良くしてくれるんだろう?)
最初の夫がエスティア系だったことに対しての親近感……なのか。
「私はね、元々、賑やかなことが好きなんです。生計だって、裁縫の内職と、近くで野菜を育てていますから、困ることはないんです。花影さんさえ良ければ、ずっと三人で一緒に暮らすことだって……」
「待ってください。それは、さすがに……」
花影が顔をひきつらせていると、千李はこちらの戸惑いを見越して、いつもの明るい調子で「冷めないうちに、早く食べて下さい」と促してきた。
確かに、冷めてしまっては申し訳ない。
花影が急いで粥を口に運んでいる間、千李は独り言のように、隣で喋り続けた。
「貴方は立派にお育ちになった。正直、流月さんは、貴方に対して、少々厳し過ぎないかと思ってはおりましたけど……」
「そんなことはありませんよ」
食べ終わった花影は、彼女の話にうなずいた。
「母は王宮で学司として生きていく厳しさを、私に教えたかったんでしょうから」
「…………でも、私は貴方が学司を継ぐ必要があったとは思えません」
「そう……ですか?」
口調に棘のようなものを感じて、花影は粥から視線を上げる。
「千李さん?」
「ああ、ごめんなさい。いえ、王宮って怖いところだって聞いていたから。今は丁李も働いているし、そんな気持ちはないんですけどね」
いつもの柔和な面持ちを取り戻した千李は、花影の手から空になった茶碗を自然に取り上げた。
「すいません。余計なことを」
「いえ、別に。そんな……」
むしろ、初めて彼女の本音を聞いたようだった。
古い付き合いではあったが、こんなに長く生活を共にしたことはなかった。
よく見知っている人物でも、ずっと一緒にいると、分からないものも見えてくる。
(何か、おかしい……)
今まで、そういうことだと、考えもせずに受け流してきた何か?
重要な見落としが、千李と自分の間にあるような気がしてならなかった。
(また変なことに勝手に気づくなって、凌星殿に言われてしまいそうだけど……)
気になってしまうのだから、仕様がない。
「千李さん、私はどうして三歳までここで暮らしていたのでしょうか?」
「急にどうしたんです? 後宮に赤子を連れて行けないと、流月さんが私に預けて行ったんですよ」
「私……あの頃、貴方のことを『お母さん』って呼んでいませんでしたか?」
「貴方は、私によく懐いてくれました」
「ええ、懐いて……いましたよね」
その……歯に何か挟まったような、物言いが引っかかる。
花影はエスティア人の特徴を色濃く引いていたから、流月と親子だと信じて疑わなかったが……。
(私、本当に母様の子なのかしら?)
物思いに沈む花影に、千李は不自然なくらい慌てて、話題を変えた。
「その、実は……近所の人から聞いたんですけどね。今朝、陶って人が陛下の罪状を責めるような……果たし状みたいなのを、みんなが集まる場所に、掲示したみたいで……」
「弾劾状……ですか?」
「そうそう、それを至るところに、立て札で……」
「そう……ですか……」
頭が痛い。
……いよいよ、陶大将軍が動き出したのだ。
また厄介事が増えてしまった。
「それで、先の国王陛下のことについても触れていたらしくて」
「先の国王って……?」
………………慧 紫陽か。
最近よく耳にする御名だ。
(陶大将軍も先代国王の死は、暗殺だと思っているってこと……?)
しかし、千李の話は、花影の想像した内容とは、まったく異なっていた。
「なんでも、先の国王陛下には御子がいらしたそうでしてね」
「はっ?」
「その御子こそが、正当な王なのだと……。花影さん、そんな噂話、聞いたことありますか?」
「いいえ、まったく……」
どうして、そんな重要なことを、花影は知らないのだろう。
まるで、その手の噂話が一切、花影のもとには入って来ないよう、操作でもされたように………。
(弾劾文。……有効な手だわ)
陶大将軍は、いきなりの謀反に戸惑っている人心に、自らの正当性を訴えようとしている。
でも、目的はそれだけではなかったのではないか?
…………もしも、特定の人物にあてた手紙の意味も含んでいたのなら?
「やはり…………」
高熱で滞っていた思考が、一気に花影の脳内を駆け巡った。
思考に気を取られ、前のめりになった途端、肩にかけていた羽織がはらりと布団に落ちた。
「花影さん、羽織落ちましたよ。また、そんな顔して……」
「ああ、すいません。またぼうっとしちゃって」
「心ここにあらずな顔ですよ。どこかに、駆け足で行っちゃいそうな……」
千李が羽織を拾って、花影の肩にかけてくれた。ついでに、ぽんぽんと両肩を叩いてくれる。
その親しい距離が、遠い思い出の蓋をあけて、花影を揺さぶるのだ。
「もし、先代国王に御子がいらっしゃるとしたら、私と歳は近いでしょうね」
「王宮の…………先代国王の御落胤……ですか」
「気になりますか?」
「まあ、私も光西の人間ですからね」
千李の暗い声音。
(違うな…………)
彼女の気にしているのは、政情不安ではない。
もっと違う何かだ。
心の内を探るつもりで、千李を凝視すると、視界の隅に花影の使っていた文机が映った。
綺麗に片付いている。
「あっ…………」
「どうしました?」
「そういえば、千李さん。倒れた時に、私が書き散らかしていた紙類は何処に……?」
「えっ、何のことですか? 丁李と私が来た時には、片付いていましたよ」
千李は、きょとんとしていた。
――……ということは?
「凌星殿は、今どこでしょう?」
千李や丁李なら、ともかく彼が持って行ったとしたら、一大事だ。
私的な思いなど、どうでも良い。
…………どうしても、彼には会わなければならないようだった。




