弐 【凌星と二人】
◆◆◆
……黄昏時。
今日一日稼いだ分のお金を、皆で慈念のもとに届けに行くと、薬屋に直行すると、涙ながらに感謝してくれた。
凌星の目論見通り、花影の薬はよく売れた。
花影がエスティアとの混血児であることを逆手に取った成果……ともいえなくもないが、一番の要因は、凌星が女装で舞を披露したことだろう。
人寄せとはいえ、舞っている時の凌星は、春の精そのもので、薄桃色の衣が花弁のように、雪風の中に揺蕩っていた。
(綺麗だったのに……)
はあ……と、花影は溜息を吐く。
傍らで、眉間に深い皺を刻んでいるのは、凌星だった。
首筋に、ほんの少し白粉が残っているが、あっという間に可憐な女装は解いてしまい、今は藍色の袍をゆったりと着こなしていた。
(もったいない)
いっそのこと、ずっと女装でいたら良いのだと、じとりとした視線を送ると、待っていたかのように凌星と目が合った。
「なんだよ、先生。まだ昼間のアイツのこと気にしているのか? 大丈夫だって言っただろ?」
「ええ。それなりには貴方を信じてますけど」
「それなりって、なんだよ?」
「むしろ、私よりも凌星殿の方が不機嫌なんじゃないですか?」
「そりゃ、不機嫌に決まっているじゃないか。小鈴の奴め。どうせ払うのなら、もっと早く言えって話だよな!」
「…………何だ。それですか」
花影は苦笑した。
容姿端麗、非のつけどころのないくらい美形のくせに、発想が子供のまんまだ。
「ですが、凌星殿。小鈴殿に関しては、結果的に有難いことでしたよ。あれから、私の薬はよく売れましたけど、心の臓の薬代には、あと少し届きませんでした。……凌星殿だって、少し出してくださったじゃないですか」
「俺は最初から、そのつもりで、舞妓しながら稼いでたんだ」
「えっ、最初から……ですか?」
「別に先生のやり方を非難しているわけじゃないけど。俺なりに、あの家族にはちゃんと金を払おうって決めてたんだ。まったく、政情不安じゃなければ、もっと稼げたのに」
「…………貴方って人は」
足りない薬代を補填すると、凌星が自分の稼いだ金を渡してきた。
そうしたら、まるで、喧嘩を売るかのように、小鈴が大金をぽんと出してきたのだった。
花影に言わせれば、小鈴も小鈴だが、凌星も凌星だ。
あれこれ考えていた自分が情けない。
「だから、なかなか貴方と、顔を合わせなかったんですね……」
「あっ、もしかして、先生。俺に嫌われたんじゃないかって気にしてた? 今、ほっとしてるとか?」
「いえ、別に。ほっとしたというより、納得したという感じです」
微妙な表現の違いを正すと、今度は凌星がどっと笑った。
「つれないな。……まっ、ともかく、今回のことは、先生が俺のことを益々信用してくれたってことで、俺も納得するかね」
「ええ。私も信用していない人と、二人きりにはなりませんからね。不審だったら、すぐに小鈴殿を連れて逃げていますから」
「だろうな」
足場の悪い雪道を、丁李が差し入れてくれた綿入りの羽織を着込んで、凌星と二人で歩いていた。
先程、花影は千李宅の少し手前で、凌星に呼び止められたのだ。
『花影だけに、見せたいものがある』
……と。
丁李は最後まで心配そうだったが、花影が説得して、ようやく納得したのだった。
しかし、花影に見せたいものとは何なのか?
てっきり、歩いてすぐの場所だと想定していた花影は、裏切られた気分だった。
(早く帰りたいんだけどな……)
新たな薬も作っておきたいし、凌星のことは信じてはいるが、こうとなっては、早々に小鈴の今後も決めておかなければならない。
それに、なにより寒い。
ぶるっと身震いすると、弾みでくしゃみが出た。
よろけそうになった花影を、ひょいと凌星が支える。
「…………あ」
至近距離から覗き込まれた花影は、あからさまに視線を逸らした。
「何ですか?」
「いや、なかなか良いと思って」
「はっ?」
「化粧だよ」
そういえば、今、花影は小鈴御用達の派手な化粧を施されているのだった。
正直、花影は自分に関することは、すぐに忘れてしまう。
(ああ、いやだ、いやだ)
自らの肌に塗り込められた顔料のべたつきを思い出して、花影は口元をひきつらせた。
「そうでしょうか。私には、いつもより風が皮膚に当たって、肌が痛いという感想くらいしか……」
「珍しく頑張った小鈴が怒りだしそうな言葉だな」
「残念ながら、私、こういうの苦手なんですよ。何だか、やたら目立ってますし」
顔の造りがまったく違うエスティア人と光西人だ。
化粧なんてした日には、更にその人種の違いが際立ってしまう。
いっそ、いつものように、襟巻で顔を覆い隠してしまいたかったが、生憎、襟巻は丁李に預けてしまい、今は手元にない状態だった。
(一体、いつまでこの晒し者の風体で歩かなきゃならないんだろう?)
凌星は、都のはずれにある丁李の家よりも更に下り、城門を出て延々と歩いていた。
心の奥底でぶつくさ文句を言いながら、彼の背中について行くと、やがて開けた道に出た。
更に南下すると、光西とエスティアを縦断している大河。
顛河を見下ろす土手に辿りついてしまった。
過去、何度も氾濫を繰り返してきた河の両側は、石が堆く積まれて、人工の土手が築かれていた。
「これが、顛河…………?」
轟々と音を立てて流れている。
河幅は都の大路の三倍くらいは、ありそうだった。
水面からは、蒸気が立ち上っていて、対岸の土手に降り積もった雪は、自然のままこんもりと残っていた。
今時分になって、分厚い雲の隙間から姿を現した太陽は、水面を橙色に染めていた。
今まで、花影が王宮で目にしたどんなものより、壮大な景色に見えた。
「こんな所まで来たのは、私、生まれて初めてです」
「そうだったか。あんた、ずっと王宮育ちだもんな」
凌星がぽんと、花影の頭に手を置いた。
そんなふうに触れられたのも、初めての経験で、花影がひどく戸惑っていると……。
「言ったろ。あんたにどうしても、見せたいものがあってさ」
こちらの動揺など気にするでもなく、凌星は更に速度を上げて、前方にずんずんと進んで行った。
花影は必死で、彼を追いかける。
やがて…………。
「ああ、これだ。先生。こいつを見てくれよ」
「えっ?」
太い枝の先に、頼りなく揺れている花弁を手で摘まみながら、凌星は花影を振り返った。
その花こそ、紛れもない。
「………………銀……花ですか。これ?」
「そう、銀花だ。この辺りで唯一咲いているんだよ。あんたに、これを見せたかったんだ」
「こんなところにあったんですね。私も色々と探していましたが、見つからなかったんです」
「他にも咲いている場所はあるんだぜ。でも、ここが一番近いと思ったんだ。今年暖冬みたいだし、早くしないと、枯れてしまうかなって思って」
「ありがとうございます」
上の空で礼を告げながら、花影はしげしげと銀花を眺めた。
盛りを過ぎて、朽ちる寸前の銀花の花弁は鈍色になっていて、本当に地味で目立たない印象だ。
この花が咲く場所をいちいち知っている凌星は、やはり銀花に特別な思い入れがあるのだろう。
「な? やっぱり、俺のこの簪は銀花だろ?」
凌星が懐から金色の簪を取り出す。
花影はそれと銀花の花弁を見比べて、大きく頷いた。
「そのようですね。……ええ。ちゃんと、その簪は、銀花を象っていると、私も思います」
「おっ、ようやく認めてくれたな」
満足げに微笑する凌星に、花影は複雑な気持ちを抱いた。
そこまでして、この青年は花影に簪の花を『銀花』だと認めさせたかったのか……。
「そこまでの想い……なんですね」
「え?」
「貴方にとって、銀花とは……」
正直、花影の知っていることは、余計なことかもしれない。
でも、話さないでいるのも、酷い話ではないか?
彼が陶大将軍のもとに帰れない理由もそこにあるのなら……?
(彼が求めていることに、少しでも役に立つのなら、話してみても良いか……)
つい最近、発見した母の遺品がここまで尾を引くなんて、花影は思ってもいなかったが、確かに、凌星の言う通り、これもまた何かの運命なのかもしれない……。
「凌星殿……実は」
銀花の花弁を撫でながら、花影は意を決して、切り出した。
「私がこの花を気にしていたのは、母の遺品に、銀花のことが書いてあったからなんです」
「ん? あんたのお母さんって、前の学司……か?」
「これを、見て下さい」
最近は、お守り代わりに、小さく畳んで、財布の中に入れて持ち歩いていた。
母、流月の形見の紙片。
花影は深呼吸一つして、文机の中にあった紙片を、凌星に手渡した。
ごくりと息を呑んで、凌星は二つ折りの紙片をゆっくりと広げる。
……開口一番
「何だ。これは……?」
呟いたきり、黙り込んでしまった。
「……ね? 意味が分からないでしょう? 私にはさっぱりです」
「うーん。暗号のようにも見えるけど?」
「詩については、私も母から習いましたけれど、銀花が明るくなるという表現方法を、聞いたことはありません」
「でも、あんたのお母さんは、それを大切に持っていたんだろう? それで、俺が持っている簪が銀花っていうのも……。偶然にしては、出来過ぎじゃないか?」
真剣な様子の凌星に、花影は最初に王宮で出会ったときのことを思い返していた。
彼は王宮で、もっと知りたいことがあったのかもしれない。
――たとえば。
「もしかして、凌星殿のお母様は、後宮にいらっしゃったのですか?」
花影の問いかけは、何となく以前から気になっていたことだった。
だから、彼は初めて会った日、後宮の近くにいたのではないのか?
凌星は一回下を向いてから、曖昧に首肯した。
「うん、多分。……そうだと思うんだけどな。正直、よく分からなくて。とうに出てしまっているかもしれないし、死んでしまっているかもしれない。でも、過去に後宮にいた可能性が高いと思って、ずっと密かに捜してたんだ。手掛かりがこの簪しかないから、後宮内の銀花の場所を調べて……。それで、あんたに……行きついたんだけど」
「もし、後宮にいるとしても、大変な人数ですからね。銀の名前を冠した妃はおられなかったと思いますが、それ以上は私にも分からないです。でも、珠水殿でしたら……?」
「有り得ないよ。先生は『後宮にいる全員の顔を覚えている』なんて馬鹿な話、本気で信じているのか?」
「それは、その……」
やはり、嘘だったのか……。
「じゃあ、ほら。陶大将軍に、捜してもらえばいいじゃないですか。どうして、それをしないんです? 早くしないと、後宮の妃たちは実家に帰されてしまいますよ。今から、王宮に行って……」
「駄目だ。今、王宮なんて行ってみろよ。母親捜しどころの騒ぎじゃないぞ。大体、あのおっさんが嘘ばっかり言うから、俺がこうして動く羽目になっているんだよ」
「そう……なんですか」
どうやら、二人の間には、花影が立ち入れない大きな壁があるようだった。
(……でも、凌星殿は、王宮に行かなければならない人なのでは?)
先程の男は、明らかに凌星を狙って、花影に接触してきた。
すべてを知った上で野放しにしているのは、それだけ凌星の自由意思が尊重されているからだ。
どう考えたところで、彼は陶大将軍にとって、必要な人材であることは確かなのに……。
「凌星殿。私が図書塔で『銀花』のことを呟いていたのは……」
隠す理由のない花影は、素直に答えた。
「小鈴殿が講義の際に、提出した詩に『銀花』が登場したからなんです」
「はあっ!? 何だって?」
こちらが驚くほど、彼は目を丸くしていた。ついでに、酔っ払いのようにふらついている。
「先生は、そのこと……本人に聞いたのか?」
「何度か聞いてみようとはしましたが……結局、聞けずじまいですね」
「ちょっと待て。嘘だろ……」
頭を抱えている凌星の気持ちが、花影にはさっぱり分からなかった。
「しかし、凌星殿。小鈴殿が書いていたのは、誰かに頼まれて銀花の枝に文を巻いたとか、そういうことでした。詩作の講義の際、満開だったのは、銀花くらいです。小鈴殿の思いつきかもしれません。貴方の母君と、まったく関係のない可能性が高いですよ」
「まあ、そうかもしれないけど。…………いや、普通、そう思うけどさ」
頭上を旋回している烏が一斉に鳴きはじめた。
凌星は白い息を吐きながら、夕焼け空を見上げた。
それから、ぽつりと一言。
「なんか、面倒になってきたな……」
まあ、確かに……。
いちいち、考えるのは疲れることだ。
花影も、身をもって知っていた。
「だけど、ほら、凌星殿。そんなに気を落とさずに。私も今日世話になった分くらいなら、分かる範囲で協力しますから」
「先生が協力してくれるのか?」
「ええ。私じゃ、役不足かもしれませんけど」
凌星はとっさに浮かべた花影の愛想笑いに、目を見開いたまま、固まってしまった。
「あっ? 何ですか? もしかして、余計なお世話でしたか?」
「ああ、いや、俺は別に」
凌星は、横を向いて口元を押さえていた。
彼が耳朶まで真っ赤に染めているのは、夕闇時の寒さのせいに違いない。




