玖 【光を纏う人】
「おいっ! いい加減にしろよ」
…………違う。
たった今、花影の脳裏に浮かんだ青年の姿……とは違っている。
けれど、春の精のような薄桃色の衣をまとい、高く結った髪にきらきら光る簪を挿している彼の姿を、花影はよく知っていた。
「りょう……せい殿……」
間違いない。
女装姿の凌星が花影の前に立ち、男の手をがっしりと掴んでいた。
「…………あんた、一体、この人に何を言ったんだ?」
凌星は、振り返らなかった。
今まで聞いたことのない底冷えのする声を発して、男と対峙している。
顔の半分以上を覆っている襟巻きを寛げた花影は、肌に吹き込んでくる粉雪の冷たさに身を震わせながら、彼を見上げた。
「……あの、凌星殿? どうして、貴方がここに? それに、その格好は?」
「先生、話は後で良いか? 俺は今、かなり苛々している」
「はあ」
どうやら、彼の怒りは花影に向かっている訳ではないようだ。
こうして、ちゃんと会話をするのは久々だったが、懸命に花影を自分の後ろに隠している。
彼は彼なりに、花影を気遣っているようだった。
「あんたさ、こんな回りくどい手を使って、最低だと思わないのかよ!?」
怒りをぶつけながらも、凌星は男の手を振りほどくと、自らを落ち着かせるように、小さく息を吐いた。
(ああ、やはり……か……)
この男と凌星は、近しい間柄なのだ。
普段、飄々としている凌星が、ここまで感情を露わにしたところを、花影は目にしたことがなかった。
(大将軍ゆかりの人……なのかしら?)
だったら、さすがに安閑と構えてはいられれない。
成り行き次第では、速やかに、小鈴を連れて逃げなければならない。
…………だけど、なぜだろう。
この男が、無闇に小鈴や花影に手を出すようには、どうしても思えなかった。
「直に俺と話がしたいのなら、正々堂々来いよ」
「…………ははっ」
「なにが可笑しいんだ?」
凌星の怒声にも、男は涼しい顔をしている。
「直接、妓楼に踏み込まなくて良かった……と思いましてね。よもや、女装の舞妓に正々堂々なんて言われるとはね? 何です、その格好? 趣味の女装で、逃げ暮らす算段ですか?」
「………………あんたまで、そんなことを言うのか」
「女装しているのは、確かでしょうに。嘆かわしい…………」
男は片目を眇めて、固まっている凌星を見下ろした。
しかし、その表情に深刻さはない。
反論できない若者をからかって、楽しんでいるようだった。
……むしろ。
次の一言の方が重かった。
「…………貴方、いい加減、観念したらどうですか?」
面白半分ではない、真摯な一言が降る雪の寒々しさと相俟って、その場を凍りつかせた。
(えっ……)
花影は自分のすぐ前で、爪が食い込むほど、拳を握りしめている凌星の姿に息を止めた。
……観念?
たった、その一言の為に、男は花影に接触をはかったらしい。
(どういうことなんだろう?)
それに続く凌星の回答を知りたくて、花影は耳を澄ます。
……だが、凌星の声は小さく、花影の耳には、手がかりの一つも届かなかった。
………………そして。
「ほう? では、その日が来ることを、楽しみにしていますよ……」
何事か言葉を交わした後、わざとらしい高笑いを残して、男は花影を一瞥すると、うっすら積もった雪を踏みつけながら、その場を去って行ってしまった。
「一体?」
無数の雪礫が、今までの出来事を隠すように、二人の間に吹き込む。
この寒い時期に、凌星が身に着けている薄手の衣の袖が、雪の中にひらひらと舞っていた。
「あの……凌星殿?」
花影がおそるおそる凌星の前に、回り込むと、彼は弾かれたように、顔を上げた。
相変わらず、見た目だけなら、後宮の貴妃たちよりも、美しかった。
「あ、ごめん。先生」
「いえ」
しかし、凌星はすぐさま、花影から目を逸らしてしまった。
「悪かったな」
「…………いや……別に、そんなことはいいのです。それより……」
「いや、今回は全面的に俺が悪い。今回のようなことは、二度と起きないから」
彼が自信満々だからこそ、花影の不安は濃くなった。
「それは絶対と言い切れるのですか? もしも、二度目があるのなら、私は柳先生から頼まれた手前、小鈴殿を連れて逃げなければなりません。あの人は……私のことも知っていたようですし、陶代将軍側の人間……なんですよね?」
「それは……その……。あまり話したくないな」
「話したら、貴方が困ることなんですか?」
「別に、悪意があってのことじゃないさ。ただ……今、話したら、俺が……混乱しそうだから」
「私には、意味がまったく……」
「ともかく、こんなことはもう絶対にないから。先生たちは、このままの生活を続けて欲しい。…………本当に、ごめん」
花影の問いかけを拒むように、凌星が頭を下げた。
まだらな通行人が目をみはる程、深々と頭を下げている。
まるで、こちらが促しているようで、花影は動揺した。
「や、やめて下さいよ。別に、貴方が悪いわけではないのですから」
「いや……あいつのことだ。先生、色々と腹の立つことを、言われたんじゃないのか?」
「それは」
実際、腹を立てている暇もなかったが、挑発されたのは確かだ。
花影は、曖昧に頷いた。
「ああ、そういえば、エスティア人が先代国王を……」
「どうした?」
「いえ、別に」
しょせん、虚言だ。
王宮での生活が長い花影が知らない噂なんて、逆に怪しいではないか……。
花影は、慌てて話題を変えた。
「でも何だかんだで、あの人はエスティアのことを蛮国とは呼びませんでした。礼儀のある人なのでしょう。わざと挑発して、私の出方を試したかっただけならば、貴方が仰るとおり、もうこんなことは起こらないだろうと、私も思います」
「…………それこそ、まさしく、回りくどくて、苛々するけどな」
「凌星殿……」
凌星は、せっかく綺麗に結い上げていた髪をくしゃくしゃに掻き乱して、荒れていた。
(そうよね……)
つまり、礼儀正しいということは、相応の身分がある人物と見るべきなのだ。
(もっと顔を見ておけば良かったか……)
それでも、なんとなく、凌星の立場は、分かってしまった。
きっと、彼は陶大将軍側のやんごとなき身の上の人物なのだ。
どうして、彼がしがらみから逃れて、花影と共にいるのかは謎だが……。
「………………凌星殿。貴方は」
「それでさー! 先生」
花影の質問を遮るためだろう、あからさまに、凌星が声を張り上げた。
「薬は、売れたのか?」
「あっ……!」
ああ、そうだった。
一番の目的は、それだった。
小鈴に危険がないと凌星が言うのならば、今優先するべきは、なにより薬を売ることなのだ。
「……やっぱり、売れてないみたいだな」
「貴方……わざわざ、ひやかしに、女装までしてここに来たのですか?」
花影は、通行人の邪魔にならないように、再び薬を並べた茣蓙のほうに歩きだした。
その横に、ぴたりと凌星が並ぶ。
「まさか、あんたを心配してたんだ。あの家族の娘の薬が切れるのが明日だろう。様子を見に来て正解だったよ」
「えっ?」
どこまで、人が好いのだろう?
あれだけ花影が拒絶したにも関わらず、彼は嘲笑うでもなく、純粋に薬の売れ行きを気にしていたらしい。
「まあ……その。ご覧のとおりです。凌星殿。お恥ずかしい限りで、たとえ、貴方に手伝ってもらったとしても、私の才覚では、短期間にこれらの薬を売りさばくことは出来なかったようです」
「…………じゃあ……売るのをやめるのか?」
「まさか……。ここまで来て、引き返せません。もう少し、粘りますよ」
「やっぱり、そう言うと思ったよ」
「先生!!」
……と、丁度そこに、丁李が雪道を慎重に駆けてきた。
「どうしたんです? 丁李」
彼女だけなら、もう少し早く走れるはずだ。
ゆっくりなのは、引っ張って歩いている人物がいるせいだ。
「…………なんで、小鈴……殿が?」
丁李が引きずるように歩かせていた小鈴を、花影の前に押し出してきた。
「凌星さん、小鈴殿を連れてきました」
「よし、やろうか……」
「なっ……?」
二人で微笑み合っていることが、花影にはさっぱり理解できない。
「一体、これは何事ですか?」
「あんたが容姿を引け目に感じていることは、分かっていたからさ。いっそのこと、エスティア人風に、化粧をすれば良いんだと思ったんだ」
「………………へっ?」
「だけど、ほら、俺は舞妓の化粧は出来るけど、これは特別で、白塗りで派手だから、先生がやったら、悪目立ちしちまう。丁李に聞いたら、そういうのは苦手だって話だから、小鈴を連れて来てもらったんだ。八之宮にいた頃は、こんな小娘でも、流行の中心になっていたんだろう?」
「あの……」
早口で捲し立てられて、花影は益々混乱していた。
「凌星殿、私はたった今、そのことが原因で、絡まれていたばかりなんですけど?」
「ああ、今のは恐ろしい偶然だ。気にするな。今後、あんたに近づかせることはないと言っただろ。安心しろ」
「…………私には壊滅的に、意味が分かりません」
「だからさ、光西の人間は憎みつつも、エスティアの医療が進んでいることは知っているんだ。だったら、いっそのことエスティア人として商売した方が売れるんじゃないか?」
得意げに胸を反らしている凌星は、中性的で可愛らしい分……怖かった。
「そんなことしても、無駄だと思いますが?」
「やってみなきゃ分からないだろ?」
「ちょっと、待ちなさいよ。わたくしがどうして、この異国人を飾りたてなきゃいけないのよ! しかも、男女が……また女装なんてして、気色悪い」
「何だと! 俺の女装は完璧すぎるって、評判なんだ。この姿で薬を売れば、客が来ること間違いないだろ? こうなったら、意地でも売上げ倍増させてやるからな」
「馬鹿じゃないの。そんな用件なら、わたくし帰らせてもらうから」
なぜ、ここに連れられてきたのか、小鈴自身、まったく知らなかったようだ。
くるりと背中を見せて、一歩踏み出したところで、丁李が小鈴の肩をぎりぎりと力一杯掴んでいた。
「帰るって、私の家ですよね? 我が物顔で、帰るなんて言われると、非常に不愉快です」
「だって、仕方ないでしょう。わたくしには、他に行くあてが……」
「行くところがないのなら、せめて、ほんの少しくらい手伝ってくれても良いのでは? 凌星さんから、聞きましたよ。元はと言えば、貴方の身内がしでかしたことなんですよね?」
「わたくしのせいじゃ……」
「小鈴、あんた、いつも小綺麗にしているじゃないか。それくらい、ご教授してくれてもいいよな?」
凌星の有無をも言わさない一言で、小鈴は黙り込んで、茣蓙に座った。
――途端。
「寒い……わねえ! こんなところにいたら、凍え死ぬわよ!!」
その叫びに、丁李がハッとして、涙目になる。
「先生……。こんな寒い中、毎日、こんなところで薬を売っていたなんて。私、役立たずで本当に申し訳ありません! 凌星さんが教えてくれなきゃ、私……。場所も詮索しませんでした」
「丁李、いいんですよ。私は好きにやっているだけです。貴方にも気にかけないように、きつく言ってしまったから」
…………そう。
結局、花影は好きにやって、自滅してしまったのだ。
己一人で出来ることだと、自惚れていた。
そんな甘いものでは、なかったのに……。
それを、凌星は花影に教えようとしているのかもしれない。
「その……こちらこそ、申し訳ないですが、皆さんの力を……貸して下さい。あの家族にせめて薬くらい買えるお金を用意したいんです。お願いします」
花影が三人の前で、深々と頭を下げると、小鈴が硬直していた。
「どうして、そこまで躍起になっているの? 浅氏は関係ないはずなのよ?」
「浅氏に関係あるとかないとか、そういう問題ではないんですよ。小鈴殿」
「はっ?」
「さて! まず、俺が呼び込みしてみるから、薬の種類を簡単に教えてよ。……先生」
「ちょっと、凌星殿」
容赦なく腕を引っ張て来る凌星の……その人懐っこい笑顔が、花影の薄暗い視界の中で眩しかった。
(ああ、そうだ……。すべて、この人が……)
彼がいたから、小鈴も来てくれた。
丁李、小鈴、そして自分が出来ることを見抜いたうえで、彼が皆をまとめてくれたのだ。
(たとえ、彼が何者であっても……)
小鈴はぶつぶつ言いながらも、自分の得意分野を誉められたことが単純に嬉しかったらしい。
花影に、うんと派手な化粧を施してくれた。
凌星のよく透る声が、凍てつく空気を解かすように、人々に届く。
(やっぱり……凌星殿は、上に立つ人なんだな)
そこだけ、光が降っているように……。
花影は、彼の頭頂を彩る金色の簪を、遠くの世界のように眺めていたのだった。




