捌 【謎の男】
◆◆◆
――銀花。
市井には、あまり咲いていないらしい。
花影はいつも気にかけているのに、今まで街中で、一度もお目にかかったことがない。
もしも、もう一度鑑賞することが出来たのなら、凌星の持っていた簪と形状が似ているのかどうか、確認が出来るのに……。
(話せば、良かったのかな?)
凌星に、銀花のことを……。
花影の母が遺した紙切れを見せて、感想を聞いてみれば、良かったのだろうか?
しかし、話したところで何になるのだろう?
彼は単純に、母親の形見を懐かしんで、銀花を愛でたかっただけだ。
花影とは、事情があまりに違う。
(そういえば、あの日から凌星殿に、あまり会ってないな)
頼んでないのに自己主張が旺盛な小鈴とは違い、凌星は花影の前に姿を見せなくなっていた。
頑として花影に断わられたことが、彼にとっては、屈辱的だったに違いない。
(それでも、まだ出て行かないのは、よほど銀花のことを知りたいのかしら?)
それとも、陶大将軍と絶対に会いたくないのか……。
凌星が言っていることは、正しい。
陶大将軍にとって、小娘の小鈴など、どうでも良い存在なのだ。
現に、二十日経った今もなお、陶大将軍は王宮を占拠しているだけで、目新しい行動を起こしていない。
自らを王と宣言することもなく、謎の沈黙を続けたままだ。
都から逃走した浅氏を、追うことすらしないのは不気味だが、だったら、いっそ小鈴を実家に逃がしてしまっても、大丈夫なのかもしれない。
(都と浅氏が支配している領地……呂県を往復している行商人を探して、小鈴殿を送ってもらおうか……)
さて、どうするかと思案しながら、白い息を手にふきかけた花影は、長時間、茣蓙に正座していたせいで、硬直してしまった太ももを擦った。
粉雪が舞っている曇天の下を、歩いている人は、疎らだった。
現状、一番の悩みの種は、それであった。
(困ったな……)
不眠不休で薬を作ってはみたものの、思ったとおりには売れない。
当面の花影の生活費程度なら賄えるが、あの家族のことを考えると、絶対的に足りない。
公雲の妹の薬が切れるのは、明後日だったはずだ。
力になるとも確約できないから、あの日以来、あの家族のもとを訪れてもいないが、それでも、花影はいつも気にしていた。
(見通しが甘かった……か)
寒い土地なので、風邪薬が重宝されると見込んでいたのだが、そんなことはなかったようだ。
大体、都がどうなるかめ知れない時分に、常備薬なんて見向きもされないだろう。
(でも、ここで諦めたら、駄目だわ……)
あれだけ強情に一人で売りさばくと宣言したのだ。
よしっ……と、花影は気合を入れて、頭と顔の大半を覆っている大きな襟巻きを、きっちり直しながら、立ち上がった。
「あのっ!! 風邪によく利くお薬はいかがですか!?」
何とか笑顔らしきものを作って、通りを歩いている人達を呼びかけてみる。
寒さから逃げるように歩いていた人たちは、一瞬足を止めて、花影を注目してくれるものの、すぐにまた何も見なかったかのように、通り過ぎてしまう。
だが、花影も意地になっていた。
人通りはあるのだ。
声をかけていれば、一人くらい興味を持ってくれるかもしれない。
感覚がなくなりつつあった足を前に出して、通りの中央に出る。
「……あっ、風邪薬とか、切り傷に効く軟膏もあるんですよ」
雪が顔に触れて、大声は出せなかったが、花影のしていることは、道行く人に伝わったらしい。
ふと足を止めた男がいた。
「おい……あんた」
「はっ」
大柄で姿勢のよい壮年の男だった。
被りつきの外套によって、頭からつま先まで、黒一色に染まっている。
覆いの中から、ちらりと覗くのは、彫りが深く、余計な肉を一切削ぎ落とした面長の顔と、殺気を宿した鋭い烏色の瞳だった。
腰の膨らみは、扱いやすい短剣を帯びているからだろう。
…………見るからに、武人のようだった。
(この人が、薬なんて必要としているのかしら?)
傷口に使う軟膏なら、需要がありそうだが、しかし、男は薬よりも、花影に興味があるようだった。
こちらに、ぬっと顔を寄せると、遠慮なく花影のことを凝視している。
「お前、エスティアの人間の血が混ざっているな?」
「…………えっ?」
突然、降ってきた不躾な質問に、花影は唖然とした。
しかも、男は明らかに侮蔑を含んだ薄笑いを浮かべている。
「直系ではないだろうが、光西の人間とは、骨格が違うからな。いくら顔を隠しても、俺には分かる。エスティアでは、沢山の兵士を殺してきたからな」
「………はあ」
なるほど。
この男は以前のエスティア遠征の時に、徴兵されたのか……。
(つまり、私怨から、私にちょっかいを出している?)
――と、やはり、その通りだったらしい。
「エスティアの人間が、光西人に堂々と薬を売るなんて、なんとも皮肉な話だよな」
「…………どういう意味ですか?」
意味が分からずに、首を傾げると、男は花影に近づいてきた。
「先の国王を殺したのは、エスティアの人間だって言うじゃないか?」
「……いえ、知りません。そんな話。私は初耳です」
「ほう……。都にいて、知らないとは……。お前、よほど家柄が良かったんだな。それとも、檻に入れられて世間を知らないのか?」
確かに……。
(檻……か)
王宮は花影にとって、頑丈な檻だったのかもしれない。
そんな噂、王宮にいた時に、聞いたことがなかった。
あの頃……。
ひたすら、勉学だけに専念していた花影の耳に、その手の噂が届くことは、ほとんどなかったのだ。
「貴方が仰ってるのは、先々代の国王のことですか? 確かに、先々代の国王は、エスティア遠征中に、矢傷を負ったことが原因で、お命を落とされたそうですが、先代国王は遠征中に流行り病を患ったということしか、私は知りません」
「…………じゃあ、お前が知らないだけだな。噂で都中の人間が知ってることだ。今回の政情不安で、更にエスティア人に対する締め付けが強まるかもしれない。……薬は売れないぞ」
「忠告して下さってるのですか?」
「随分と、おめでたい性分だな」
被りの中の男の顔が一層、険しくなったのが分かったが、不思議と花影は怖くなかった。
どんなに苛立ちを抱いても、この男が花影に手を出してくるようには思えなかったのだ。
「しかし、その噂話と、私の作っている薬の効能とは関係ありません」
「ほう、では、お前が売っている薬の効能とは何だ? 毒じゃなければ、その薬で、エスティア人は男を籠絡するのか?」
「何を仰っているのか、よく……」
花影は、ごくりと息をのんだ。
男の言動は支離滅裂にみえて、何となく計算されているようだった。
だから、言い返せなかったのだ。
(……男?)
花影の知っている身近な男性は、たった一人しかいない。
……それは。




