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銀花、煌めく  作者: 森戸玲有
二章
11/57

伍 【千李宅にて】

◆◆◆


 ――まったく、とんでもない一日になってしまった。


 疲労困憊で、丁李の家に帰り着いたのは、夕餉の支度に間に合うか否かの黄昏時だった。


「花影さん、遅かったですね。心配しました。何かありましたか?」


 戸口の前で、心配そうに待っていたのは、丁李の母・千李せんりだった。


「いいえ。別に……。色々買い物していたら、こんな時間になってしまいまして……」

「それなら、良いのですが……。心配しましたよ」

「ごめんなさい。これからは気をつけますので……」 


 花影は無理して、笑みを作った。

 笑顔は苦手な方だが、彼女のためなら仕方ない。


(この人だけには、心配かけたくないものな……)


 丁李を一回り大きくして、目元に皺を寄せた姿が、彼女である。

 本人たちが何も言わなくても、親子であることは瞭然としていた。

 そして、この人の好い女性は、いくら生前母と友人だったからとはいえ、花影を甘やかし過ぎのような気がする。

 こちらが彼女を危険に巻き込んでしまっている状況なのに、転がりこんだその日から、花影の心配ばかりしているのだ。


「でも、何だかすごく顔色が悪いようですし、少し休まれたら、どうでしょう? 夕餉の支度なら、丁李が今取り掛かっていますし、私もいますから」

「大丈夫ですよ。それくらいは出来ますから」


 花影は客人ではない。

 居候の身であり、千李を危険に巻きこんでいるからこそ、それくらいしなければならないのだ。

 ――それなのに。


「じゃあ、わたくしは、自分の部屋で休ませてもらうわ。夕餉が出来たら、呼んで頂戴」

「……小鈴殿」


 相変わらずの尊大ぶりだ。


「あの変な男女だけじゃなく、蛮国の人間まで近くにいるなんて。一つ屋根の下で暮らしてあげるだけでも、良しとしてもらわなきゃ」


 更に、小憎らしさも倍増している。


「私は生まれも育ちも、光西です。四分の一だけ、エスティアの血が入っているだけです」

「同じことだわ。奴隷呼ばわりしないだけマシだと思いなさいな」


 つんと澄ました態度のまま小鈴は、そそくさと台所の隣の母屋に引きこもってしまった。


(もう少し、用心しておけば良かったのかしら……?)


 さすがに、一緒に生活をしていれば、バレると思って、告白する機会を窺ってはいたのだが、よりにもよって、最悪な時に発覚してしまった。


「…………小鈴さまは、仕方ないですねえ。あの年代特有のものかしらね?」

「はあ……」


 困りきったことでも、千李がくすくすと笑い飛ばしてしまうと、楽になる。

 彼女の家に来て良かったと、花影は心の底から実感していた。


「でも、それにしたって、我儘が過ぎますよ。もう少し、ちゃんと、しつけけないと……」

「ここに来ても、花影さんは学司なんですね。丁李のことを貴方に託して良かったです。とても、成長しましたもの。勉強も楽しいと言うようになって……」

「そうでしょうか。むしろ、図書搭の暮らしは、彼女の負担になっていたのではないですか……。今回だって、二人を危険に巻き込んでしまっていますし……」

「遠慮なさらないで下さいな。私が良いと言ったのです。ほら、それに三歳の頃まで、貴方は私のところにいたのですよ。家族みたいなものではないですか」

「…………ありがとうございます」 


 記憶にはないが、母に引き取られるまでの三年間、花影は千李に育てられたらしい。

 その辺りの事情を、花影はよく知らなかったが、いつ訪れても、千李は優しくて、本当の母親のように、いつも慈愛に満ちた態度で花影に接してくれた。


「なあ……先生。話したいことがあるんだけど?」

「なっ!?」

「きゃーっ! 素敵!!」


 ――と、背後からの声に、過剰なほど歓声を轟かせたのは、話しかけられた花影ではなく、千李の方だった。


(ああ、そうだったわ……)


 凌星は何をどうしたのか、突然、男の姿に変化していたのだった。

 千李は一目会った時から、凌星が男であることには気づいていたが、女装のことは何も触れない豪胆さを発揮していた。

 しかし、今回の男装姿には、こちらが驚くほど反応が大きかった。


「女装も美しかったけど、凌星さんは男装も素敵ね。どうしたの、その格好?」

「いや、これは市場で男物の服を調達しようと思って歩いてたら、商人が無料でくれたんだよ。珍しいこともあるもんだ」

「合法的に得たのなら、いいんですけどね」


 珍しいことなんて、そんな一言に集約されるような偶然が起こるはずなどない。

 どうして、通りすがりの女装男に、商人が無料で豪華な服をくれるのか……。

 彼の纏っている着物は、市場で販売している着物の種類の中で、一等高い物だ。

 何処からどう見ても、ただの庶民には見えない。

 益々、彼の怪しさに拍車がかかったようなものなのだが……。

 ――言えるはずがない。


「まあ……それは、幸運でしたね。私の家には、女物しかなかったから……。主人のは思い切って処分してしまったしね。私、男の子が欲しかったから、凌星さんが息子のように見えて、本当に嬉しいわ」


 千李の夫は、五年前に病気で亡くなっている。

 二度目の夫だったということで、もう結婚はしないと、事あるごとに千李は語っていた。


(この人の心配顔は、見たくない)


 千李には、凌星は仕事の同僚なのだと、伝えている。


「先生、どうしたんです?」


 ひょいと、丁李が台所の勝手口から顔を出した。

 千李の声に慌てたのだろう。

 当然の反応だ。


「さっ、私は夕餉の支度を……」


 今が好機と、その場から逃れようとした花影だが、しかし、そんな花影の勘顔などお見通しの凌星は、あまりに強引だった。


「おいっ!」


 台所に足を進めようとした花影の黒い袖を、凌星が引っ張っていた。


「話があるって言っただろう?」

「いえ、私は……千李さんと」


 しかし、千李は訝しげにしている丁李を押さえながら、笑顔で手を振っている。

 ある意味、残酷だった。


「ほら、行くぞ」


 別に、この青年と話したくなかったのだが、男の力で押さえられてしまっては抵抗もできない。

 花影は渋々、屋敷の奥の納屋に向かった。

 そこは、現在臨時の花影の私室でもあった。

 千李が掃除してくれたおかげで、納屋は綺麗さっぱりしている。

 文机一つしかない、小さな空間の端と端に、凌星と花影はそれぞれ、同時に座った。


「……で、貴方は、一体何者なんですか?」


 開口一番、花影は問いかけた。

 こうなったら単刀直入の方が良いと判断したのだが……。


「ひとまず、俺のことはどうでもいいだろう」


 いつもより念入りに話を逸らされた。


「あのね、それこそ、こちらの台詞なんですが? 私は貴方が信用できません」


 今まで、何かと慌ただしく、彼の素性を問い質す時間も得られず、なし崩しにしてしまったが、誰より何より怪しいのは、凌星だ。

 彼が一人で外出する時は、危険の及ばない範囲で丁李が後を尾けている。

 そこまで怪しまれているにも関わらず、彼はその最重要課題を何とか煙に巻こうとしているのだ。


「だから……俺のことなんかよりも、さっきのあの家族のことだ。何もしない割には、結構、突っ込んで話を聞いていたじゃないかよ?」

「ですから…………」


 そこまで言いかけて、花影は深呼吸をした。

 このままでは埒があかない。

 凌星が譲らないようなので、少しだけ、そのことについて話そうと、花影は顔を隠していた大きな襟巻を外して、横に置いた。


「凌星殿。世の中、どうにもならないことはあると思います」

「ああ、そんなことは、分かっている」


 凌星は腕組みをして、遠い目をしていた。

 思い当たる節があるのだろう。


「でもさ、もし、あんたが心の底から諦めて、何もするつもりがなかったのなら、もう少し小鈴に突っかかったと思うけどな?」

「突っかかる? まさか? 小鈴殿の態度は、私の予想通りでしたよ」


 今回のことは、浅氏が発端だ。

 浅氏が陶大将軍を畏れて、撤退する際、子飼いの私兵が、欲望だけで、あの家族の何もかもを奪った。

 家を燃やされ、食糧、金品を強奪された。酪農をしていた家は、冬の間は牛の乳などを売って、生計を立てていたらしいが、それも出来なくなってしまったらしい。


 ――あの家族の何もかもが一晩のうちに、消えてしまったのだ。


 命だけは唯一、助かったものの、少年の妹は持病があり、薬なしでは生きられないのだという。

 だから、饅頭を買うのに、金塊で支払おうとした世間知らずの小鈴から金を奪おうとしたのだ。

 しかし、彼らは小鈴が浅氏の娘であることを、知らなかった。

 これも何かの縁だ。薬代くらい払ってやればいいものの……。

 小鈴は、断固それを拒否した。自分のせいではない……。

 本当に浅家がそんなことをしたのかどうか怪しい。彼女の主張は、その一点だった。


「あんたは、公雲こううんの妹の診察もしていただろう?」


 公雲とは、あの少年の名前だ。

 父親は、慈念じねんと言う名前だった。


「私は医者ではないので、診察ではありません。本当に病気であるのかどうか、気になっただけですよ」

「……で? 本当に病気だったのか?」

「それは、確かです。おそらく、先天的な心の臓の病でしょう。出来れば、私の持てる知識で薬の一つでも煎じることが可能なら良いのですが、あいにく、あの子のような難病には、専門の医師が作った薬が必要です」

「専門の医師……か。調合に必要な薬草は、あんたも分かっているのか?」

「何となく……程度ですよ。私の場合、あくまで、母からの受け売りですからね。母の師匠は、柳先生です。薬学博士の称号も持っていらっしゃる先生であれば、その場で調合することも可能なんでしょうけどね」


 よもや、この時分に、王宮に戻ることなんて出来るわけがない。


「私がしゃしゃり出るより、調合して売っている薬を買った方が早いと思います」

「…………やっぱり、金が必要なんだな」


 顎をさすって、考えこんでいる凌星の余裕が花影には分からない。


「私に出来ることは簡単な薬を作って、売って……。その売上げのいくらかを、彼らに渡すことくらいです。話を聞いてしまった手前、出来る範囲でなら、助けたいと思いますが。あまり大っぴらにも動けません。先ほど申し上げた通り、世の中、どうにもならないこともあるということです」


 そう言いながら、花影は鞄の中から、今日購入した薬の材料を出した。

 一見すると、枯れ枝や干した花にしか見えないそれだが、これを擂鉢で擦って粉状にして、きちんと調合すれば風邪薬になるはずだ。

 また、これらの材料を駆使して、油や蜜蝋などと絡めていけば、傷によく効く軟膏くらいは作ることが出来るかもしれない。

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