序 【母の形見】
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『光陰流星如 銀花明々為』
そんな文字が書き殴られた紙片を発見したのは、母、唯 流月が亡くなってから、一年以上経った日の朝だった。
「何だろう?」
母の机の引き出しの奥で、小さく折り畳まれていたそれは、乱暴に元の紙から切り離したかのような歪な形の紙に、読みづらい滲んだ文字で綴られていた。
母の文字ではない。それに、詩の体裁も為していない。
花影は詩については、それなりに、詳しいはずだった。
……が、さっぱり内容が掴めなかった。一体、この作者は何が言いたいのだろう。
年月が経つのが流星のように早いという文言までは理解できる。
けれど、その後に続く銀花が明々というのは、意味不明だった。
――銀花……。
一応、その花については、心当たりがある。
(そうだ。……あの花だ)
黒い長布を巻いて咄嗟に銀髪と顔を隠した花影は、薄い木製の戸を開けて、廊下に出た。
吹き曝しの冷たい風に煽られつつ、塔の最上階の柵に寄りかかって、下界を見下ろす。
目を凝らせば、王の住まう光和殿に続く、鳳凰の彫刻が施された欄干のその下に、咲いている小さな白い花を発見することができた。あれが『銀花』と呼ばれているものだ。
(……とすると、あの花が星の下で、明るく輝いているってこと?)
分からない。
もう少し特徴のある文章なら、作者も特定できるのかもしれないのに……。
銀花について知っていることと言えば、初春の花というくらいだ。この季節に満開になることは、非常に珍しいことだろう。
今年は、暖冬のようだ。
「……て、それじゃあ意味ないか」
顔を覆った長布が、冷たい風にゆさゆさと音を立てて揺れている。
花影は手に息を吹きかけ、遠くの景色に目を凝らした。
薄ら見えるのは、雪の冠を抱いた神名山脈だ。
その山々からの雪解け水を運んでいるのは、この国一番の大河川、顛河である。
花影の暮らす光西は、冬の間は雪に閉ざされている。
きっと、街の中も白い世界が広がっていることだろう。
(ここが異常なんだろうな……)
常夏のように、永遠と続く煌びやかな空間。
光西の王宮の中で、眼下に見える朱塗りの瓦屋根が連なっている建物の正式名称は、七之芳霞宮。この国の君主の妃嬪達が住まう
―――通称、後宮だ。
花影は、後宮の番人のような存在だ。
決して、妃になることも、官女になることもないだろうが、一生ここにいるだろうことだけは分かっている。
(……さあ、そろそろ、時間だわ)
寄りかかっていた手摺から、そっと身を離した花影は、しかし、次の瞬間……。
後宮の入口に聳える朱塗りの大門の下に、白い単衣に、赤い裙姿の少女が佇んでいるのを見つけた。
この時間に、お付きの人間もなしに単独行動を取っている娘は珍しい。
(一体、どこの良家の娘だろう?)
凛とした目元に、きりっと唇を引き締めた少女。
背は高く、長髪は高く一つに括られていた。
光の中に燦然と輝くように、圧倒的な存在感を放っている娘。
だが、花影は、どこかで彼女と会ったことがあるような既視感を覚えていた。
――一体、何処だったのか?
「あっ、先生!」
慌てて花影が振り返った僅かの間に、少女はあっという間に姿を消してしまった。
「あれ? 一体、どこに……?」
「……大丈夫ですか。先生?」
「ああ、ごめんなさい。丁李」
元々、母、流月の唯一の友人の娘で、母の死後、手伝いに来てくれて、そのまま侍女となってくれたのが丁李だ。
妹のような存在となっている彼女に、心配をかけたくはない。
「ちょっと、ぼうっとしてしまっただけです。今、行きますから」
丁李から表情なんて分からないだろうが、花影は微笑を浮かべて、背筋を伸ばし、楚々と歩きだした。
後宮においての立居振舞い、教養を妃候補の宮女たちに教える
『学司』は所作一つでも乱暴ではいけない。花影は、学問と礼儀作法、そのすべてを母から叩きこまれた。
母の亡き後、学司を継いだ花影がまだ若干一八歳であるとことは、丁李と現国王、そして学司を束ねる学司長以外知らない、この国の秘め事の一つだと思っていた。