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「俺に何ができるって言うんだ」
「そんなことを、俺が知るか。だが、姫君が信心なさっている長谷寺の観音様のお告げだ。お前になら、何とかできるんだろう。まあ、俺はそんなことは信じちゃいないがな」
橘次は小声でそう付け加えた。
姫君に聞こえないとわかると、この男は口調までどんどんぞんざいになってくる。
おまけに、手に持っていた鞭で、鬼道丸を小突き回しながら言った。
「とにかく、そのお方の病を治す方法を探れ。あまり時間はない。そうだな、今日から三日以内に何とかしろ」
「たった、三日?」
「最初に渡して持ち逃げされると困るからな、何かわかったらその都度銭をやる。見事、そのお方の病を治せたら、恩賞など望み次第だ。悪い話ではあるまい」
「でも」
「否やは言わせん。姫君の望みを叶えろ。逃げようなどと考えるなよ。俺は検非違使(注)の役人に大勢知り合いがいる。お前の居所くらいすぐに突き止められるんだ。もし逃げたら、命はないものと思え」
「そんな」
「いいな。俺は姫君の実家に仕えている。門番の爺には話を通しておくから、何かわかったらすぐに報せに来い」
そう言って、橘次はその屋敷の場所を教え、今度はくるりと姫君の牛車へ振り向いて言った。
「もうすぐ日が暮れます。さあ、もうお屋敷へ戻りましょう」
そう言う橘次の口調は、兄が幼い妹へ語りかけるように優しかった。
鬼道丸に対しては鬼のようだった顔も、今は穏やかに微笑んで姫君のいる牛車へ向けられている。
鬼道丸への扱いとはえらい違いだ。
橘次はこの姫君をこの上なく大事に思っているらしい。
橘次にしてみれば、鬼道丸など、姫君の周りを飛び回る見苦しい虫、ってところか。
橘次は牛飼い童に預けていた馬の手綱を取り、ひらりとその背に跨った。そして、鬼道丸になど目もくれずに、牛車を先導する。
その時、牛車の簾がゆらりと動き、その隙間から花菖蒲の襲の袖が差し延べられた。
白い指先には、一本の扇が握られている。
簾の内から、あの涼やかな声が聞こえてきた。
「これは、その病のお方が肌身放さず大切にしておられた扇です。もしかしたら、形見になってしまうかもと思いながら、こっそり持ち出してきてしまったのだけれど。何かの役に立つかもしれません。これを持っていっておくれ」
鬼道丸は前を行く橘次に気づかれないように、素早くその扇を受け取った。
まだ、ほんのりと姫君の手の温もりが残っているような気がする。
鬼道丸はその扇を握り締めながら、姿が見えなくなるまで姫君の乗る牛車を見送っていた。
*注「検非違使」=京の都の違法を取り締まり、秩序の維持や風俗の粛正などに当たった職。現代の警察官と裁判官を兼ねたようなもの。