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「橘次、もうやめておくれ」
随身所の奥の障子がするりと開き、あの涼やかな声が響いた。
鬼道丸が振り返ると、障子の影からこの間見た花菖蒲の襲の袖が覗いている。
橘次は太刀を鞘に収め、障子に駆け寄って優しく言った。
「姫君。ここへ来てはいけないと何度も申し上げたでしょう。それに、お身体の具合が悪いのだから、奥で休んでいなければ」
「あの方のことを考えると、とても横になっていられなくて。でも、どうしてお前はここにわたくしが来るのを嫌うの。昔は、皆で兄弟同然仲良く暮らしていたというのに」
橘次は急に眉を歪めて、奇妙な表情を見せた。
だが、それをすぐに打ち消し、生真面目な顔を作って小少将の君に答える。
「昔と今とでは、立場が違う。いくら乳母子であっても、成人した姫君が男の前になど顔を見せてはなりませぬ」
貴族の家では、庶民のように実の親が子育てはせず、ほとんど乳母の手で行われることくらい、鬼道丸でも知っている。
乳母の元には乳母の実子も育っているから、養い君はその子供たちと実の兄弟のようにして育つのだ。
その関係は大人になってからも途切れることはない。
乳母子はたいがい養い君の従者や侍女となり、最も頼りになる側近として仕え続けることが多いのである。
「小少将の君の乳母子か。道理で親しげだと思った」
鬼道丸がそう呟くと、小少将の君はそれに答えるように言った。
「そう、幼い頃はこの屋敷の西の対で、乳母とその子供たちとわたくしとで、とても楽しく過ごしたものだったのに」
「他にもいたの」
鬼道丸が問うと、小少将の君はそっと障子の影から進み出ながら答えた。
「ええ。太郎に次郎、それにわたくしと同い年の女の子と。姓が橘だから、わたくしは橘太、橘次、橘女と呼んでいました。もちろん、橘次には本当の名前があるけれど、今もつい昔の渾名で呼んでしまうのですよ」
そう言うと、小少将の君は橘次の顔を見上げ、寂しげな声音で言った。
「あの頃は楽しかったわね。毎日、皆で賑やかにおしゃべりしたり、庭を駆け回ったり。でも、橘女は幼い頃に病で亡くなり、橘太はもうずっと前に東国へ行ったきり戻ってこない。乳母もわたくしの母上や父上も亡くなって、今もこの屋敷にいるのはわたくしと橘次だけ」
「私はずっとこの屋敷にいます。どこにも行きません。一生姫君にお仕えいたします」
橘次は一心に小少将の君を見つめ、優しく慰めるような口調で小少将の君に言う。
その言葉に、小少将の君はにっこりと微笑んだ。
そして、鬼道丸にもその笑顔を投げかけながら問うた。
「橘次から大方の話は聞いています。その女の人の霊の出る塚がわかったのですか」
「うん。一度行ってみたけど、言っていることが聞こえないから誰かわからない」
「わたくしをそこへ連れて行っておくれ」
「え、でも、そこは鳥辺野だよ。すごく気味が悪くて女の人が行くような場所じゃない」
「あの方に関わる身分の高い女の方たちには、わたくしも何人か心当たりがあります。その塚の場所や様子を見れば、その霊の正体がわかるかもしれませぬ」