大切な人
君は笑う
いつも楽しそうに目を細めて
成績が良くて人望もある
毎日バイトしてて、家事もしてて
勉強も怠らずに努力してて
クラスメートともとっても仲が良い
いつもいつも、一人でもしっかりと前を見据えて
とにかく何かあっても
悲しいだろう言葉をかけられても
笑っているんだ
だから、気付かなかった
君がバイト先の先輩たちに必要以上に咎められていたり
なんでもかんでも聞くもんだから
先生達にもうんざりされてたり
家族に邪魔者扱いされてるなんて
全然知らなかった
友達らしい友達もいないし
嫌われてることも知らなくて
一人でいるときが多いことにも気付かなかった
今までずっと笑顔でいたから
君が泣くとこなんてみたことなかったから
まさか本当に周りに人がいない場所で
静かに泣いてるなんて
目を疑った
足に傷がたくさんあることにもその時初めて気が付いた
そして初めて君の瞳は未来を諦めていることに気付いた
気付いたけど、遅かった
君に声をかけようと放課後、後を追ったら
屋上に着いたんだけど
君に続いて急いで屋上に出れば
君はもう居なかったんだ
数日経って君のお葬式に行ったけど
皆が皆うんざり顔で悲しんでる人なんかいなくて
泣いてる人はいたけど
まるで君を見ていない言葉ばかり口にしていた
僕はそこでは泣きたくなくて必死に堪えてた
泣いたらそこにいる人達と一緒にされそうな気がしたから
後に僕は君からのノートを受け取った
僕宛だから中身は誰も読んでない
特に仲が良かったわけでもないけど
クラスメートよりは仲がよかっと思っていたから
何だかホッとして、自分の家のベランダで読んだ
「大切な人に送る」
あるところに一人の女の子がいた。彼女は何もできない子で、皆からバカにされていた。しかしある日そんな彼女を見ているのが辛いと言った生徒が、からかっていた皆を咎め、一人一人の駄目なところを指摘して彼女を守ろうとした。もちろん代償は大きく、彼は独りぼっちになってしまった。それでも彼は皆と仲直りしようと努力して皆のためを思って行動した結果、かつての信頼を取り戻した。彼女は何もできないけど、それでも誰かとは絶対に仲良くなりたい十思っていたおかげか、彼と友達になれた。それからは何もできないけど皆と仲が良い女の子と自分の居場所を守るために努力を惜しまない彼は皆と仲良く幸せに暮らしました。
きっと夢物語だ、と思うでしょう。
もちろん実際はこんな美しいモノなどないから仕方がないけど、叶えばいいなって思ったのです。
君はきっとわかってくれると信じてるから。
これを君に託します。
どうか夢物語をつくって欲しい。
君にとっての夢物語を、そして自分を正当化せずに謙虚でいて欲しい。
それは僕に向けた遺書だった。
いつも笑顔でまぶしくて
辛い事があっても楽しそうに笑って
嫌なことがあっても苦笑して済ませていた君は
そんな君の瞳には
僕はどんな風に映って見えたのだろう
そしてその疑問はもうこの世にはいない君に届くことはない。
もう二度と助けようと動くことも
声をかけることも
その辛そうに見えない明るい笑顔も
見ることができないんだ
僕は初めの1ページにしか文字が書かれていないそのノートを読み終える前に泣いてしまった。
ノートは僕の涙で文字が滲んで最後の方が読めなくなった。
でも彼女の願いは、心の声は聴こえた気がした。
彼女が消えて初めて彼女の本音に触れた気がしたんだ。
だから僕は書き綴る。
彼女が望む幸せの物語を。
下手だった彼女の幸せの物語を基に幸せで満ちた世界を創ろうと思う。
それから約2年。
僕は僕自身に名前を付けた。
『幸望』
君と違ってネーミングセンスはない僕だけど、君と違って物語を作るのは得意だから…君に届けたいと思ったんだ。幸福に満ちた物語を望む君に、僕は届けたい。面白くはないと思う。自己満足にすぎないから。でも君がこれを読んで幸せになれるのなら、僕はそれでいいと思う。…どうか君に届きますように。
『時雨の魔法』幸望。
星の見えない夜だった。月がポツンと一人、孤独ながらに輝いていたそんな寂しいような温かいような夜だった。一人の魔法使いが空間の裂け目から恐る恐る顔を出し、人気がない事を確認してさっと潜り抜けて地上に降り立ったのだ。何も移さない深い深い海の色の瞳をさまよわせ、辺りを気にしながら肩にかけた真っ白い無地のバッグを揺らして迷わず歩みを進めていく。見た目はまだ中学生くらいのあどけない少女。髪は紫が混じった黒で整えもせずに背中に流している。見た目も気にせずに夜の静かな住宅街をまっすぐに歩いていく少女とすれ違うものは居ない。しばらくして何もない空き地の前にたどり着いた少女は、肩にかけているカバンから一冊の分厚い古びた本を取り出して適当に開いた。何も書かれていないそのページに少女は右手を撫でるように滑らせていく。手の触れたところに文字が浮かび上がったと思えば、少女はその文字を口にしていった。日本語でも英語でもないその言葉が語られていくと同時に、少女の前に広がる空き地はゆっくりと光のドームに包まれていく。そして言葉がすべて語られた時、少女は流れるような動きで右手を前に向けた。ゆっくりとカーテンが開かれていくように光のドームが消え去ると、そこには一軒の真新しい現代の家が建っていたのだった。少女は満足したようにフッと息を吐いて本を閉じ、迷わずに家の中へと入って行く。
極々平凡なこの住宅街に新たに出来た家と、摩訶不思議な少女。平穏に満ちたこの住宅街で一体何が起こるのであろうか。
「守岡~おっはよー」
バッと後ろから飛びついてきたのは遠山。クラスメートの中でも結構仲の良いのだが、少々ウザいところがある困った奴。まあ嫌いではないので僕は苦笑しつつ挨拶し返した。
「おはよう遠山、朝から元気だな」
凡人の極みである僕のどこがいいのか、いつも不思議でならない。遠山の性格ならクラスの中心グループでもやっていけると思うのだが…遠山はニッと笑って言った。
「守岡が居る日はテンション高いのよ」
遠山曰く僕は気を遣わずに接することが出来る人なのだとか。だからグループには入らずクラスではそれなりの人気を取りつつ僕と一緒に居るのだという。そんな遠山の考えにちょっとだけ嬉しくも思い、同時に頑張らないと、と気が引き締まる。遠山は中心グループに入ってはいないものの、クラスメートからは男女問わず人気が高いため僕のような凡人の極みと一緒に居ることはあまり良い目で見られない。だから僕も凡人だけど見た目には気を使っていたりする。まあオシャレではないけどダサくもない、やっぱり凡人なんだけどね。
「遠山~守岡~おはよー今日も二人は仲いいな~!」
教室に入ってくるなり笑いながら声をかけてくるのは数日面倒で学校をさぼっていた中心グループの副リーダー的存在の早川である。凡人の僕とも普通に仲良くしてくれる辺り、不良生徒の中でも良い奴だと思うが、遠山はちょっと苦手らしい。早川がこちらに歩いてくるなり口をとがらせて渋々と言った感じに挨拶する。
「…早川おはー」
早川は全く気にしてないように笑った。僕は不思議に思って挨拶ついでに聞いてみた。
「おはよー早川、なんか遠山が口とがらせてるけど…」
早川は僕の言葉にさらに笑って言った。
「気にすんな!こいつと幼馴染なんだけど、昔ちょ~っと意地悪しただけ(笑)」
おおう、つまりこの遠山に苦手意識持たれるくらいの意地悪をしたと…。早川がそう言うと遠山は顔を真っ赤にして叫んだ。
「何がちょっとだ!罰ゲームって言って女装させてきたろうが!!」
おおっと、どうやら昔早川に遠山が女装させられたらしい。何となく想像して思わず吹いてしまった僕を泣きそうになりながら遠山がしがみついてきた。
「守岡ぁ!お前まで裏切るのかぁ!?」
必死になってしがみついてくる遠山がちょっとかわいそうになってきたので、よしよしと頭を撫でて謝る。
「ごめんごめん」
敢えて言い訳はしない。言い訳すると立ち直るのがとんでもなく面倒になるからだ。早川も幼馴染というだけあってかそこをよくわかっているようで、笑いながらこの場を去った。あいつの事だからお昼過ぎ辺りには早退してそうだな、と考えていると遠山が泣きべそをかきながらまだしがみついていては慣れないことに気付いて苦笑する。
「遠山、流石にずっとくっついてると体勢が辛いんだけど(笑)」
遠山はようやくハッと今更気が付いたように僕から離れた。そして今度は遠山が謝ってくる。
「ご、ごめん!苦しくなかったか?大丈夫か?」
遠山はとにかく心配性だと改めて思った。妹が病弱だからそういう癖がついちゃってるのはわかるけど、僕は平々凡々な普通の男子高校生だから、そこまで弱くないんだよね…。
「平々凡々な男子高校生の僕がそんなことで痣作ったりなんかしないから大丈夫だよ」
毎回こう入ってるものの心配性の癖は変わらない。正直妹さんはここまで心配性の兄にうんざりしていないのだろうか、といつも不思議に思う。まあ肝心の兄貴が聞く耳持たないから知らないけど。
っとそこで朝読書を知らせるチャイムが鳴り響いた。アッという間にクラスメートのほとんどが席に着いたかと思うとすぐに読書を始める辺りこのクラスはだいぶ洗脳されていると思う。なんせ担任が滅茶苦茶怖いから。読書が大好きすぎてこの時間にクラス全員が読書を開始していないと超怒鳴るのだ。あの不良生徒代表の早川でさえ朝読書だけはきっちり守るくらいに怖い。僕も遅れないようにすぐ本をカバンから取り出すなり読み始めた。
僕が読んでいるのは単行本が多い。今日もあまり知名度の高くない作品を読んでいた。…とは言えこの本の作者は様々な意味の深い作品を売り出しているから、そこまで人気がないわけでもない。ただ知る人ぞ知るといった物なだけ。
今読んでいる小説はサスペンス系の短編集である。科学的でよくわからないことも多いけど、解説がかなりわかりやすくて読みながら考えられるからすごく面白い。理数系が得意で、将来は法医学者を目指している僕は考えて事実を証明する本が大好きなのだ。ついつい時間を忘れて読みふけってしまう事も多々あるくらい。
「さ、朝読は終わりだ。ホームルーム始めるぞ…守岡、本に夢中になるのは良いがそろそろやめろ!没収するぞ!」
担任の声にハッと顔を上げればすでに朝読書の時間は過ぎていて、ホームルームの時間となっていた。クラスメートたちはすでに本を閉まっていて、僕だけが気付かず夢中で本を読んでいたらしい。正直血の気が引いたが何しろ読書好きの担任だ。読書のし過ぎはとりあえず見逃してくれるらしい。その事にほっと息を吐いてクラスメートたちの憐みの籠った目にさらされながら本を閉じた。
先生はすぐに本題へと入る。
どうやら今日は転校生がいるらしい。淡々と報告を済ませるとすぐにその転校生を呼んだ。
「…神崎、入って来い」
そんな先生の声には返事をせずにすっと入ってきた転校生は、目を見張るほどの整った顔立ちの女子だった。黒い髪は無造作に背中に流されていたが、少し紫色のような髪色で、とても染めたとしか思えない。しかし地毛らしい。先生曰くどうしようもないので気にしないようにとの事だった。
まあ仕方ないかという生徒が多数なので問題はないと思う。それなりに頭のいい高校だから考えなしの不良はなかなか居ないものなのだ。ここでは頭の良い奴が強いから。
さてそれ以外にも目を見張ることがあった。何と身長がとても高校生に見えないのだ。まるで中学入りたてか、少女と称しても過言ではないと言える。しかし大人びた表情をしているためか、無表情なせいか、ちぐはぐな印象があった。
すっと教卓の前に立った彼女はその整った美しい冷たい顔を少しだけ上げると自己紹介を始めた。
「…神崎時雨です、よろしく」
声はよく澄んでいて可愛らしいものだった。しかし口調は何だかぶっきらぼうでこれまたちぐはぐな印象だった。しかし見た目で人は寄ってくることだろう。先生は一つ、軽く頷くと教室を見回した。
「それじゃあ神崎は一番後ろの守岡の隣の席に座れ」
何だかよくある少女漫画のような展開だな、と軽く考えていたら神崎さんが隣の席に座った。それを見届けた先生は一言僕に命じる。
「守岡、さっきの罰として神崎の学校案内を放課後やれ~」
ゲッと思って先生を睨むと周りの奴らが苦笑していた。遠山と早川がニヤニヤしながら口々にからかってくる。
「いいじゃんいいじゃん学校案内とか!!」
「そうそう!神崎さんみたいな綺麗な人を学校案内できるとか誇りだぜ?」
そう言って放課後の約束を勝手に決められてしまった。まあ今日は特に用がなかったからよかったけど…と考えながらちらりと神崎さんを見ると、彼女は僕をじっと見ていた。え、何?と思った時に神崎さんは一言「放課後、申し訳ないけどよろしく」と言って前に向き直ってしまった。すでに授業の準備に取り掛かっているクラスメートには聞こえない程度の声だったが、僕にはちゃんと聞こえるように言ってくれたらしい。何だか神崎さんの真面目な部分を見た気がして、ちょっと嬉しく思い僕も「うん、よろしく」と返した。この時神崎さんが少し笑っていたことを僕は見逃さなかった。
そして約束の放課後の学校案内の時間となった。
放課後ともなれば部活のある人たち以外は帰宅時間となる時間帯の為ほぼ人が校内に残っていないから好都合だという理由から、神崎さん自身が先生に学校案内を頼んでいたらしい。家庭事情で親が来れないために一人だったから、先生としては自身の仕事もあるし誰かに押し付けようと考えて、僕が目に留まったという。
そこに悪意はないとわかってはいるものの、何だか釈然としないな、とため息を吐いた。
さて、神崎さんが帰り支度を終えたら案内をする予定だけど、と隣を確認すると神崎さんがもうすでに真っ白い無地の肩掛けバッグを背負ってこちらを待っていた。
僕は慌てて荷物をスクールバッグに突っ込むとすぐに謝った。
「ご、ごめん!待たせてると思わず…」
すると神崎さんがちょっとだけ苦笑した。呆気に取られて顔を見つめていると神崎さんは困ったように見える表情で言った。
「私は学校案内を押し付けてしまったから申し訳なく思って急いでいたんだが」
拍子抜けだな、と何だか女の子っぽくない口調でまた少し笑った。話し方もそうだけど何だか神崎さんはこの世の人とはちょっとだけ違うような漠然とした違和感を感じて、つい神崎さんに言った。
「何だか神崎さんって不思議だね」
その正直な気持ちに驚いたのか興味を持ったのか神崎さんはちょっと目を見張って「どの辺が?」と聞いてきた。一見すると無表情にも見えなくもないそんな表情を特に気にも留めずに僕は先を続けた。
「何か見た目と口調がちぐはぐで、一見無表情だけどよく見ると表情豊かだし…大人というよりもっと上みたいな感じがする」
言ってしまってから僕は頭から血の気が引くのを感じた。これって要約すると見た目は幼いのに老けてると言っているようなもんじゃないかと思ったのだ。何も言ってこない神崎さんをちらり、と盗み見してみる。…完全な無表情。考え事をしているのか怒っているのかわからないその表情に心臓が飛び出そうなくらい動悸が激しくなってきた。これからクラスメートとしてよい関係が気付け始めていたのに何という失敗を!!と頭を抱えたくなっていると、突然神崎さんはニヤリと笑った。そう本当に唐突に何かを企むような悪戯っ子の笑みを浮かべたのだ。
またもや呆気に取られていると、神崎さんは何やらブツブツと独り言のような事を口にし始めた。
「…この時代にも…使える」
はっきりとは聞き取れなかったが、言い終えるとすっとこちらに視線を移してきた。今度は探る様な研究するような目で見つめられて思わず息をのむと、神崎さんはフッと笑って誤魔化すように言う。
「さ、準備はできたのだろう?学校案内、行くぞ」
それは先程のちょっと抑え気味な口調ではない素の神崎さんの口調だった。
「ここが購買。昼休みはいつも混むから早めに行くといいよ」
昇降口に続く廊下の端の三つ並んだ今は誰もいないシャッターの閉まった場所。僕は基本利用しないから場所と情報は遠山情報だ。
「ここが物理室。科学の時も大体ここで授業があるよ」
購買のある場所の上の上で三階の廊下の端。僕は化学が好きなのでよく先生に質問しに通っている場所。神崎さんは何も言わずについてくる。
「ここが科学室。科学部が部室として利用してるって噂だけど、部員も六人しかいないし研究発表とかもあんまり聞いたことないからよくわかんないかな。関わる事もほとんどないと思うよ」
そこは四階でほとんど人の寄り付かない場所。科学部がある事すら知らない人もかなり多いらしい。早川が授業さぼる為に校内をぶらついてて発見したらしく、そう言っていた。僕も来たことはなかったのであまり知らない。
さて戻ろうかという時に、神崎さんが一つ上へと続く階段を指した。
「もしかしてこの階段が屋上に続いているのか?」
その質問に頷く。神崎さんは戸惑いもなくすぐに質問し直してくる。
「屋上に出ることは可能か?」
僕はその言葉に一瞬言葉が詰まり、重い頭を横に振った。神崎さんは何も言わずに僕を見つめているので仕方なしに話す。
「この高校は元々屋上に出入り自由だったんだけど、科学部がまだ人気があってよく活動していた時に、同じくまだ人気のあった…今はもうない気象研究部って言う気象予報士を目指している人たちの部活と衝突したんだ」
科学部はとにかく科学の実験をしたくて屋上を占拠していた。まあスペース自体は一般生徒が出入りするのでしっかりと用意されていたのだが、気象研究部も使いたいと申し出てきたのだ。
そうなると確実に科学部の実験スペースが狭くなることはわかるだろう。
科学部はそれに反対し先生たちに抗議した。科学部は四階の端にある科学室が部室で、気象研究部よりも屋上が近いことを理由に、また科学部は未来のための部活だと言い張って、気象研究部の使用を拒否したのだ。
今思えばどれだけその頃の科学部が傲慢で愚かだったのかがよくわかると思う。
気象研究部はこれに激怒した。学校は一般生徒も含め皆の物だと正論を言ったのだ。公共施設であり国の物だと。これに先生たちは困り果てた。科学部の言い分もわからなくはないが気象研究部の言葉も一理あると。しかし先生たちはこんな面倒事に時間をさけるほど余裕もなかった。そのため教師の中でも比較的仕事の少ない新人教師をこの問題の担当に任命した。それは当時気弱で生徒たちからなめられていたオドオド教師の加藤先生だった。
顔はよくて声もよく通る声なのに背が低くて授業以外だと本当に気弱な先生だった彼は、よく生徒たちに色々な事を押し付けられていたなんでも屋さんだった。ただそれは教師としてはダメな行動で、先生方にも怒られたりととにかくダメな先生だった。そんな加藤先生を持て余していた校長はここぞとばかりにこの科学部と気象研究部の問題の担当を押し付けたのだ。加藤先生は申し訳なさそうにしながら引き受けたらしい。
しかし問題は解決しなかった。
科学部も気象研究部も加藤先生という頼りない先生がこの問題の担当に着いたと知った途端、更に酷く反発したのだ。無理もない。教師たちがこの問題を適当に流そうとしているという事に気付いた上にあの加藤先生だ。完全に二つの部活のストッパーは壊れたと言って良いだろう。ついに殴り合いやそれぞれの部活の部員いじめが始まってしまった。
もちろんこれは抑えられなかったという理由で加藤先生の責任となる。学校に押し掛けてくるいじめられている部員たちの親の対応や、部長同士の殴り合いに巻き込まれたりして怪我をしつつもどうにか話し合いで解決させようとする。先生方からの非難や嫌がらせにも苦笑して謝る毎日。一般生徒たちにはなめられて無理難題を押し付けられることも変わらず、加藤先生は日に日にやつれていった。
目に見えてやつれていることに気付いた保健の先生だけはいつも時間が出来れば加藤先生の話を聞いたり落ち着くようなハーブティーを用意してあげたりしていたらしいが、それ以外は何も変わらない生活だったと言う。
まあ保健の先生が校長に直談判したところで状況は変わらなかっただろう。その点においては保健の先生はよくわかっていたと思う。それでも陰で支え続けたと言うところは流石だと思った。それでも変わらずに非難される毎日は、新人教師であり気弱な加藤先生には耐えがたいものだっただろう。両親から離れて一人暮らししていた先生は、ついにある行動に出てしまったのだ。
絶対に手を出してはいけなかった、しかし先生にとっては一番手っ取り早く問題が解決する最初で最後の方法だったと言える。
加藤先生は教師になって半年と立たずに、高校の屋上から飛び降り自殺した。
これは一時期テレビでも取り上げられた。加藤先生は自身の生活を綴った日記と遺書、それから学校側に対する願いと生徒たちと親たちに対する謝罪を書いた紙の束をテレビ局に直接送ったのだ。それは自殺する前日の夜だったと言う。その上自分の身の回りの整理と家族に対する謝罪も手紙として、遺書として家族に送っていた。届くころにはもう加藤先生は自殺していると言う寸法だったらしい。最後の最後に数学教師として最高の計算をしてその生を終えた。
先生の思惑通り学校側は記者会見が行われ、校長は辞任。教師の中でも何人かは辞めて行った。保健の先生はショックと罪悪感から病気になり、現在は入院中。保健の先生には感謝していますと言った内容の感謝を綴られた手紙が届いたらしいが、今はどうしているかはよく知らない。
それから、生徒たちの中でも加藤先生をいい様に利用していたり無理難題を押し付けていた者たちは、ほとんどが不登校になったり学校を辞めて行った。今はそれぞれ生活しているのだろうが、噂によると家族からも蔑まれながら生活している人もいると言う。他の関わっていない生徒は自業自得だな、と思い、同時に罪悪感に襲われることもあったようだ。僕もその一人。
また、加藤先生の家族は大切な息子の加藤先生が亡くなったことで鬱になったり幻覚を見るようになってしまったらしい。親が亡くなったことで養女として引き取られていた妹の美紀さんは、そんな家族を支えるように加藤先生の代わりになろうと必死にバイトして大学に通っていると言う。今にも過労死しそうなほどだと噂されているが、現在は校長からの慰謝料でどうにかなっているらしい。来年にはこの高校の教師としてやってくるときいてる。正直精神的な面で大丈夫なのかという疑問が出たけれど、ただでさえ教師が少なくなったこの高校に来たがる教師は居ない中、自分から申し出てくれたらしい。本当なら反対したいところを教育委員会が仕方なしに許可したと言う。これで生徒たちと問題が起こった時は教育委員会の責任となるみたいだが、そんなことはもう起こらないのではないかと思う。
そして、問題の核である科学部と気象研究部だが、これは加藤先生が屋上から飛び降り自殺をしたことで屋上が立ち入り禁止となった為に屋上は使用不可となった。これだけではまた問題が起こりえないと考えたのか加藤先生が学校側へのお願いとして、気象研究部と科学部を合併するか気象研究部を失くしてほしいと遺書に残していた。結果、気象研究部は廃部となり科学部もほとんどが来なくなったために、人気をなくし活動範囲も減った。あれからもう一年が経とうとしているが、一時は部員が一人という廃部寸前の部活となったりもしていた。もちろんその部活の関係者は皆から良い顔をされず、今でも避けるような事をされているほどだ。当たり前だけどそんな人たちと関わりたいと思う人もほとんどいない。面白半分に仲良くする人や、その人自体が本当に科学オタクであるとわかっている人のみが関わっているようなそんな状態である。
「…そんなわけで、屋上は加藤先生の自殺した日以来閉鎖されてるんだ」
どんなにバカな奴でも屋上には絶対に近づかない程に、考えたくもない嫌な出来事だったのだ。そう言うと神崎さんは少し俯いて考えるように腕組みをした。眉間に少し皺が寄っている。重そうに口をゆっくりと動かした。
「…そんなことがあったのか、話させて申し訳なかった。嫌なことを思い出させてしまったな」
そう言って僕をじっと見据えるように視線を上げた。僕はどんな顔をしているのだろうか。あまり知られたくない過去を思い出しながら、見つめ返していると神崎さんが唐突に僕の頬に触れた。
「っ!?神崎さ「泣くな」
あまりの出来事に吃驚して離れようとすると、神崎さんが頬を撫でるように親指を動かした。そこで初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「あ、あれ?どうして泣いてるんだろ」
僕は思わず笑いながら制服の袖で目の辺りを無造作に拭った。それでも涙は溢れて止まらない。
「おっかしいな」
神崎さんは僕の頬から手を離すと、無表情で言う。
「加藤先生は守岡にとって大事な人だったのだろう?」
それは思いもよらない言葉で、思わず涙を拭う手が止まる。涙も同時に止まった。
「…どうして?」
何故そう思うのか、という意味が通じたのか、少し目線を落とすと神崎さんは言った。無表情なのに声に熱がこもっていて何だか不思議と温かい気持ちになっていく。
「先程の話、少々細かいわりに誤魔化しているような部分も多かった。恐らく守岡が本人かその親族とかかわりがあり話したくない部分だと思ったのだ」
きっと大切な人だったのだろう?と神崎さんは小さく微笑んだ。僕はまた涙が頬を伝っていくのを感じた。
「神崎さんの、言うとおりだよ」
僕は加藤先生の従弟だった。幼い頃からよく一緒に遊んでいて遥祐兄と呼んでいた。それぞれが大きくなると連絡は取り合っていたけど遊びに行くことは減った。だから周りにも隠していた。しかし高校に教師として遥祐兄が来ると毎日のように家に遊びに行った。僕が小学校の時友達と喧嘩してボロボロになって帰ってきたら手当してくれたり、勉強を見てくれたり恋愛相談に乗ってくれた優しい遥祐兄は僕にとってかけがえのない存在だった。そんな遥祐兄が大切にしている妹の美紀さんも大好きだった。兄と違って積極的な性格で、とにかくアウトドア派なんだけど格好いい。遥祐兄の所にも週に一度は遊びに来ていたくらいだ。楽しかった。だから、どうにかして遥祐兄を助けようと行動していた。教育委員会にも問い合わせたりしたくらいだ。
けど誰も僕みたいな子供の声に耳を傾けてくれなかった。だから…僕は遥祐兄が亡くなった時不登校になった。
「クラスメートは僕が加藤先生と仲が良かったことを知っていたから連絡してくれたり、家に来てくれたりしてくれて、どうにか立ち直ったんだけどね」
神崎さんは何も言わずにじっと見つめて聞いていてくれた。気付けばもう涙は枯れていて、涙の跡がカピカピになっていた。ちょっとだけ苦笑すると神崎さんは何も言わずに手を伸ばした。限界まで伸ばされた神崎さんの手は僕の頭をそっと撫でた。呆気に取られてる僕にゆっくりと笑みを浮かべて静かに言った。
「よく耐えたな、強い奴だ」
それは僕が一番欲しかった言葉だった。思わず笑ってしまったが、最高の笑顔を浮かべて神崎さんにお礼を言った。
「ありがとう!」
すると神崎さんが吃驚するほど大きくニッと笑ったので、僕も大きく笑い返した。
誰もいない放課後の学校に二人の笑い声が響き渡った。
翌日は泣きはらしたせいで目の下がまるで寝不足のようになっているが、気にせずに晴れた気持ちで学校へと向かった。昇降口に着くと一早く僕の変化に気付いた遠山がすぐさま駆け寄ってきて心配する。
「なんか泣きはらしたような、寝不足のような顔になってるけど大丈夫か?」
とても焦っているけど僕は満面の笑みで返す。
「全然大丈夫だよ(笑)寧ろ絶好調って感じだから」
我ながら平凡な返事だよなあと思いつつ遠山の表情を伺い見た。少し不思議そうな顔をしているが、僕の本音がちゃんと届いたらしい。ニッと笑って僕の頭をガシガシっと乱暴に撫でる。
「うわわ!何すんだよ~(笑)」
遠山は気にもせずに笑いながら言う。
「何となくやりたくなった!本当元気になってくれてよかった」
最後は真面目にそう言ってきたので思わず目を瞬く。まさか、元気がないとバレていたのか?と焦りながらも遠山ならあり得ると納得もしている自分が居た。遠山の家庭事情的に人の体調を見るのは得意なのだから、バレていてもおかしくはない。
「…ありがとう、心配してくれて」
僕は緩む頬を抑えずに笑って心の底からお礼を口にする。遠山はそれに何も言わず、悪戯っ子のような笑みを浮かべると一言「今度ジュース奢ってよ」と言って先に教室の方へと走って行った。僕は答えなかったけど、絶対に奢ろうと考えている。
少し息を吐いてから靴を履き替えて教室へと向かう。何だか世界に色が付いたように普段使っているただの薄汚い廊下ですら輝いて見えた。それだけ僕はあの問題に罪悪感を感じていたという事なのだろう。その事に気付かせてくれた神崎さんには感謝してもしきれないと思った。
教室に入るなり神崎さんの姿を探すと、昨日と同じように僕の席の隣に整えもしない髪を背中に無造作に流していた。相変わらず見た目に無頓着で中学生みたいな見た目だな、と思わず苦笑する。
そんな僕の行動が視界に入ったのか、神崎さんがこちらを向いた。深い深い海の底のような瞳は昨日と同様何も移さないように見えるが、実際はそんなことないのかもしれないなと思いながら神崎さんの元へと歩みを進める。
「神崎さん、おはよう」
僕はきっと昨日以上の笑顔で挨拶をしていたのだろう。神崎さんは少し驚いたかのように目を何度か瞬くと、苦笑した。僕は続けて言う。
「昨日はありがとう」
きっと満面の笑みを浮かべていたのだろう。微笑ましいものでも見るような眼差しで僕に返してきた。
「おはよう守岡。解決できたようで何よりだ…ところで、別に私の事をさん付けで呼ぶ必要はないぞ?」
そして少し困ったような表情をしてこちらを見つめてきた。…うーん、何とも言えない違和感があるが、神崎さんの言うとおりだとも思ったので、僕は思い切っていってみた。女子に対しては久々で何だか緊張してしまったが。
「えっと、神…崎」
しかし神崎はそれを聞いた途端フッと安心したような笑みを浮かべた。もしかするとクラスに馴染めていないと少し焦っていたのかもしれないな、と僕は勝手に解釈して神崎に微笑んだ。
「改めて、歓迎するよ。神崎」
そうして新たにクラスメートとして皆から認定された神崎であった。
これが後々大変なことになるとは、思いもよらなかったのだが。
さて、過ごしやすいが花粉の凄い春の季節も過ぎ、初夏となった。春までの過ごしやすさは一体何だったのかと疑いたくなるほど気象が荒れる季節となったのである。まだ六月で梅雨の時期であると言うのに真夏とは言わないがかなり熱い季節。僕はこの季節が一番苦手だ。
まあ外には学校やバイト以外でほとんど外出をしないから、汗とか虫はあまり関係がなかったりする。しかし夏でも薄手の長袖パーカーを好んで着る僕にとってはこの蒸し暑さが点滴だった。薄手の夏用だから紫外線を遮ったりできるが、通気性はあまりいいとは言えないもので…熱がこもりやすくて辛いのである。
正直夏がもう少し涼しければと思わざる負えない。そんなくだらないことを考えては熱っぽい体の不調に倒れそうになる。本当にこの時期は嫌いだ。
「おっはよー守岡!今日は登校早いな!」
二番目に教室の扉を元気よく開いたのは遠山だった。僕は少し苦笑気味に挨拶し返す。
「おはよう遠山、こんな暑いのに朝から元気だね」
遠山は僕の言葉に照れたような表情をして何かボソッと呟く。
「まあな」
独り言のような言葉は聞き取れなかったが、ちょっと間を開けてニッと笑ってそう言うと、さっさと自分の荷物を席に放り投げてこちらへとやってきた。
「ん?これどうしたんだ?」
ちょっと首を傾げるなり僕の袖のまくられた右腕の肘を指した。つられてみるとどうやらどこかにぶつけたような痣があるのだが、全く覚えがない上に痛くない。ちょっと血が滲んで見える辺り、周りからしたら結構痛そうに見えるようだ。実際痛くないのに見た目が痛そうでだんだん痛く思えてきた。遠山は僕の表情を伺うようにじっと見つめていたが、やがて諦めたようにため息を吐くと自席へ戻って何やらごそごそとカバンを漁り始めた。
「遠山?」
気になって声をかけたが無視された。しばらくして僕の席にまたやってくると消毒液とか絆創膏がその手に握られていた。僕はちょっと焦って言う。
「消毒しなくてもこれくらい大丈夫だって!」
遠山は一瞬動きを止めると苦笑した。
「念のため!俺の心の平穏の為にも手当させてよ」
そういや妹が病弱だからこういう道具はいつも持ち歩いているし、他人の怪我には人一倍心配性だという事をそこでようやく思い出した。仕方なしに遠山の気が済むまでやってもらう事にする。
「ありがと遠山」
僕が笑顔で言うと遠山は照れたようにはにかんだ笑みを見せて何も言わずに黙々と作業をした。さすがと思う程あっという間に手当てが終わると、遠山はニッと笑って
「はい、終了!」
という。僕も釣られてニッと笑う。遠山はすぐに手当てに使った道具を片すと、スマホを開いて通知を確認し始めた。僕は何となく暇になり窓の外を眺める。朝はまだいいけど、昼になるとこの心地いい気温ではなく、暑苦しい熱に包まれるんだろうなと考えて気持ちが沈んだ。ゲームする気にもなれず、そのまま机に突っ伏してホームルーム前の朝読書の時間になるまで寝続けた。
これと言って大したこともなく今日も一日が過ぎた。一週間前に見つけた変な痣は血のにじみが消えただけで全く変化がなかったし、遠山が珍しく三日ほど学校を休んでいたりしたのだが。何となくメールを送ったりしたが、メールだと本当の所どうなのかがわからないし、電話は断られてしまったからなんだかんだで長い数日を過ごしていた。ただ遠山が休んでいることで神崎や他のクラスメートと話す機会が増えて、結構楽しかったりもした。
そして今日は遠山が休み始めて四日目の朝である。花の金曜日と言う奴で、朝読書の時間でも皆どこか浮かれているのがすぐにわかった。先生ですらニヤニヤしながら本を読んでいるのだから、仕方がないと思う。そして朝読書の時間が過ぎて一時間目が始まる前の五分休み、ようやく遠山が登校してきた。担任は遠山を見た瞬間怒ろうと立ち上がる。かと思った。
「遠山、後で職員室に来なさい」
期待外れの静かな声に一瞬クラスが凍り付いた気がした。恐らく動揺しているのは僕だけではないだろう。クラスメート達は何が何だかわからない表情をしつつ読書をしていたが、神崎だけは眉間に皺を寄せて遠山の事を見つめていた。
結局一時間目は遠山は職員室にずっといたらしく、授業は欠席扱いとなった。神崎は先程までの不愉快そうな表情ではなくいつも通りの無表情になっていたので、声をかける。
「神崎、おはよう」
今日初話しかける時は絶対に挨拶が来るのは癖なんだろうな、と自覚しながら僕は神崎を見つめる。神崎はすぐに返事をしてくれた。
「おはよう守岡、今日は何だか焦っているように見えるが、どうかしたのか?」
いつも通りの不思議な言葉遣いとその内容にちょっと驚いて苦笑し、僕は言った。
「流石、何でもお見通しだね。…今日は遠山が四日ぶりに登校してきたから安心したはずだったんだけどさ…」
何となく言葉を濁しつつ理由を述べると今度は神崎が驚いたように目を見張った。そして少し周りを気にするように視線を動かすと、小声で話した。
「本人は恐らく公にされたくないだろうから、また放課後に話そう」
そして僕の返事を聞かずにさっさと授業の準備をしに教室の外へ出て行ってしまった。仕方ない、と僕も授業準備のために教室を出た。
その日は結局遠山は途中で早退したらしく一度も授業へ参加することはなかった。クラスメートの中には遠山を心配してメールを送っている人もいたが、ほとんどはあまり気にしてない様子で授業を受けていた。僕は前者の方になるけど、返信は大したことないよという軽い返事だったので気にするだけ無駄かと思い、しつこくメールはしなかった。
放課後になり、部活のあるものはそそくさと教室を出て行き、帰宅組はお喋りしながらそれぞれの帰路へと着く。あっという間に人気のなくなった教室には今もたもと日誌を書く僕とぼんやりと本を眺めながら僕を待っている神崎だけだ。
神崎はしばらく本を眺めていたが、完全に僕と神崎以外が教室からいなくなると、僕の方をちらりと見て言った。
「…日誌は書き終えたか?」
僕はちょっと苦笑しながら一応、と返す。するとため息を吐いた神崎がこちらの席へとやってきて目の前に立った。まるで見下ろすような感じだけど、神崎の慎重だと小さい子供が威張っているようにしか見えない。笑いをこらえるのに必死になった。しかし神崎はそんな僕の反応を無視して言った。
「遠山の事を話す約束だったな」
確認するような口調でそう言うと僕の目をじっと見つめる。もちろんそのつもりだった僕は臆することなく頷いた。神崎は安心したように少しだけ笑みを見せると、僕の前の席の椅子をこちらに向けて座り話し始めた。
「守岡は恐らくそこまで他人の事情に首を突っ込むタイプではなさそうだから、説明を入れつつ遠山の現在の状況を話していこうか」
それは今まで僕が関わってきた遠山の裏事情というやつだった。
まず遠山の家は五年ほど前に父親が事故死して母子家庭だという。つまり妹が病弱でお金がかかるのにその金がないような状況なわけだ。しかし母はそれをずっと悩んでいて様々な人に相談していた。そしてようやく見つけた良い男性と結婚するも、彼は浮気をしたと言う。それが妹にバレて兄の遠山…寛人に伝わり、母へと情報が流れた。それで言い争いになり逆上した再婚相手は母親を殴り飛ばした。それだけならまだよかったのだが、運悪く頭を打った母親が意識不明の重体で、再婚相手は現在親元にて出禁中となっているらしい。生活していくためのお金は寛人自身がバイトして溜めていたお金があった為何とかなったのだが、それも数日の事。そして母方の親せきが遂に見かねて養子にとは言わないがこちらで一緒に暮らさないか、と言ってきたらしい。だがその親戚は今静岡に住んでいる。ここは栃木だ。とてもすぐにとは言えない場所なので家族間での話し合いと学校での話し合いが絶えないと言う。
僕はそれを全くと言っていいほど知らなかったことに言葉を失った。そして同時に納得もしていた。遠山は自分の事は話そうとはしないやつだ。特に僕にはほとんど話してくれない。それは何故か…僕と話すときは気を遣われたり暗くなったりしないようにという思いからという事だ。それだけ僕を心の支えにしてくれていたことに、少しだけ嬉しくなった。
まあそれに気付いたのは神崎から話を聞いたからなのだが。
神崎は一旦休憩するように窓の外を眺めた。空を眺めるように見ている目は、空ではなくそのもっと先を見ているように見えたのだが、きっと気のせいだと思う。言葉を選ぶように視線を彷徨わせて、一度深呼吸してから神崎に言った。
「僕さ、全く遠山の事情とか知らなかったんだ」
神崎はすっとこちらに視線を戻して先を促すかのように黙ったまま僕を見つめた。その目は知っているがそれがどうした?と言わんばかりの目になっている。また少し言葉を選ぶようにして視線を彷徨わせてから言葉を紡ぐ。
「正直そんな話を聞いて僕はどうしたらいいのかわからないし、聞いたことを遠山に言った方がいいのか、隠していた方がいいのかもわからない」
神崎はまた外を眺めるように視線を移す。しかし今度は言った事を後悔するかのように俯くような遠目のような形で珍しい、と思った。
「それに多分クラスメート達も知らない話だろ?なんで神崎が知っているのかもわからない。…わからないことだらけで混乱してる」
僕は神崎の目をじっと見据えてそう言い切った。最初は不思議だけど優しい良い人だと思っていたのに、今は何だか疑ってしまっている自分に苛立ちを覚えた。だからどうして知っているのかを、本当なのかを、祖の上で僕はどうしたらいいのかを答えてほしい。
…いつしか僕は神崎の事をただの友達から相談する相手に代わっていたようだ、と心の中で嘲笑した。まだそこまで仲いいとは言えない転校してきたクラスメートにいくら何でも図々しいな、僕は。
「はぁ~~~~~~~」
心の中で自虐していると神崎は何か吹っ切れたように長い長いため息を吐いて僕の方に身体ごと視線を移した。思わずゴクリと喉が鳴ってしまう。その目は真剣そのもの、重々しい責任を背負った目をしていたからだ。神崎は一言。
「これから話すことはこの世界ではあまりに馬鹿げた空想物語と思うものだが、真剣に実際に起きた話だと信じて聞いてくれるか?」
それは確認と言うより縋るようなお願いするような言い方でちょっとだけ怖くなって思わず口ごもってしまいそうになって、また深呼吸した。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせるように深呼吸を繰り返すと、目を一度ゆっくり閉じてまた開く。覚悟はできた。どんな馬鹿げた話でも信じようじゃないか!
「わかった、約束するよ」
先程までのわからなかった疑問がここれから話される物語の後にわかるかもしれないと言う期待を込めてそう言った。
ずっと昔、かなり昔。この世界とは別の世界では魔法と言うものが存在した。そしてその魔法はこの世界で言うところの科学と同じように最初は小さくともだんだんとその力を大きくしていった。
その途中である女の子は生まれた。名前はシイラグレー。
その世界では魔法の属性によって髪と瞳の色が決まる、例を出すと
炎の属性であれば赤、しかし魔力が低ければ薄まってピンク色に。水の属性なら青で魔力が薄ければ水色や空色となる。女の子も生まれてすぐに髪の色、瞳の色を確認されたのだが…その世界では見たこともない複雑な色をしていた。
髪は紫が混じった黒で、瞳は深い深い海の色。
その色は単色だった世界で初めての色だった。そしてシイラーーー愛称ーーーが少し成長したらすぐさま実験が行われた。両親は気味悪がって「他にも子供は居ますから!」とシイラを実験施設に捨ててしまった為、やりたい放題だった。
その世界では普通七歳頃から魔力の扱い方を練習する。
しかしシイラは五歳頃から魔力の扱いを教わった。理由は研究者たちの身勝手な研究意欲からどうせなら早めに教えてみようと言う話からだった。しかし研究者たちのその疑問は正しいと言う判決が出ることに時間はかからなかったのである。もう三人ほど孤児がいたのだがその孤児たちにも同じように五歳頃から魔力の扱いを教えてみた結果、シイラには及ばなかったがかなりの優秀な魔力使いに早くも成長したのだ。それは大人の中にもいる類まれなる魔力豊富な魔力使いに後々成長させるべく、しっかりとした学習環境の下で学ばせることに決定した。
ただシイラだけは研究が終わらなかった。
彼女は一人だけ魔力量が生まれたその時から、魔力の薄い成人女性と変わらない程魔力を持っていた上、現在では魔力豊富な成人男性の魔力使いより魔力があるのだ。研究者の格好のえさとなってしまったシイラはそれから九歳の誕生日を迎えるまで様々な実験をさせられることが決まった。
彼女はいつも思っていた。
何で、何で私だけがこんな目に?皆はあっという間にここを出て行ってちゃんとした学校に通って、友達も作れるような年齢なのに、私だけどうしてこんな実験されるの?人なのに、モルモットでもハムスターでもないのに!!
最初はよく分かんないまま行っていた実験が酷く憎らしいものに変わっていく日々。そして変わらず成長し続ける体と魔力。それを感じるたびに自己嫌悪に陥るようになったシイラは当時八歳。
九歳の誕生日を迎えてからしばらく経ったある日、シイラはある新しい研究員を紹介された。若くて眼鏡をかけているのに自信に満ちた失敗したことがないようなギラギラとした目が大きく見えて、思わず生まれた時からいる研究者の一人の後ろに逃げ込むように隠れた。新しい研究員はゴルゾフと言うらしい。シイラの逃げ込むような態度を見て気分を害したようなしかめっ面になると髪を無理やり引っ張って自分の前に立たせようとした。
「言う事を聞け!このモルモットが!!」
新しい研究員はそう言ってシイラの腹部を何度か蹴っては髪を引っ張って立たせようとする。シイラは思う。
痛い、痛いいたいいたいイタイイタイイタイイタイ痛い!!!!
キーン…。
突然の耳鳴りにシイラは思わず耳を塞いで蹲った。ついさっきまで髪を引っ張っていたゴルゾフは何やら喚き散らして手を離した。その隙に逃げようと後ずさるシイラ。次の瞬間。
ゴトッーーーーーーー……。
重いものが落ちるようなそんな音が足元に響いた。誰の声も聴こえないしあんなに聴こえていた足音も聴こえないことに気が付いたシイラは、恐る恐る目を開けた。
「…なに、これ」
目の前には誰もいなかった。それどころか誰一人としてこの場に居なかった。さっきまで喚き散らしていたゴルゾフの姿はどこにもなく、あるのは足元に散らばる無数の黒い塊ーーーーーー。
「…いっいやあああああああ!!!!」
それはこの世界の人間達の死体とも言える魔石だった。
その後気絶したシーラはその場に居合わせていなかった人間達が集まって来るよりも先に別のある種族に連れ去られていた。九歳の彼女にはあまりに酷過ぎる光景を一見しただけで彼らはシイラのみを連れ去った。
「…っ」
倒れた時に打った肩を抑えながら恐る恐る目を開けると、そこは見知らぬ白い部屋だった。家具も何もかもが真っ白で、汚れを知らないかのような色なのに使い込まれている感じがする何とも不思議な部屋だった。少しだけ身体を起こしてから辺りを見回していると、突然ノックもなしに真っ白な扉が開かれた。
「あ、目が覚めたんだね。良かった、丁度様子を見に来たところだったんだ」
そう言って入ってきたのは全身真っ白な男だった。服も髪も真っ白で纏っている魔力の色も髪も瞳も真っ白なのだ。この世界の人間ではありえない色。シイラは思わず何度も目をこすって見直した。そんな様子を見て男は笑った。
「何度見ても同じだよ、僕は神だからね」
シイラの座っているベッドのすぐそばに椅子を寄せてきて座りながらそう言う男にシイラは声をかけた。
「あの…」
かなり小さな声になってしまったが男には聴こえたらしく、またシイラが質問したいことを悟ったかのように口にした。
「あ!ごめんね、僕はトリュテューン。この世界の管理人にして風邪を司る神だよ」
よろしくね、と言って手を差し出してきたが、何だか嘘っぽい気がして握り返すことができなかった。現状を考えれば納得できそうなのに、もしかしたらだまして無理やり実験されるのではないかとシイラは思ったのだ。生まれて物心ついたときから実験され続けてきたシイラにとって大人は疑うべき存在となっていた。それをわかっているのだろう。トリュテューンは苦笑したまま出した手を膝の上に置いて話し始めた。
「君に一つ大事なお話をする。これから話すことは信じなくてもいいからちゃんと聞いていてね」
そうしてトリュテューンの大事なお話が始まった。
それは不思議現象と言うより空想に近いものだった。この世界では不思議なことが時々起こる。魔力を動かして皆が生きているから少なからずどこかでしわ寄せとなってしまうのだと。そうして無駄だと捨てられていく物や人々から漏れ出た魔力が集まると一つの生命を生み出すのだそうだ。それは周りの魔力を少しずつ吸収して魔石となった者たちの感情すらも飲み込んで、一つの存在となり女性の体に溶け込む。しかし生まれてくるかもわからない存在であり、魔力が高いから中々成長せず、大きすぎる魔力に飲み込まれて死んでしまう事もほとんどだ。確率にしたら奇跡と言っていいほどに。
しかしそんな確率の中でもそのものの取り巻く環境が生かすこともある。成長して普通の人のように魔力豊富な魔力使いとして生きているものもいた。もちろんそれだけでは僕ら神々からの干渉はない。
「けどねシイラ、君は違ったんだよ」
ウインクしながらそう言ったトリュテューンをじっと睨んだまま黙っているとまた苦笑して続きを話した。
シイラは研究施設で育った。つまり幼いうちに実験をすることで魔力を効率的に消費していたんだ。そのせいで魔力に飲み込まれることもなく健康的に生きてこられた。それから感情と言うものを教えられずに大人になるために必要な知識やそれ以外の専門的な知識、この世界についての基礎知識を教え込まれた。そのため他の子供よりも大人に対する反発が少なかった。きっとこれは研究施設の人たちの君に対する態度が良かったせいもあるだろうけど。そして九歳になり新しい研究員ゴルゾフと接触したことで、君は初めて感情のままに魔力を暴走させた。
「でも私は!髪とか瞳が複雑すぎて属性がないから魔力の扱いを覚えても攻撃系は無理だろうって」
思わず反論するシイラを制するように静かに首を横に振ったトリュテューンの次の言葉は、シイラに多大なショックを与えるのに申し分なかった。
「君は根っからの攻撃タイプだよ。恨みや妬み、悲しみや苦しみと言った暗い感情が集まってできた存在、神子なんだ」
シイラはその言葉に絶句した。つまり、あの時の魔石化した人たち…彼らをあんな目に遭わせたのはシイラ自身だと言っている事と同じなのだから。自分の属性はわからなくとも攻撃性の魔力であれば今までと同じように生活していてはまた暴走してしまうかもしれない、と言う恐怖が顔に出ていたのだろう。トリュテューンはちょっと焦ったように眉を寄せて少し考えるように視線を落として再び上げると、恐る恐る手を伸ばしてきてシイラの頭を撫でた。吃驚してトリュテューンを凝視するシイラだったが、不思議と嫌な木はしていない。トリュテューンはまた優しい声で言葉を紡ぐ。
「そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
優しく撫でられながらそう言われたシイラは目に温かい涙がたまっていくのを感じた。それは初めての経験で、今まで生きてきた中で一番欲しかった優しさだった。泣くのを必死にこらえるシイラの様子に安堵したトリュテューンはゆっくりと手を離すと言う。
「君は感情のままに魔力を暴走させたことで神子として認められ、その魔力に沿った行いをしたことで髪になる条件を満たしたことになっている」
だから強制的に君を神として迎え入れる形になってしまうのだけど…と少し声を落としてそう言うトリュテューンの表情は何んだか申し訳なさそうな感じがする、とシイラは不思議に思った。別に人として生きたいわけでもないのに何故申し訳なさそうな顔をするのだろう、と。そして思わず言ってしまった。
「それなら私を神々の一人に加えてください、お願いします」
いよいよ泣きそうな表情になったトリュテューンをみて口を噤んだ。そうせざるを得ないような気がして、咄嗟に続けようとした言葉を飲み込んでしまい、咳き込んだ。トリュテューンは悲しそうな表情のまま言った。
「それは、神の一人としては嬉しいんだけど、君の就くことができる神の位置は非常に辛いものだよ?僕のような主体の神々ではなくその魔力通りの、闇の神の位置になる。それはなったら最後、体が朽ち果てるまで苦しむことになるかもしれないんだ」
僕は聞いただけだからわからないけど、九歳の君にはまだ…と最後は言葉にせずに俯き加減になった。それをきいたシイラは少し悩んだ。また見えない恐怖に震えることになるのだろうか、痛いのか、苦しいのか…あんな思いはもうしたくないと思っていた。トリュテューンはちょっとだけ言い辛そうに言う。
「神になる以外の道もない事にはないんだ」
別世界の次元の管理者、と呟くように言った。シイラはよくわからなくて首を傾げた。仕方がないと諦めたようにため息を吐いたトリュテューンは次元の管理者について説明した。
「僕ら神々と同等の力を持っている人たちの事、堺の神とも呼ばれてる。彼らは常に世界を管理し禍や変化をもたらす出来事を間引きしていく仕事をするんだ。他にも仕事はあるけどそれは世界ごとに違う」
それになるのであればこの世界を出て行き、現在の次元の管理者の下で働いて学んでその者の寿命が来たら交代すると言う形をとることになる。しかしそれだとこの世界に戻ってくることはできず、また転生することも出来なくなり、消えてしまうらしい。世界の神々とも許されたものとしか連絡を取り合えなくなる。孤独の神なのだそうだ。
シイラは少し考えた。
闇の神になれば孤独ではないだろうし転生も可能だが、それだけに苦しく辛い日々となる。しかし次元の管理者ともなれば世界の管理をするだけだから苦しい思いはしないし静かに暮らせる。その分孤独なだけ。
頭の中を整理したシイラはもうすでに決めていた。今までも孤独ではなかったけど苦しい生活だったのだ。これからはそんなことなくなると思っていたのにここに留まっていたら結局前と同じなのであれば、もう選択肢は一つしかない。
「トリュテューンさん、ごめんなさい。私、次元の管理者になりたいです」
シイラグレーは九歳になって初めて自分の意見というものを口にした。それが人としての人生の最後の言葉となる。トリュテューンはじっとシイラの目を見つめていたが、やがて本気なのだと知ってまた諦めたように、椅子から立ち上がった。それからシイラの頭に手を乗せた。今度は撫でるためではない。
「シイラグレーよ、其方を次元の管理者として創造主に推薦する。しばし眠っていると良い…」
それは今までのトリュテューンとは打って変わって神としての言葉だった。彼の言葉が終わる前にはもうシイラの意識は深い深い海のような場所へと落ちていたのである。
「シイラグレー、起きなさい」
名前を呼ばれて初めて瞼をゆっくりと動かしたシイラは自分の居る場所が一瞬わからなかった。眠る前までは何もかもが真っ白なトリュテューンの部屋にいたものだから、目がそれに慣れていたようで、薄暗い部屋を真っ暗な部屋だと思ってしまったらしい。目が慣れるまで動かずに瞬きを繰り返すシイラにまた声がかけられた。
「シイラグレー、そろそろ目は慣れましたか?」
シイラはぼんやりとしたまま反射的に答えた。
「はい…何とか…」
そして声のした方へと視線を移した。その声の主はベッドのすぐ横の椅子に座っていた。銀が混じった紺色の髪を後ろで一つの三つ編みにしていて服はセーターのような緑色のゆったりとしたワンピースを着ていた。目は闇のように真っ黒でちょっと違和感を感じた。
ペコリ、と礼をする目の前の人の表情は全くの無表情で、不思議と逆らえないオーラを放っていた。
「では改めて、私は次元の管理者の一人、アルタミトと申します。元は魔力のない世界の出身でした」
軽く自己紹介をしたアルタミトはシイラが質問するより先に質問してきた。
「貴女の名前と出身を教えなさい」
丁寧だけどそっけない言い方だったが、シイラは気にせず答えた。
「私はシイラグレーと言います。魔力豊富な……えっと、トリュトゥーンという神のいる世界の出身です」
名前がないと説明しにくいな、と思いながら特定できるように言うと、アルタミトの能面のような無表情がちょっと崩れて微笑むのがわかった。そして一言。
「トリュトゥーンは本当に正体を言わなかったのね」
微笑む、というよりは苦笑に近かったことに気付いて少し俯くと、アルタミトは続けて説明した。
「トリュトゥーンはあの世界の創造主なのですよ。何故か姿形、名前まで変えているようですけれど」
とても変わった方よ、と苦笑しつつ言う。
「それからここはトリュトゥーンの世界のすぐ隣ですから、あまり緊張しなくてもよろしいですよ」
そうしてまた表情を消すと立ち上がった。
「もう少し休んでいなさい。しばらくしたらまた声をかけるから」
好きにしてて、と言い残してそそくさと扉を開けて出ていった。足音が聴こえなくなると、シイラは身体を起こすと周囲を見回した。
特に特徴のない暗い部屋だった。全体的に暗い色で纏められていて怖いような落ち着くような、複雑な気持ちになる。
ベッドの横にはサイドテーブルがあってそこには蝋燭が細々とした光を放ちながら部屋を照らしている。唯一あるのはその蝋燭の光だけ。
身体を少し動かすとシイラは何だか違和感を感じた。つい倒れたときに打った筈の肩が全く痛くないのだ。まるで元々何も無かったかのような、そんな感覚だった。
徐に立ち上がれば平衡感覚が少し落ちていたらしく、ふらついてベッドに再び座り込んでしまう。しばらく動かずに我慢して、また立ち上がれば、今度はちゃんと…とは言えないがなんとか立ち上がることができた。フラフラしながらゆっくりゆっくりアルタミトの出ていった扉へと近付いて、ドアノブをそっと内側に引いていく。すっと軽く静かに開いた扉の隙間から廊下を覗き見た。
その廊下も部屋と同じく地味で殺風景だった。大体基が木なのはわかるけど、ダークブラウンで統一されている。統一感はあるがやはり暗くて地味だ、とシイラは思った。
しかしここで文句や意見を言っては折角次期次元の管理者として学ばせてもらうアルタミトに対して、あまりに失礼だろうと思って口にすることをやめた。教えてもらえるのに文句等あまりに無礼すぎると自分でもわかっているからだ。九歳にしては考え方が大人だと言われる理由は大人の考え方もわかってしまう事が原因だったな、とシイラは思い出して軽くため息を吐いた。
「あらあら、好奇心旺盛なのか、せっかちなのかしら?休んでいなさいと言ったのに」
突然左側から声がしたので、扉から右側を覗いていたシイラは吃驚して振り返った。咄嗟に怒られるっ!?と恐怖を感じていた。
しかし振り返った先に立っていたアルタミトは困った子を見るような呆れた表情をしながらも、笑顔だった。シイラが思わず目が点になるほどの衝撃だったようだ。アルタミトはそのままの表情で話し始める。
「焦らなくてもちゃんと案内するつもりだったのですよ?」
そう言うなりこっちにいらっしゃい、と手招きをしながら後ろを向いて歩き始めた。狭くて長い廊下をシイラがついて行けるくらいのスピードで歩いているようで、何だか見たことない母の姿に重なるような気がしたシイラは、まるで何かに憑かれたようにふらりとアルタミトの後を追った。
ダークブラウンの廊下をだいぶ歩く中、たくさんの扉が通り過ぎて行った。それこそ1つや2つではない数だ。シイラは正気に戻ると思わず縮こまりながら歩いていた。ただでさえ幼い体はシイラをさらに小さくか弱いものに見せていた。
突然アルタミトは立ち止まると羽織っていた上着の位置ポケットからジャラリ、とたくさんのカギの束を取り出した。それぞれに小さく名前が書かれているようで、暫くいくつかをちらちらと眺めると、その中の比較的大きめな古いかぎを取り出して目の前の少し凝った扉の鍵穴に差し込んだ。しかしアルタミトは指したカギを回さず、何かつぶやいた。その言葉で呼吸をするようにゆっくりと鍵穴の辺りから魔力が扉全体に広がっていくのがアルタミトの後ろにいてもよくわかった。
アルタミトはそこで振り返って教師のように言う。
「この部屋は許可なく立ち入ることができません。カギの管理も魔力を登録していなければできないようになっています。それだけ重要な部屋なのですよ」
ちゃんと覚えておきなさいね、そう言ってカギが開いた扉を奥に向かって開いたアルタミトは小さな魔石をまた内ポケットから取り出してシイラの額に軽く押し付けた。魔力がほんの少しだけ流れ出たことはわかったのだが、これは一体?と疑問でいっぱいになっているシイラを放っておいて、アルタミトはシイラの魔力に染まった小さな魔石を扉に触れさせた。
「うわぁ…」
シイラは思わず声を漏らす。触れた魔石は光の粒のようになって扉に吸い込まれて、その瞬間扉が先程よりもずっと美しく光り輝いたのだ。光が治まったと思えば、扉の真ん中より少し上の辺りに〈シイラグレー〉と記されていた。
「魔力の持ち主の真の名を刻み込むことで登録が完了されるのです」
さて、入りますよ、と言ってシイラを振り返ることなくさっさと中に入って行ったアルタミト。シイラはしばらく感動から動けなくなっていたが、再び扉が光を失いダークブラウンに戻ったところでようやく我に返ったシイラは、慌てて扉の中に入って行った。登録されているものが全員扉の中に入った途端、勝手に扉は閉まって行った。
「こちらに」
アルタミトは少し歩いた先にある、大きなモニター画面のようなものの前のキーボードの埋め込まれた机の前へ来て言った。
「わぁ」
シイラもアルタミトの少し後ろに立って思わずモニター画面を見上げた。近付けば近付くほどその画面の大きさに圧倒される。そんなシイラの様子を微笑ましいとでも思っているのだろう。微笑んだアルタミトは言った。
「これは世界を監視する為のもの。ちゃんと勉強して成長した暁には貴女も使うことになるものです」
そして、手元の比較的大きく《ON》と書かれたボタンに触れた。
……ブゥン。
機械的な音が響くと同時にモニター画面に映し出されていくのは、これから監視するという“地球”の様々な映像だった。ここに映し出されていないものは選べば確認することが出来る、とアルタミトは言うが、危険だろうというもののみを機械が判別して映し出しているのであまり確認することは少ないらしい。
シイラは真面目に聞きつつ、ちょっと気になるなと思いながらモニター画面に目をやった。
「……あ、これ」
シイラの目についたのは端の方に追いやられるようにして表示されている小さな住宅街の映像。何の変哲も無い場所だが、どうやら美しいものでもこのモニターは映すようだ。そこには一人の男性とまだ子供の男の子が話している所が映っていた。
二人とも屈託のない笑顔で楽しそうに話している。内容は選ばないと聴こえないみたいだが、きっと面白いんだろうなとシイラは眺めながら思った。何となく羨ましかった。
そこで映像は途切れた。気が付くとアルタミトが少し名残惜しそうに《OFF》のボタンに触れていた。シイラと共にあの美しい映像を観ていたことは雰囲気から察せられるが、そればかりを観ているわけにはいかなかったのだろう。
アルタミトは言う。
「そろそろ疲れてきましたか?」
シイラはちょっと考えて左右に首を振る。
「そんなに疲れてません」
アルタミトはその返事に一つ頷く。
「では具体的な仕事についてーーー」
コン、コン、コン……。
「ペリドットです。アルタミトさん、そろそろ食事の時間ですよ」
仕事内容を話そうとした瞬間扉の外からノック音と共に明るいしっかりとした女の人の声が響いた。外からの声はスピーカーでも設置されているのか、かなり大きな声が部屋に響いて、シイラは思わず身を竦める。
「あら、もうそんな時間…丁度良かった。シイラ、怯えなくても大丈夫ですよ」
そしてアルタミトは腰につけてあるバッグの中からリモコンのような物を取り出した。少し操作すれば、先程通ってきた扉が勝手に開く。
「お!今回はすんなり開けてくれましたねっ!」
ニコニコしながらそう言って入ってきたのは、パッつん前髪がよく似合う美人なお姉さんだった。肩より上で切られている短い黒髪で、瞳は明るい茶色。女性にしては背が高く、格好いいように見えるが明るい言動から何だかちょっと変わった人、というのがペリドットに対するシイラの第一印象だった。
「あ、この子が例の子ですね!?初めまして!私はペリドット。アルタミトさんの世話係です」
大人の外見なのに子供っぽい口調で自己紹介したペリドットに半ば反射的にシイラも自己紹介をする。
「し、シイラグレーです」
よろしくお願いします、と言いお辞儀をするとペリドットは満足したようで笑った。
「かわいい子ですねアルタミトさん!」
可愛い可愛いとはしゃぐペリドットに恐縮しきっているシイラを交互に見てアルタミトは苦笑しつつペリドットに注意した。
「ペリドット、あまりシイラを怖がらせないのよ。…さて、食事のついでにここに住む者たちの紹介も致しますよ」
私達に遅れずについてきなさい、と言って歩き出すアルタミト。
「私も含め変わり者揃いですからね(笑)シイラちゃん、覚悟しててください!」
ペリドットはそんなことを言いながらシイラの背中を押してアルタミトの後に続いて部屋を出る。歩いている途中シイラは恐る恐る聞いてみた。
「ペリドットさん…は、いつから…こ、ここに、住んでいるんですか?」
ペリドットは懐かしむような声で答える。
「ここが出来てからずっとですよ」
シイラはその答えにちょっと首を傾げたが、何となく遥か昔からここにいるんだという事を理解した。ペリドットはシイラの様子を見て苦笑すると話題を変える。
「あ、そうそう、これから紹介する住人なんですが、五人います」
男性が二人と女性が三人。
「ここは最大で八人生活できるようになっていて、今はシイラちゃんを含めないと七人いるんですよ~」
明るくそういったペリドットにシイラは思わず聞いてしまった。
「寂しくないんですか?」
一瞬言葉に詰まったペリドットだったが、少し間を開けて答えてくれた。
「この人数しか知らないですからね~何とも言えないです(笑)」
その返答にシイラは何と返していいのかわからず、俯いてしまう。ペリドットも少し困ったような顔をして黙り込んでしまった。
アルタミトは二人の会話を背中に黙々と廊下を歩いていたが、何となくため息を吐いてしまった。ペリドットは誰か新しい住人が増える度にあんな会話をしては落ち込んでいるのだが、一体どんな過去を抱えているのだろうと思っていた。そろそろ聞いてみてもいいのかもしれない。
アルタミトはちょっとした決意をして、あのモニターのある部屋から幾分離れた食堂へを足を運び続けた。
あのモニターのある部屋からほぼ反対側にある食堂にアルタミト、シイラ、ペリドットの順で入って行くと、食欲をそそるような肉の匂いと優しいスープの香りがしてシイラはついお腹が鳴ってしまった。アルタミトは振り向いて困った表情になる。
「よほどお腹が減っていたのですね…紹介を先に済ませてしまいたかったのですが、他が集まるまで少々時間がかかりますし、先に食事をしていましょうか」
ペリドットに確認を取るようにチラリとみて視線を交わらせる。ペリドットはにっこり笑って賛成した。
「ここはそんな厳しいところではないですからね!」
その言葉にアルタミトは一つ頷くと暖簾のかかった奥に続く通路へと体を向けて声を上げた。
「カルタナ!いるかしら?」
ガチャガチャとお皿がぶつかり合う音が急に止み、暖簾から顔を出したのは緑色の可愛らしいエプロンをした丸顔の中年女性だった。青くぱっちりとした釣り目で灰色の髪は癖のあるショート。すぐにやってくるとアルタミトに親しそうな挨拶をした。
「ハイハイ、お疲れ様ですアルタミトさん。お呼びですかね?」
エプロンで軽く手を拭きながら三人の元に小走りでやってきた。ニコニコとした表情は優しそうなのに釣り目のせいか少し勝気そうに見える、とシイラは思った。アルタミトは言う。
「次期次元管理者として新しく入ってきた彼女を紹介いたします」
そう言ってシイラの方をチラリとみる。それに気付いてすぐにシイラは自己紹介した。
「シイラグレーです!よろしくお願いします」
勢いをつけてお辞儀したせいで後ろ髪がほぼ前に落ちた。それに大きく笑ったその女性もすぐに自己紹介してくれる。
「アッハッハッハ!!あんた面白いねえ!あたしはカルタナよ。ここのコックやってるの」
そして右手を差し出してきた。
「これからよろしくね、小さなお嬢ちゃん」
シイラは慌ててその手を握って緊張しながらも精一杯の笑顔を浮かべて返事した。
「…はい!よろしくお願いします!」
その笑顔を見たシイラ以外の三人は驚いたように目を見張ってみっともなく口を半開きにした。誰かの息を呑む音が聞こえるほど静かな時間が流れた。
「えっと…」
シイラは状況が読めず三人の顔を見回すように見たところで三人は我に返った。
「…あ、ああ、そういや食事の時間だったね。すぐ準備するから少し待ってておくれ」
ぎこちなくそう言ってカルタナはそそくさと逃げるように厨房に戻っていく。しばらくしてまた料理し始めた音が聞こえてきた。
「…シイラちゃん、席に座って待ってましょう!」
少し戸惑いながら必死に言葉を紡いでいるような表情でペリドットは言うと、シイラの背中を軽く押して席へと誘導する。アルタミトも困惑していて視線が定まっていなかったがペリドットに「ほら、アルタミトさんも早く!」と声をかけられてようやくその場から動き出した。その顔はまるで予想外の出来事が起こったことによる今後の対処が思い浮かばない感じだ、とシイラは思う。そんな表情の人を今まで何度も見てきたせいか、すぐに確信した。
席に誘導されて、背凭れのない木の椅子に座ると向かい側にアルタミトが座る。ペリドットは座らずに言った。
「他の四人の住人呼んできますね…シイラちゃん、また後で!」
段々調子が戻ってきたのか出会った時のテンションでさっさと食堂を出て行くペリドット。声を出す暇がなくてちょっとだけ落ち込んでいると、アルタミトは言った。
「また話せばよいのです。すぐに落ち込まないように」
注意のような言い方だったが、恐らく子供を相手にした経験が少ないのだろう。シイラはアルタミトの不器用な優しさにまた笑った。しまった!と思った時にはもう遅く、またアルタミトと食事をトレーに乗せて戻ってきたカルタナは動きを止めた。頭からあっという間に血の気が引いていくのがわかる。思わず焦って頭を下げたシイラ。
「ごめんなさい!また笑ってしまって…」
そしてちらっと顔を上げて二人の表情を確認する。
「何を言っているのかしらこの子は」
アルタミトがクスクスと笑いながらそう言うとカルタナを見上げてさらに笑った。カルタナも豪快に笑ってアルタミトに同感する。
「全くこの子は本当に面白いねえ!!自分は笑っちゃいけないと思っているようだよ!」
そして二人してまた大きく笑った。シイラは何が何だかわからず目が点になっているのを自覚する。しばらくして少し笑いが治まってくると、アルタミトは慈愛に満ちた表情でシイラに言う。
「先程はごめんなさいね、あなたの笑顔が思っていた以上に可愛らしくて、天子でも舞い降りたのでは?と思う程見とれてしまったのよ」
さっきまでの他人行儀な口調ではなく親しいものに話すような口調でそう言ったアルタミトに、今度はシイラが驚きで目を見開いた。
「え!?」
カルタナは持ってきた食事をアルタミトとシイラの前にテキパキとセットしながらアルタミトの言葉に同意する。
「アルタミトさんの言う通りよ!あたしもペリドットもあなたの子供らしく笑った姿に感動してしまったの」
本当は子供と触れ合うのが五百年ぶりで、何かの見間違いか夢かと思ってしまったのだけど(笑)と言って苦笑するカルタナ。アルタミトは言った。
「今頃ペリドットも思わぬ可愛さに廊下を歩きながら感動で打ち震えているわよ」
分かりやすく頬を赤く染めていたもの。そう言って出入り口の方へと目をやるアルタミトにつられてシイラも出入り口の方へと視線を移した。廊下を歩く音は聞こえないが何となく想像できてちょっとだけ苦笑した。
確かに廊下に出たにしては足音が一向に聞こえてこない…。
「アルタミトさん!?なんでそんなこと言っちゃうんですか!?」
突然の叫び声と共にバンッ!と扉が乱暴に開かれ、ペリドットが顔を真っ赤にしながら食堂に飛び込んできた。その目には恥ずかし過ぎてなのか涙でうるうるしており、当然のことながら後ろには誰もいない。
「やっぱりね」
完全に口調と態度が崩れたアルタミトが苦笑する。カルタナも口を開けて心底面白そうに笑っていた。シイラも釣られてクスクスと笑ってしまう。
「あ!シイラちゃんまで笑った!!ううっ可愛いけど悲しいっ」
そして蹲って震え始めた。なんかちょっと怖かったりする。そこに一人シイラの知らない人が食堂へやってきた。
「騒がしいと思ったら…珍しく可愛らしいお嬢さんが来てペリドットが暴走してたのか」
そう言いながら紳士的な笑みを崩さずに近づいてきたのは高身長の執事のような白髪の優しそうな男性。アルタミトは気付いてそちらへ視線を移したのでシイラも挨拶しようと立ち上がる。
「は、初めまして!シイラグレーです!」
緊張からついつい勢いよく頭を下げるためすぐに髪がバサッと前に流れてぐしゃぐしゃになってしまうが、シイラは気にせず少し間を開けてから顔を上げる。目の前の男性は苦笑すると言った。
「これはこれは…可愛らしいが少々困り者のお嬢さんのようだ。私はクリフ。ここの執事と言う名の清掃等を担当している者です…っと、少し失礼いたしますね」
そう言って眉を寄せつつ優しくシイラの肩に触れて座るように促す。抵抗せずにシイラが椅子に座ると腰のポシェットから木で出来たシンプルな櫛を使ってシイラの紫色の混じった黒髪の絡まっている所を解きながら、綺麗に梳かしていく。
シイラはくすぐったくて逃げたくなったが我慢し、手をぎゅっと握って耐えた。
そしてその作業は二分も掛からず終了した。
「うっわあ…シイラちゃんの髪、凄く綺麗…」
ペリドットが食事をする手を止めてうっとりとシイラの髪を眺める。先に食べ始めていたアルタミトも奥の部屋からーーークリフの分と本来はペリドットの分だった皿を持ってーーー戻ってきたカルタナもシイラの髪を見てうっとりとため息を吐いた。
「何て美しい…。さすがはクリフね。シイラの髪の色は元々素敵だったけれど」
アルタミトが称賛の声を上げるとクリフは満足そうに細い目をさらに細めてにっこりと笑った。
「磨けば光る原石、とはまさにこのことを言うのでしょう。私も正直驚いていますよ。これほど美しい髪色は久々に目にいたしました」
カルタナも頬を染めて眺めている。
「本当に綺麗だねえ…あ!そしたら後でちょっとオシャレしたらどうだい!?確かあの子…なら得意だったでしょう?」
アルタミトにそう言うカルタナ。管理者の仕事自体は日々の積み重ねが大事だから、と言い訳染みた説得にアルタミトは苦笑したが、カルタナの言う通り少しオシャレさせてみたいと思ったのかもしれない。仕方ないですね、と彼女は言う。
「あの子が来たら頼んでみましょうか」
そしてシイラとクリフに食事を勧めた。
「ささ、少し冷めてしまったけどしっかり食べてね!お変わりは自由だから」
カルタナはそう言うと奥に引っ込んで再び作業をし始めた。そこまで忙しくなさそうに見えて意外に忙しいのかな、とシイラは思い、手作りの温かい料理を食べながらこの食事を与えてくれたカルタナとアルタミト、それからもう会う事はないであろうトリュテューンに感謝した。
しばらく無言で食事をして、ペリドットとアルタミトが食べ終えた頃…時間で言えば十五分後くらいにようやくまた一人やってきた。
「遅くなりました」
低音で男らしい体付きの簡易な鎧を着たダークブラウンの髪をした人と、モノクルーーー単眼鏡ーーーを付けた黄土色の髪の女性が入ってきた。しかしまだ全員は揃っていない。騎士のような見た目の人がいち早くシイラに気付いて敬礼した。
「お初にお目にかかります、わたくしはバーログと申します。ここの騎士を務めております」
シイラも食事中だが慌てて口元を軽く拭うと立ち上がり自己紹介をする。しかし今度は綺麗にしてもらった髪が崩れないようにとクリフが止めたおかげで、バサッと流れることはなく、可愛らしい女の子のままとなる。バーログはちょっと頬を赤く染めるとはにかむように笑った。
「いやはやとても可愛らしい方だ。これからどうぞよろしくお願いします」
シイラは恥ずかしそうに俯きながらも頷いて、か細い返事をした。
次に自己紹介してきたのはモノクルをかけた淡い黄土色の女性。
「初めまして、わたくしはリンド。ここの次元管理者を育てる者…教師です。これからよろしくお願いしますね、シイラさん」
そして大人の女性らしく上品に笑う彼女は恐らくこの中で一何隙を見せないような人だろうと直感的にシイラは思う。ただ怖そうな人ではないので少しホッとして笑顔で返事をした。
「さてと…もうすぐ私は管理の方へ戻らなければならないのだけど、あの子全く来そうにないわね」
困ったわ、と言って頬に右手を添えて首を傾げるアルタミト。奥からバーログとリンドの分の食事を運んできたカルタナも眉を寄せてアルタミトに同感、と言いたげな表情をしながら皿を置きつつため息を吐いた。そこでようやくペリドットが立ち上がる。
「今度はちゃんと呼んできます!」
二度目の正直です!!と言うなり目をギラッギラに輝かせた姿はとんでもないもので、シイラを含めたその場の全員がドン引きした。アルタミトがいち早く我に返ると宥めるように言う。
「少し落ち着きなさいペリドット」
しかしバッとアルタミトの方を向いたペリドットは全く変わらず目をギラギラ輝かせていた。
その勢いに一瞬怯んだアルタミトにペリドットは自分の意見を述べる。
「失敗を失敗のまま終わらせたくないんですよ!アルタミトさん!」
それに早くシイラちゃんのオシャレした姿を拝見したい、と本音を溢すなりさっさと食堂を出ていってしまう。
シイラ以外は盛大にため息を吐いたり頭を抱えたり諦めたような表情で残りを食べ始めている者もいる。アルタミトは少し苦笑して席に座り直した。
カルタナが空になった皿を奥に運んでいく。その姿をちらっと見てシイラに視線を移すと彼女は言う。
「シイラは私が怖いかしら?」
そう質問するアルタミトの目は少し怯えが混じっているように見えたシイラだったが、ここでは正直に答えておいた。
「最初は何だか警戒?されているのかな、と思ったりはしました。けど少し経った今はそんなことないんだなって、何て言うか、優しい人だなと思ってます」
そしてぎこちないながらも笑顔を見せると、アルタミトは軽く驚いたように黙り込んでシイラを見つめて、それから苦笑した。
「それは良かったわ」
どうやら安心してもらえたようだ、とシイラはホッとする。
丁度そんな話が途切れた頃、奥からトレーにいくつか飲み物を載せてカルタナが戻ってきた。それを食事中のクリフ、バーログ、スープを優雅に口にしているリンドの順に置いて行き、シイラの前にもコトッと静かに置かれた。
カルタナは言う。
「シイラちゃんには果汁百パーセントのオレンジジュースだよ」
その説明はよくわからなかったが、飲み物をくれたのだろうとはわかったシイラはカルタナにお礼を言った。
「ありがとうございます、カルタナさん」
ありがとうと口にすると自然と笑顔になれるからシイラはこの言葉がお気に入りだった。カルタナはにっこり笑って返す。
「いいえ」
そして最後にアルタミトの前に湯気がまだ出ているティーカップを置いてその隣に座ると自分もお茶を飲み始めた。それを見届けるように眺めていたシイラは先程渡されたコップ中を覗き込んだ。
オレンジ色の明るい液体が並々と注がれている。確か名前はオレンジジュースと言っていたものだ。
シイラはこれと似たようなものを口にしたことはあった。その時は確か同じ年の孤児たちの実験が成功した時にお祝いとか何とかいって、配られた飲み物だった。
けれど正直あまりおいしくはなかったの事を覚えている。
何だか甘すぎて早々に飲めなくなったのだ。研究員曰く魔力増幅薬改良版とか何とか言ってたけど、子供のシイラにはとても飲みたいと思えない代物だった。
それと似たような液体が目の前に用意されている。シイラは少し複雑な気分になった。何しろカルタナがシイラが喜ぶと思って用意してくれたものだ。苦手だという隙は無かったし、せっかく用意してくれたのにつき替えすのはちょっとできない。
シイラは我慢して両手でコップを持ち上げると、目を瞑ってぐっと口の中に流し込んだ。
「!?おいしい…」
思わず呟くとスープを飲み干したリンドが気付いてクスクスと笑った。
「シイラさんはオレンジジュース飲むの、初めてでしたのね」
シイラが頷くとリンドはカルタナに言う。
「私も紅茶を…ルイボスティーをお願い致します」
「ハイハイ、ちょっと待っててくださいね」
カルタナはゆっくり立ち上がるとリンドの使っていた食器を片付けて奥に引っ込んだ。リンドはその間に説明する。
「これは果汁という果物から取れる液体なのです。自然そのものだからとても瑞々しい味でおいしいでしょう?」
身体にも良いのです、と続けてにこっと笑った。シイラは不思議に思って首を傾げる。
「これ、前に似たようなものを呑んだことがあったんですけど、全然違う味でした」
おいしくなかったはず、と続けるとさも面白そうにリンドは笑った。
「それはそうでしょう、これはここ地球の体の機能を正常に保つための飲み物の一種であって、シイラさんの生まれた世界の物ではないのですから」
まだ疑問が残ったままのシイラは首を傾げたままだ。と、そこにカルタナが紅茶を持って戻ってきた。
「はい、ルイボスティー」
透き通っていて美しい飴色の液体から湯気が立ち上っている。リンドは嬉しそうに「ありがとうカルタナさん」といって受け取った。興味深々でシイラはリンドさんと湯気の立ち上る紅茶を眺めていた。白くて綺麗な手をカップに絡ませて目を閉じ、味わうように紅茶を口に含ませるリンドさんは実に美しく、瞬く間にシイラの中での憧れの女性となった。
一口飲んで「やはり美味しいですね」と一つ呟くとリンドは目を開け、シイラの方へと視線を戻す。
「何かまだ疑問があるようですね、答えられる範囲でお教えいたしますよ?」
リンドのその言葉に少し考えるように顎に手を当てた。それから一つ聞いてみる。
「自然ってなんですか?」
そもそもがよくわからなくてシイラは聞いてみた。その問いにリンドはちょっと眉を寄せる。
「難しい質問ですね…自然とは人工物ではなく、物そのものの本来の姿。また地球では山や海などといった人の手が加えられていないものの事を言います」
山?海?と知らない単語を並べられてだんだんシイラは頭が混乱してきた。それに気付いたのだろう。リンドはクスッと笑って言う。
「言葉だけではわかりませんよね。実際に見に行ってみますか?」
地球に、と言ったリンドに誰よりも早く反応したのはアルタミトだ。
「やめなさいリンド!」
リンドはその言葉に怖気付く事無くにっこりと笑って反抗した。
「一種の課外授業ですよ」
アルタミトはガタッと焦ったように立ち上がる。
「シイラにはまだ早いです!」
リンドは立ち上がったアルタミトをじっと見つめて真面目な顔で諭すように言葉を並べていく。
「地球では七歳の頃にもう課外授業を行うのですよ?シイラさんは九歳で、更に賢い子です。今やらなくてはいつやるというのですか?後々時間が取れるとは思いませんが…」
アルタミトは少し冷静になったようで椅子に座り直す。それを見てリンドは苦笑した。
「アルタミト様、まるで子を持つ母のようですね」
それを聞いたアルタミトは驚いたように目を見張る。そして畳掛けるように優しい表情で言った。
「シイラさんの成長の為にも許可を頂けませんか?」
そして食事を終えて口を拭っているバーログへと視線を移す。
「もちろんバーログが護衛としてわたくしと一緒に引率いたしますから」
いつも通りね、とバーログに確認する。突然話を振られたバーログは少し驚いたようにリンドとアルタミトを交互に見たが、やがてきりっとした表情ではい、と口にする。
「危険が及ばないようしっかり護衛いたしますよ。それに地球は魔力濃度がかなり低いですから、比較的安全ですし」
そして安心させるような紳士的な笑みを見せた。クリフとはまた違った優し気な雰囲気にシイラはドキッとした。胸の阿多ありに手を当てて、この感覚は一体なんだろうと何となく不思議に思っていると、アルタミトは諦めたらしい。少し冷めてしまった紅茶の残りを口に含んだ。
「…カルタナ、今日はデザートを用意してくださる?」
急にそう言ったアルタミトに返事したカルタナは驚く事無くすぐに立ち上がって奥に入って行った。アルタミトは目を瞑って少し考えるように黙り込んだ。リンドはその様子を眺めつつ同じように少し冷めた紅茶を口に含んでは口元に笑みを浮かべている。
徐にシイラは言った。
「あの」
そこでアルタミトは薄らと目を開けた。その視線は俯くような形でシイラを見てはいなかったが、聞き耳を立てているのがわかる。シイラは続けた。
「私地球に行ってみたいです」
それを聞いたアルタミトはゆっくりと視線を上げる。そこにあるのは縋るような心配するような思いに揺れる黒い瞳だった。飲み込まれそうな闇の色なのにとても暖かい光を宿している。リンドはホッと息を吐いた。これでもう安心できたとでも言いたげな呆れの混じったため息だった。
そこにつるんとした綺麗なデザートを人数分トレーに乗せてカルタナが戻ってきた。
「はい、食後のデザート『プリン』だよ!」
それぞれの前に置きながら説明する。皆は見慣れたものなのか一緒に置かれたスプーンを手に取ってそれぞれ食べていく。シイラはまじまじと眺めながら皆を見回していると、カルタナが豪快に笑った。
「これは地球のスイーツ『プリン』だよ、スプーンで一口分掬って見な!」
美味しいから、と言って勧めてきた。シイラは恐る恐るスプーンを手に取ると、落とさないように一口掬ってみた。つるり、と口の中に流れるように入っていく。
「!美味しい…!!」
程よい甘さに柔らかくてほんのり冷えている冷たい感触の『プリン』という不思議なデザートが、身体の中に溶け込んでいくようで、夢見心地になるシイラ。
カルタナは照れを隠すようにまた豪快に笑った。
「それは良かった!」
そしてまた自身の席へと戻っていく。それを気配で何となく感じ取りながら、シイラは『プリン』を夢中で口に運んだ。味わいつつもその手の動きは早い。
一息ついたタイミングを見計らってリンドは言った。
「アルタミト様、許可…して頂けますか?」
それにすぐには反応しなかったアルタミトだったが、姿勢良くプリンを食べ続け、半分ほど食べたあと口を拭うとリンドの瞳を見据えてゆっくりと口にした。
「仕方ありませんね…シイラの意志を尊重いたします」
その瞬間食堂の雰囲気がふわっと和らいだ。そして間髪入れずにアルタミトは立ち上がる。
「長居し過ぎたわ。カルタナ、御馳走様」
そして振り返らずにさっさと部屋を出て行こうとした…その時。
「あ!アルタミトさん!待ってください!やっと連れて着ましたよっっ」
そう言って強引に食堂に入ってきたのはずいぶんと前に最後の一人を連れてくると言って食堂を出ていたペリドットだった。
「だ~~か~~ら~~!今日はいらないっていつも言ってるじゃ~~ん!!」
背の高いペリドットの後ろからは幼いような気だるげな少年のような声がした。シイラは首を傾げるが他の皆はびっくりしたように目を見張ってペリドットを見ている。徐にリンドが言った。
「まさか、本当に連れてこられたのですか?」
ペリドットはどや顔になるとエッヘン、と自慢してきた。
「そうなんです!今日はちゃんとやりましたよ!!…さ!シイラちゃんに挨拶してください!」
そう言って押し出された背の低い、それこそシイラより小さい女の子だった。シイラは困惑しながらも最初と同じように自己紹介した。今度は姿勢やかみが乱れぬように注意を払ってアルタミトやリンドの真似をしながら。
「初めまして、シイラグレーです」
そして目の前の子供の様な方をさっと観察した。ここでは珍しく派手な赤毛の緩い癖毛で、無造作に後頭部で纏められている。服も皆が着ているような見慣れた洋服ではなく、布を何枚もずらして重ねているような感じだ。しかし膝上までの長さの服でこれまた派手な赤を貴重とした服だった。
…服と認識していいのかちょっとわからない、とシイラは思った。
ちなみに態度はここで一番偉いのだぞと自慢しているかのように腰に手を当てて胸を張っている。何だかちぐはぐな感じだった。
目の前の女の子は無表情で言った。
「初めましてシイラグレー。妾は紅。地球の出身だ。そしてここ、境目の空間の創立者の一人であり統治者を務めている」
ぶっきらぼうな話し方からは不機嫌のようにも感じるのだが、紅は特に怒っているつもりはないのだとリンドに内緒で教えられて、シイラは安堵する。それにしてもこんな小さい女の子がここで一番位の高い人だとは思わなかった。
そんなシイラの心情を察したのか、紅は一つ軽くため息を吐いて言った。
「一応、だ。ここでは身分など何の意味もない。それから妾は幼い内にここへ連れ込まれたのだ。中身しか成長はせんのだよ」
シイラにはちょっと理解が難しいか?と言うような表情で首を傾げると、リンドは言った。
「ここは少々特殊な空間でして、住むものが死ぬことのないよう肉体の成長が止められるのです。私も軽く150年ほどここに居ますが、当時の姿のままなのですよ」
そしてシイラに向かって安心させるように微笑んだ。そこでシイラはようやく理解し、納得した。
「…そろそろ仕事に戻っても良いかしら?」
唐突にアルタミトが焦りを含んだ声を発した事で、皆が一斉にアルタミトを見た。その視線に狼狽するアルタミトだったが、紅がため息を吐いて言ってのける。
「放置しすぎたな、世界は少し目を離した隙に大きく変わるものだ。よくよく見張っておけ」
その言葉から理解したのかアルタミトは丁寧にお辞儀をし「感謝いたします、紅様」と言うと静かに食堂から出ていった。この一連の流れからも紅の身分が本当に高い事がよくわかる。シイラは思わずゴクリ、と唾を飲み込んだ。
「む…?シイラ、どうかしたか?」
紅がすぐに気が付き声をかけてくる。口調から少し面白がっているのだが、そんなことは先程出会ったばかりのシイラには知る由もない。
「あ!いえ!何でもないです!」
焦ってすみません、というシイラ。
「くっ…あっはっはっは!!」
遂に紅が堪え切れず吹き出し釣られて周りの皆も笑いだす。リンドが苦笑しながら紅を緩く咎めた。
「まだここに来たばかりのシイラさんをあまりからかい過ぎないでください、紅様」
「くふふっ…え?ああ、そのうち慣れるであろう」
そう言って新しいおもちゃを見つけた時のような表情を浮かべてシイラへ視線を移した。シイラは困り切った表情でおろおろと皆を見回して居た。リンドが優しく声をかける。
「そろそろ勉強いたしましょう…時間はあると言っても無限ではないのですから」
そう言ったリンドの表情は少し陰っていた。それに気付いたのは恐らく紅ただ一人だっただろう。あるいはシイラがもう少し大人であれば何となく察していたかもしれない。紅は視線を落として次の段階への準備を考えた。きっとまた泣く者が出るだろうな、とため息を吐きながら。
それから地球の時間で言うところの一ヶ月が過ぎ、シイラもかなりこの場所に馴染んできた頃の事だった。
「シイラさん、そろそろここにも慣れてきましたよね?」
リンドが隣から声を変えるとシイラは目の前のノートから名残惜しそうに眼を話してリンドを見据えるとにっこりと笑う。
「はい!皆さんのおかげでいろんなことを自由に学べていますし、本当に感謝しています!」
そしてまた目の前のノートに視線を移した。そこには地球の地形や地図、気象についてだったり自然の事がびっしりと書かれている。その目の前にはご雑程の分厚い教材も並べられていた。
現在いるのは最初に使用した客室ではなく新たにシイラの為に用意した、少し広めのシンプルだが実用的な部屋だった。壁に取り付けられた使用中の机の棚には分厚く古びた本から綺麗な新しい本まで作られた年順に並べられている。これらは大体バーログからのプレゼントだったりするが、アルタミトのおさがりも少なくない。シイラは喜んでもらっていた。
見回せば机のすぐ隣に一人で寝るには少々大きい白を基調としたベッド、それから明るい茶色のサイドテーブルに地球の職人お手製のランプ、そして年季の入った大きなクローゼットがあった。
シイラの家具は大体アルタミトの使わなくなったものが運び込まれている。アルタミトはそんな古いものを遣わずに新しく用意しなさい、と言っていたけれど、お金の問題上難しいとカルタナやバーログ、クリフが頭を抱えていたのだ。それを見たシイラが自ら進んでおさがりが良いと進言してくれた。
リンドはそんなシイラが誇らしく思う反面、心配していた。
こんなシイラをあの腹黒い感情に満ちた地球という場所に校外学習という名目で送り出すことは本当に間違いではないのか、と。
そこまで考えてシイラを眺めたリンドは、自分の考えを打ち消すように軽く頭を振る。もはや後戻りはできないのだ。しいらがこの場所に次期次元管理者として入ってきたときから運命は定められていたと言えよう。どの道誰もが通り道なのだから。
「…シイラさん、少し休憩いたしましょう。もうすぐ昼食の時間にもなりますし」
そういって悪戯っぽくにっこりと笑えば、シイラはバットこちらを向いて美少女な整った顔をキラキラと輝かせる。やはり年相応の表情を見せる辺りアルタミトとは違うなと思ってしまう自分が何だか虚しい。ちょっとだけ沈みがちな気分を表情に出さないよう注意を払いながらリンドは立ち上がった。シイラも軽く片づけを済ませて立ち上がる。
その時の動きは最初にここへやってきた時と雲泥の差があると思われる。少し立ち振る舞いや言葉遣いを訂正しただけだったのだが、わずか四日でぎこちないながらも動きは洗練されて行き、現在では地球で言うところのお嬢様のようだった。
紅もアルタミトもこれにはかなり驚いていたのがつい先日。
『まあ!こんなに立ち振る舞いが洗練されるなんて…とても九歳とは思えません』
紅も珍しくシイラにもわかる程に目を見開いてしばらくあんぐりと口を開きっぱなしにしていた。
『本来ならば立ち振る舞いは立った数日で洗練されるものではないはずなのですが…どうやらシイラさんは教育を幼い時から受けていた影響で集中力が異常なのです』
まあそれだけでもというだけで、本人の素質があったというのが一番の理由だと思う。アルタミトは少し考えるように顎に手を当てて俯いた。紅も腕を組んでうーん、と唸っている。そして。
『地球の地理を完璧に覚えられたら地球へ校外学習に行かせましょう!!』
そして今日シイラはほぼ完ぺきに地理を覚えてしまったわけだ。珍しくアルタミトが積極的に賛成してきたことに驚いて本来の目的を話しそびれてしまったのだが、まあいい。シイラには早く成長してもらいたいと思う。
シイラが後ろをついて聞きていることを気配で確認しつつ食堂への扉を開く。まだ時間になってないせいかカルタナがテーブルを丁寧に磨いている所だった。扉が開く音に気付いてこちらを振り返る。
「ああ、リンドさんとシイラちゃん。お疲れ様…地理の方は順調かい?」
これはリンドではなくシイラに聴いているのであろう。そう解釈したリンドはシイラをチラリと確認s田。それに気付いたか否か、シイラはにっこりと誇らしげに笑ってカルタナに報告する。
「順調です!ほぼ全部覚えられましたよ!」
その言葉にカルタナは驚いて関心の籠った声を発した。
「なんとまあ早い事!流石はシイラちゃんだね、今日はご褒美にデザート用意してあげるよ!」
カルタナはシイラが来てから上機嫌な日が増え、また食後のデザートを作る回数が増えた。個人的にはかなり嬉しい変化であり、まだここには来ていないバーログにとっては苦笑せざる負えないことだろうと思う。なんせ食料の調達やお金の管理、また地球の偵察をしに行く仕事もある中で仕事がさらに増えるのだから。
と、そこでリンドはちょっとした案を思いついた。
最近はシイラさんの勉強も監督をしていればよくなってきていて、付きっ切りで見てやる必要もなくなったのだ。つまり時間には余裕がある。手伝うことくらいはできるだろう。
そんなことを考えているうちにカルタナはいつの間にかお冷を二つトレーに乗せて持ってきた。シイラも気が付くといつもの自分の席に座っている。リンドは少し微笑むとシイラの左隣に座った。
シイラが笑顔で話しかけてくる。
「リンド先生!今日はカルタナさん、ハンバーグというものを作ってくれるんですって!リンド先生は食べた事ありますか?」
その問いにリンドは少し首を傾げて…しばらくして諦めたように肩をすくめた。
「残念ですが、ここ数年はハンバーグを食べていません。何しろ作る過程がややこしいのですから、作るのに相当の理由か上機嫌の時にしかカルタナは作らないのです」
苦笑気味にそう言ってのけると何となく想像できたのだろう、シイラもカルタナがいないことを確認して苦笑した。しかし口を突いて出た言葉は否定的ではなかった。
「料理の腕は一流ですし優しい方です、きっと自由に生きているんだと私は解釈しています」
シイラは断言するように言ってのける。その姿が真剣そのもので、リンドはさらに不安を感じた。このままで本当にちきゅうへ送り出しても良いのか、とまた自分の中で討論が始まりそうになったのを必死に抑える。シイラは視線は遠くに向けたまま、独り言をつぶやく。
「早く来ないかなあ…」
そういう時に年相応の表情を見せるのがシイラの可愛いところだ。リンドはまた諦めの籠った口調で言う。
「シイラさん、少し真剣な話をしましょう」
微笑みながらそう言うとシイラはゆっくりとこちらを向いた。その目は縋るような期待するようなそんな思いを纏っていた。恐らくカルタナはまだ戻ってこないだろう。深呼吸してからリンドはシイラに言う。
「シイラさん、そろそろ地理も完璧となってきました。そこで、来た当時に話していた校外学習を行おうと思います」
ゆっくりとそう伝えていく内に、シイラの表情が見る見るうちに変わっていくのが目に見えて分かった。顔を真っ赤にして口をパクパクと動かしているが、言葉になっていない。リンドは苦笑した。
「シイラさん、一旦落ち着きましょう?せっかく淑女として申し分ない立ち振る舞いが出来ているというのに、勿体無いですよ」
指摘されてようやく少し冷静になれたようだ。一旦落ち着こうと両手を頬にあてると目を閉じて何度か深呼吸を繰り返した。だんだんと落ち着いてきたようで、真っ赤になっていた顔はいつもの色白な可愛らしい顔に戻っていく。
「落ち着きましたか?」
優しくそう問いかけると、シイラはようやく目を開けた。しばらく目を閉じていたせいだろうか、少し潤いが戻った目はキラキラと光を反射して輝いているように見えた。…いや、実際に輝いていたのかもしれない。シイラは徐に口を開く。
「夢、でも見ているのかしら…信じられないです。リンド先生、これは現実なのですか?」
まだ夢を見ているような表情でそう質問してくるシイラは、とてもまだ九歳とは思えない程しっかりしていた。リンドはまたちゃんと伝え直す。
「シイラさん、安心なさい。これは紛れもない現実の事ですよ」
そこで初めてシイラは満面の笑みを見せーーーーるかと思われた。しかし違った。
「し、シイラさん?」
思わず動揺して声が震えてしまったのだが、仕方がないと思う。シイラは口元に笑みを浮かべながらぽろぽろと涙を流していたのだ。あまりに静かで美しい光景にリンドは目を奪われた。シイラはゆっくりと目を閉じると軽く涙を拭う。目の下に涙の跡が出来てしまったが、気にすせずにシイラは言った。
「不思議ですね、嬉しくてたまらないはずなのに、涙が止まらず溢れてきます」
そこでカルタナが奥の部屋からトレーに水を乗せて戻ってきた。
「おや?シイラちゃん!?どうかしたのかい!?」
そう言って焦ったように立ち止まってシイラとリンドを交互に見つめるカルタナにシイラは涙を拭いつつ苦笑しながら言った。
「大丈夫です。嬉し過ぎて思わず…」
その言葉から状況を察したのだろう。カルタナはホッとしたように微笑むと水を二人の前において「もう少し待ってておくれ」といって再び戻っていく。これもシイラが来てから見慣れた光景となった。前はギスギスした雰囲気の中で緊張と警戒を解く事無くさっさと食事を終わらせていたこともあったというのに、ずいぶんと変わったものだとリンドは物思いにふけった。
シイラは一口水を飲むとリンドに問いかける。
「リンドさん、それで…地球に行くのはいつですか?」
そわそわしながらそういったシイラの頬は緩んでいる。リンドは気付かないふりをしながら答えた。
「今日の進度を見てそろそろと思っただけですので、バーログと話し合いを行ってからとなりますね」
「ではこの後話し合いを行う予定ですか?」
ワクワクしながらシイラはすぐに聞いてくる。よほど楽しみにしていたのだろうが、正直そこまで行きたいとなる理由がわからずリンドは首を傾げた。
「それほど行きたがる理由が少々理解できていませんが…そうですね、数日後くらいを目安に考えておいてください」
「ではその時までに妾が直接魔術というものを教えてやろう」
唐突に後ろから勝気な笑顔の紅が声をかけてきて、シイラもリンドすらも飛び上がる程に驚いた。これも日常的ではあるが確実に驚かしに来ていると皆知っている。シイラが苦笑しながら振り返った。
「ごきげんよう、紅様。お食事にいらしたのですか?」
珍しいのは食堂にいることだ。紅は滅多に食事をとらないのだから。それこそ食事をしなくてもこの人は消えることがない。紅はちょっと照れながら答えた。
「ああ…ハンバーグだと聞いてな、もうずっと食べていない料理だったもので食べたくなってしまったのだ」
そして本題だ、と言わんばかりにリンドの方へと視線を移す。リンドは軽く目を伏せると「ごきげんよう」と言って話し始めた。
「そろそろ地球へ訪問する日を決めようかと考えていたところですわ。バーログももう少ししたらここへ来ることでしょうし」
紅はいつどこにいても大体話を聞いていたりするが、こういう報告をすることは義務付けられているのだ。理由は大体わかる事だが。紅は満足したように口角を上げると目を閉じた。魔力がほんの少し漏れ出しているのがわかる。恐らくバーログの居場所を探しているのだろう。
再び目を開いたときにはまた無表情に戻っていた。
「もうすぐそこまで来ているようだぞ」
そして出入り口を見ると、ガチャッという扉が開かれる音が響いた。
「…やはり紅様でしたか、およそシイラお嬢さんの校外学習の事かと考えておりましたよ」
あたりですか?と悪戯っ子のような笑みを見せるバーログにリンドは苦笑して見せた。当たっているという意味なのか。シイラはちょっと不思議に思いながら二人のやり取りを見ていた。
「タイミングが良いことに明日は特に何も用がないのですよ。明日にでも行ってしまいましょう。それに行くのは一度きりにならないでしょうから」
少しお出かけするだけです。と続けたバーログはシイラを見て微笑む。それは慈愛に満ちた彼の出身を思い出させるものだった。リンドは何も言わずに黙って作った笑みを張りつけたまま水を飲んだ。冷たい水が喉を通って少し熱を帯びた体を内側から冷やしていくこの感覚が、とても気持ちがいい。
紅が言った。
「ではそろそろ妾からの授業も必要になって来るであろう?リンド、日程を作り直しておいてくれ」
リンドは「かしこまりました」という。元からいくつかある候補の中から現状況にぴったりの日程の物を取り出して当てはめていくだけの事だが、リンドに一任されている仕事である。暇になりそうだったのが無くなって安堵した。
「あ、それから一つ提案なのですが、わたくしもシイラさんについて行ってもよろしいですか?」
リンドは紅にそう言った。いくつか理由があったが、一番はバーログの負担の軽減とシイラの不安を少しでも取り除くためだ。まあシイラに関してはあまり重要視していないのだが。
「構わぬ」
即答する紅にちょっと拍子抜けした。すかさずバーログが声を上げる。
「いくら何でもそれは!!」
焦ったような表情からは心配するような感情が見え隠れしている。地球という場所はとても安全とは言えないからだろうか。バーログの言動にリンドは苦笑した。
「迷惑かけぬようにいたしますから」
紅も笑って楽観的な言葉を放つ。
「何かあったら強制送還させるから安心せい」
紅の命令は基本絶対だ。滅多にされないから忘れがちだがそんなルールがある。バーログは仕方がないな、と言いたげな表情になり重いため息を吐いた。どうやら許可が得られたようだとわかったのか、それまで話についていけていなかったシイラが安堵したように微笑んだ。
まるで天使だなと紅を含めた周りの皆が思う。
そうしてシイラは校外学習と言う名目で地球へ訪問するのであった。
ちなみにハンバーグは全員が揃ってから仲良く美味しく頂いたそうだ。
さて、ついに地球へと向かう日になった。その日はいつもよりかなり早い時間に目を覚ましたシイラはまだ睡眠不足な顔でムクリ、とベッドから身体を起こす。
とても寝ていられなかったのだ。ずっと頑張ってきた努力がようやく報われる、なのにゆっくりと寝ていられるわけがないのだ。とは言え、訪問中に倒れでもしたらそれこそ本末転倒になってしまうのだが、仕方がないと思う。
そんな言い訳を自分のなかでブツブツ言いながら時計を確認した。
ここは時間自体は地球の日本と言う国と同じなので、時計もある。いくら成長しないからと言って時間が流れていないわけではない、とリンドからよく聞かされていた。
時刻は…3時47分。
流石に早すぎる、とシイラは落胆する。リンドから出掛けるのは8時だと言われているのだ。まだあと四時間と少しある。
しかしもう一度眠るには目が冴えてしまって無理なわけで、仕方なくシイラはベッドから抜け出して軽く伸びをする。
そう言えばこの場所のどの部屋にも窓はない。明かりはいつもついているからあまり気にせずに一ヶ月を過ごしてきたわけだが、何故だろうと、初めてシイラは疑問に思った。
「不思議なことはないぞ」
「きゃあ!?」
唐突に後ろから幼い声が聞こえてきて、シイラは思わず叫んでからバッと振り返る。そこには悪戯が成功してさも嬉しそうな紅の姿がある。扉はシイラが先程まで見ていた方向にある筈だし、扉の開く音すらなかったのだ。驚くのも無理ない。
紅はニヤニヤと笑ったまま言った。
「案ずるな、妾はここの神も同然のくらいだぞ?何処にでも出没する」
そしてシイラのいる方へと歩いてくるといつも勉強する為に使っている比較的片付けられていて綺麗な机の上に、ドンッと紅の身長の半分はありそうな、大きくて分厚い本を置いた。
ついさっきまで持っていただろうか?と再び疑問を感じたシイラだったが、なにも言わずに紅のすぐ隣に寄る。
「これは『神の力』と言っても過言ではない魔法の本だ」
紅が徐に口を開いて説明し始めた。
この本はこの次元に留まらずどこの世界でも『神の力』の一部とされる。そしてこれは世界の理に干渉し、実在するものを創造・破壊することが可能になる。また、人の心を読み過去を視ることも、現在の状況から未来を予知することすらも可能になる、万能な本。
しかしそれなりに代償を支払わねばならない。それ相応のもの…つまり寿命や自分を知る者達の、自分の記憶だったり、様々である。
ただし、それは世界の理に干渉し過ぎた場合でのみ。ほんの少し建物を周りに合わせて創造したり、人の心を読む程度なら影響は殆どないと言える。
「本来であればこれは一次元管理者に見せるような、ましてや譲るような物ではないのだが、シイラグレー…其方は神に向いた力を持っている。万が一妾に何かあったときのために託しておく」
紅がそう言って寂しげに笑ったことでシイラには何となく分かった。紅は先程言った何かをしたのか、これからするのかはわからないが。
シイラは何も言わずに視線だけ本へと移す。それに気付いてか否か、紅は言った。
「これは、アルタミトにも言わないでいてくれぬか?…彼女もそろそろ、転生の時期が近付いていることは其方も気付いておろう?」
紅は善くも悪くも身勝手だな、とシイラは軽く肩を竦めた。先程から命令のような断りづらい頼み事ばかりしてくるのだから。しかしシイラは拒否しない。それが自分の使命なのだろうと薄々感じ取ってはいたから。
シイラが何も言わないことを、紅は咎めない。
「…さて、使用方法を教えておこう。実際に使うときは、書かれていることを読めば良い」
そして本の主としての登録をする。これで、使い方を知る事が出来るらしい。しかし主が変わったところで使い方を綺麗サッパリ忘れるわけでもない、と紅は言う。
「それ相応の呪いをその身に受けることにはなるがな」
と。この話を言う辺り、紅もまた禁忌とされそうな呪いをその身体に受けたと言うことだろうか?とシイラは推測する。恐らく紅には心を読まれているだろうが、口に出さないためか何も言ってこない。
シイラは言った。
「この本に相応しい者と成れるよう、努力します…紅様」
最後は何だか声が掠れてしまったが、紅は初めて本物の女神のような優しい本来の笑みを魅せて返してくれた。
「シイラグレー…其方の思うがままに生きると良い」
そしてスッと闇に溶け込んでいった。それから二度と紅に出会うことはなかった。
「さて、もうそろそろ出掛けますが、準備は宜しいかしら?」
7時40分。食堂に荷物を持って7時45分に来るように、と部屋に朝食と言伝てを預かってやってきたペリドットに促されて来ると、すでにリンドもバーログもお茶を飲んで待っていた。これはシイラが寝坊したと言うことになっているのではないだろうか、と内心焦っていたが、そう言うことではないらしい。
リンドが心無しか浮き立った様子で言ってくる。
「朝食を届けさせておいて正解でしたわ。紅様が先程色々話していたせいで朝食を取り忘れるかもしれないと言いに来てくださったものですから、焦ったのですよ」
シイラはそういうことか、と納得した。
確かに本の使い方が頭に刻み込まれるような感覚がずっと続いていたせいで、朝食を取ることを全く考えていなかったのだ。紅はその辺も計算した上でやってきたのか、と思うと、あの時間に目が覚めたことすら操られていたのでは?と想像してしまう。
バーログも言う。
「私のところにもやってきたのですよ」
しかし何があったのかは言わないで笑って「大したことではありませんでしたが」と誤魔化していた。
それが間違っていなかったかと問われると正直シイラにはわからないが、一ヶ月でもここでリンドと関わっていれば嫌でも気付くものだった。
リンドは皆に対して丁寧な物腰だが、紅だけは特別扱いしているのだ。それは尊敬もあるだろうが、信仰に近いのでは?とクリフも言っていた。
そして更にたった一言頼み事をされただけで舞い上がってしまうほど彼女は紅が大好きなのだ。だからこそ紅はシイラやバーログには本当のことを言って消えた。
恐らく他の者にも同じだろう。
一番長い間一緒にいたであろうリンドにだけは傷ついてほしくなかったのかもしれない。
ただ、とシイラは目を伏せる。
紅はちゃんとリンドにも自らの口で言うべきだったと思う。大切な人からの大切なお話は、他人からより本人から聞きたいと思ってしまうのだ。何故自分だけ?と答えのない問題を考え続けなければいけないのだから。
チラッとリンドを見る。
彼女はバーログに楽しそうに「紅様へのお土産は何が良いかしら?」と聞いてバーログを困らせている。バーログも本当の事を言えないがために苦笑しながら時折辛そうに答えていた。
こう言うときリンドは盲目だと思う。
周りが全く見えていないのだ。紅の事しか見えなくなってしまっている。それが良くもあり、悪くもある。今は少々気の毒に思った。
そしてシイラはバーログに貰った銀色に光るシンプルな腕時計をみた。
7時58分。
「リンド先生、バーログ様。そろそろ8時になります」
会話を途切れさせるのは少し申し訳無く思ったが、時間厳守のリンドは文句言えないと思う。案の定二人とも同時にそれぞれ腕時計を確認して一瞬焦りが表情に出た。
リンドが荷物を背負いつつ言う。
「では移動しましょう」
バーログもさっさと立ち上がって廊下へ出た。置いていかれそうな予感がして、慌てて追い掛けると二人は振り返りつつ左に曲がって奥へ奥へと進んでいく。
モニター画面のある部屋と真逆に進んでる、とシイラは思ったその時、目の前に大きくて豪奢な扉が立ち塞がった。
圧倒されそうな大きさでありながら冷気を発しているかのような寒気を感じるその扉にバーログは何か、石のような光るものを扉の中心へ押し当てた。
……ピンッーーーーガコン。
軽く弾けるような音が響いてパッと扉に描かれた線が光ったと思ったら、大きな音をたてて扉が開いた。その先にあったもの。
「魔方…陣?」
シイラは驚きのあまり呟いた。それは紅から託されたあの本の一番後ろから二ページ目に描かれていた魔方陣そのもので、唱える言葉は確か四種類あった筈だった。
一種は自分自身が移動するだけのものーーーラード。
二種は物を移動するためのものーーーペトラ。
三種は自分以外の人を移動させるためのものーーーツェル。
四種は…転生の魔法ーーーラペック・ド・ルーフ。
恐らくバーログは一種から三種までは知っているだろう。それこそ彼が課せられている役目であるから。しかしリンドは知らないと思われる。紅はリンドにあまり大変な役目は与えなかったのではないだろうか?とシイラは思う。
その証拠に瞳を子供のように輝かせながら魔方陣を眺めているのだ。
バーログは眉を寄せてリンドをチラリと見てから言った。
「二人とも乗ってください。着いたらわたくしが行くまで魔方陣のすぐ側に立っていてくださいね」
魔方陣から出てすぐ側にですよ?と確認するように言うと軽く背中を押す。シイラは苦笑した。これはリンドが勝手に動き回らないように保険を掛けているなと分かったからだった。流石のリンドもわかったらしい。こちらも苦笑していた。
バーログはそんな二人の表情を無視して魔方陣にちゃんと乗ったか確認すると少し魔方陣から離れた。
「……ツェル」
三種の言葉をバーログが口にした瞬間目の前に油膜が掛かったような透明な膜ができ、それまで見えていたバーログの姿がグニャリと形を変えた。得たいの知れないものがずっとゆったり蠢いているような光景に思わず気持ち悪くなって口を抑えると、リンドが横から肩を支えてきた。思わず身を委ねるとリンドが聞いてくる。
「大丈夫ですか?」
シイラは今声を出したら不味いな、と思い、頷くだけに留める。と、そんな事をしている内に着いたらしい。目の前の油膜のようなものはスーっと消えていき、ようやく視界がクリアなものとなった。リンドはシイラの肩を支えたまま魔方陣から出るとすぐ側に座るように促す。
魔方陣から少し離れた位置の壁に寄り掛かるように座ると、ようやく辺りを見回せた。
どうやらコンクリートと言うもので作れた壁らしい。魔方陣が真ん中に浮かび上がっていること以外、おかしな所は特になく、奥シイラから見て右側の角の方に簡易扉があるくらいだった。
リンドが隣から持ってきた水筒のコップに冷たい紅茶を入れて差し出してくれた。もちろん無糖である。
「あり、がとう…ございます…」
ようやく声をまともに出すことができ、一安心して冷たい紅茶を飲んだ。割りと、無糖の紅茶であれば普段飲んでいるお茶と殆ど変わらないため飲めるのだ。
ようやく気持ち悪さが消えてきたなと感じた瞬間、魔方陣から油膜のようなものが出て、ドームのように魔方陣のある辺りのみを包み込んだ。
今回は外から見ているため、気持ち悪くはならなかった。
しばらくするとスーっと油膜が変えていき、バーログが現れた。
そして一瞬周りを見回し、シイラが座り込んでリンドに紅茶を貰っているところを視界に入れると苦笑しながら近付いてきた。
「やはり魔方陣で寄ってしまいましたか」
やはり、と言う辺り予想済みだったのかとシイラが感心していると、リンドはちょっと怒ったように眉を寄せた。
「わざとでしょう?」
なんと、リンドがこの場から離れないようにわざと気持ち悪くならない方法を教えなかったのだそう。バーログは苦笑したまま頷いた。
「仕方がないでしょう、リンドは紅様が関わると暴走ぎみになるのですから」
そしてシイラに向き直ると少し身を屈めて聞いた。
「シイラお嬢さん、動けますか?」
シイラは少し考えてから頷いてにっこりと笑う。
「はい、何とか」
その返事に安心したらしくバーログは少し微笑むと腕時計を確認して、リンドに言った。
「今日は地球は平日の…火曜日ですから、人の少ない場所を中心に散歩でもいたしましょうか」
リンドは「ええ、それで構いませんよ」と言った。地球の基礎的な勉強も軽くしていたおかげで何となく理解できたシイラはホッと息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
…大丈夫、問題なく動ける。
「私はもう大丈夫です」
一応二人に声をかけた。立ち上がったところからちゃんと見ていた二人は軽く頷く。バーログが言った。
「では参りましょうか」
扉を出た先は…あの、いつかみた住宅街だった。驚いてバーログを見上げるシイラに気付き、チラリとみて笑った彼はリンドに視線を移して目配せした。リンドはニコニコしながら説明する。
「貴女が初めてあの管理の間に入ったとき、見入っていた映像があったでしょう?アルタミト様がそれを覚えていて、わざわざ出発前にお願いしにきてくださったのですよ」
本当は遊園地でもと思っていたのですが、と言うリンドだったが、何だか誇らしげな雰囲気で、思わずバーログに確認するつもりで視線を戻す。
彼は苦笑しながらこっそり教えてくれた。
「アルタミト様がここまで親のように振る舞えるようになってくれて、教師として見てきたリンドにとっては嬉しくて仕方がないのだと思いますよ」
しかしリンドには聞こえていたらしい。
「そんなことありませんわ」
真っ赤になって否定してきたが、少し口角が上がっているのでシイラは笑った。
場の雰囲気が和んだところでバーログは言う。
「さて、ここ周辺を今日は散歩いたしましょうか。…シイラお嬢さんはいつかのあのお二人を見に行きたいでしょう?」
そんなバーログの言葉に満面の笑みで頷くシイラ。大人二人はそんなシイラをみて微笑むと、歩き出した。
今日は絶好のお散歩日和だった。
「ああ、そう言えばここの近くに小学校や中学校がありましたね。男の子の方なら今は小学校にいるのでは?」
バーログは思い出すように顎にてを当てて目を泳がすとそう言った。リンドはシイラの方を向いて聞く。
「学校と言うものは教えましたが…行ってみますか?」
シイラはもちろん笑顔で頷いた。やはり勉強したとはいえ、実際に見てみないとわからないものも多い。
「では案内いたしましょう」
着いてきてください、と言ったバーログはシイラとリンドより少し前に出て歩き出した。その後ろを着いていきながらシイラは周りをキョロキョロと見回す。
いつもいるあの場所と違って上には天井がなく、空と言う青くて高いものが広がっており、太陽が光を降り注いでいる。正直目が眩みそうな明るさで最初に見たときは目が焼けてしまうのではないかと思ったほどだった。
自然と一言で言っていたものが色々あるんだと目の前の光景が訴えている。それだけで今回の校外学習は意味があったと胸を張って言える、とシイラは考えていた。しかしそれ以上にいつかみたあの二人をちゃんと目視出来るのだ、と知った瞬間本当に嬉しすぎて胸が高鳴った。
…キーンコーンカーンコーン……。
割りと近くから金がなる音が聴こえて、思わずシイラは立ち止まる。それに合わせてリンドとバーログも立ち止まった。
「…これはチャイム。学校で時間を報せるためになるものですよ」
「結構近くから聴こえましたし、そろそろかしら?」
バーログが説明するとワクワクした様子でリンドが問う。シイラもバーログを伺い見ると、バーログは困った生徒を宥めるような口調で言った。
「焦らずとも学校は逃げませんからね」
そしてチャイムと言うものがなり終えると同時に再び歩き出したバーログに続く。
しばらくは人気のない住宅街の細い道ーーーシイラにとっては広い道ーーーをゆっくりと歩いていた。と、急に道が途切れ、ここにしては開けた場所に出た。
「…ぅわぁ……」
「まぁ…」
シイラとリンドは二人揃って感嘆の声をあげ、バーログは懐かしそうに、また眩しそうに目を細めて目の前を眺めている。
そこには大きくて少し古びた、しかし堂々とした四階建ての建物が建っていた。その建物の前には先程よりも大きな道が横切っており、車や自転車、人が忙しなく通っている。住宅街の道より遥かに騒がしく賑やかだ。
そしてその目の前に佇む大きな建物こそ小学校である。そこでは、休み時間と言うものだろうか。シイラと変わらぬ背丈の子供等が屈託のない笑顔を浮かべて無邪気に走り回っては笑いあっていた。そのおかげか、広い道は一層明るさを増している。
シイラは驚きと感動と羨ましさで思考停止してしまい、突っ立ったままその光景を目に焼き付けていた。
「何て賑やかな場所……」
リンドは感動しているのか、赤くなった頬に右手を添えて首をかしげてほぅ…とため息を吐いた。
「珍しく、今日は一段と賑やかです。…それにとても美しい」
バーログも感想を述べるような形で口を開いては周りを見渡している。
通る人通る人が時折物珍しそうに三人を見ているが、特に何も言わず去っていく。三人も周りを気にしない。髪色が異常なのはこの世の中どうにでもなることは皆知っているからだ。
「あら?」
突然リンドが何かに気付いたように声を上げ、バーログはリンドに視線を移す。
「どうかしましたか?」
バーログの問いにリンドは少し周りをキョロキョロと見回すと言った。
「何だか甘くて美味しそうな香りがしたのですが」
お腹がキュルル、という音をたててリンドはちょっと赤くなる。
「お腹が空いてしまいましたわ」
恥ずかしそうに言うリンドにバーログは苦笑する。
「まだ10時になる前ですが…わたくしもお腹が空きました」
腕時計を確認しつつそう言うと、地球で購入したと言うスマートフォンとやらを取りだし何かを打ち込み始める。慣れている手の動きから、常に使っているのだろうと察したリンドは何も言わずにバーログが何か言ってくるのを待つことにした。
二人がそんな会話をしている中、ただ一人、シイラだけは全く別のことを考えていた。
先程からずっと眺めている小学校の校庭。皆が楽しそうにそれぞれ走り回っているところに、たった一人。フェンスと言うものに沿うように植えられている樹の中の一本…比較的大きめのものの下にできた木陰に座って本を読んでいる男の子を見つけたのだ。
そしてそれは、いつかみたあの男の子だった。
本を心底楽しそうに眺める姿は絵になるような美しさで、映像だけではわからなかったものだ。あの時よりは少し背が伸びているだろうか?とか考えながら最初シイラは見ていたのだが、突然クシャッと笑ったのだ。
その笑顔は何だかキラキラしていた。物理的になのかはわからないけど、どこか自分自身に近いものを感じるような光。
ゴクリ、と喉がなったがシイラは気にしない。本当に忘れられない光景だったのだ。
「…シイラさん?どうします?」
突然リンドに話しかけられて飛び上がるほど驚いたが、シイラは何事もなかったかのように笑顔で聞き返す。
「えっと…?」
バーログがニコニコ笑ったまま言った。
「すぐ近くにランチができる場所があるのですが、行きませんか?」
シイラは少し考えて、一瞬だけチラリと先程の男の子へと向ける。変わらず男の子は本を楽しそうに読んでいて、どうせなら会話したいと思っていたのだが、バーログやリンドに教えたくもなかった。
あまり待たせても怪しまれるだろうし、二人は絶対行くつもりだろう。
「行きます!」
笑顔でそう言った。二人は満足そうに頷くと地球について話しながら歩き出した。シイラはそこで一度振り返る。
男の子は変わらずそこにいたが、その時チャイムが無機質な音をたてて鳴り響き、彼はハッと顔を上げると急いで本を閉じて走り去ってしまった。
シイラはしばらく彼が走り去るのを眺めていたが、すぐにリンド達の後を追いかける。
また、何処かで会えるような気がしていた。
その日は結局あの住宅街の周辺を散策しただけで終わった。食事に気を取られてリンドが暴走した為に、かなり時間を使ってしまったからだ。
「あの店の食べ物や紅茶が素晴らしく美味しかったせいです」
とリンドは言い訳していたが、バーログもシイラも苦笑するだけで肯定はしなかった。何よりシイラは食事の時等、上の空状態だったのだから会話内容を殆ど覚えていないのだ。
しかしシイラは仕方がないと思う。あの男の子には他の人間とは違う何かを感じたのは確かだ。直感的、無意識に紅から託された力を使っていたことは、言うまでもない。
それからと言うもの、紅は一向に姿を見せず、リンド以外は特に変わることもなく、そしてシイラは勉強に益々励む日々が続いたのである。
月日は流れ、次元管理の場では地球の時間で約6年が過ぎたある日。ついにリンドは全員を食堂に集めた。ようやく紅の事を聞く覚悟が出来たらしい。
ペリドットが全員に言伝てをしに来てはリンドの様子を話していく為、空気がどんよりと重くなっていく。
シイラもまたペリドットの言伝てを耳に入れ、軽くため息を吐いた。
この6年で様々な事が変わってしまった。
シイラも次元管理者としての基礎知識に加え、地球の知識、そして何より紅から託された本を正しく使うために奔走していた。
そして初めて校外学習へ行ったあの日から丁度一年が経ったとき、使用した無害の魔方陣のせいで…人格が少し変わってしまったのである。
正確には、紅を霊だけでも復活させられないかと試したのだが、霊の一部である人格の部分を半分ほど取り込む結果となってしまったのだ。おかげで口調は紅のものになり、記憶も増えた。
そしてそのせいで皆に紅から神の位置を託されたことがバレてしまい、一応次元管理者としての勉強はしていたが、殆どは神になるための勉強となってしまった。
更に2年が経ったある日アルタミトが転生してしまった。転生すると言う話は一週間前に聞かされたのだが、その前からもうすでに身体に寿命が来ていたらしい。左手が上手く機能せず、段々と崩れ始めているのが隠していてもわかるほどだったからだ。
それを知ってか知らぬか、バーログはすぐに転生の準備に取りかかり始め、カルタナは豪勢な料理の支度をし、クリフはいつも以上に念入りに掃除や雑務をこなす。ペリドットなどアルタミトに付きっきりで仕事をしていたほどだ。リンドだけはシイラの勉強のサポートをしていたが、そのスピードはアップしていた。
リンドはアルタミトがここにきてからずっと教えてきたらしい。だから少しでもアルタミトが安心できるように、とシイラに早く覚えさせようとするのだ。それに気付かないほど幼くもないシイラにはそれについていく他道はなかったと思う。
『シイラには、申し訳無いことをしてしまったわ』
アルタミトが転生する前日の話だ。シイラがいつも通り休憩時間を使ってお見舞いに来ると、アルタミトが本当に申し訳なさそうに眉を寄せてそう言った。それに対しシイラは苦笑してやんわりと否定する。
『申し訳無いことを、等言うな。私はちっとも迷惑を被ってなどいないのだから』
見た目と口調がチグハグだが、ここにいるものにとっては懐かしさも混じる。アルタミトはクスッと笑った。
『本当に、紅様の口調ね』
アルタミトはそう言って座るように視線を動かす。シイラはすぐにアルタミトが身体を預けているベッドのすぐ側の椅子に座った。
アルタミトは比較的元気そうな口調なのだが、身体はあちこちが黒くなり…今にも朽ち果てそうな様子。恐らくもう立ち上がることすら難しいだろう。
アルタミトはシイラが椅子に座るのを確認すると少しだけ近寄って腕を伸ばした。
『あ、アルタミト!?動いたら不味いのではないか?』
焦ってそう言うとアルタミトは苦笑した。
『それは、まぁ…でも最後になるのなら、悔いが残らないようにしたいのよ』
そう言ってシイラの頭へ手を乗せると、ゆっくりと撫でる。いつかのリンドの声が聞こえるかのようだった。
『まるで、子を思う親のよう、だな』
紅の口調でシイラが言うとアルタミトは少し微笑む。
『そのつもりで撫でたのよ…貴女には両親がいないでしょう?』
なら私がその代わりになっても良いのではないかしら?と幸せに満ちた瞳を向けてそう言った。
ドクンッーーーー。
その表情を見た瞬間シイラの心臓が大きく跳び跳ねた。見たこともない母の姿を重ねてしまったせいだろうか、気付けば呟いていた。
『お母…さ、ん』
違うと頭ではわかっているはずなのに、何故かとても苦しくなって目を話せなくて。シイラのその様子と呟きを聞いたアルタミトは、そのまま自分の方にシイラを軽く抱き寄せる。
崩れやすい身体のせいであまり強くは抱き締められないけれど、と残念そうに言ったアルタミトに抱きついたまま、シイラはぽろぽろと熱い滴で頬を濡らしていく。
何も言わずにアルタミトはシイラが泣き止むまでただた優しく撫で続けていた。
そしてシイラが泣き疲れて眠ってしまった後、クリフがシイラを部屋へと運び、バーログによる転生の儀式が行われたらしい。結局、シイラはあの出来事を最後にアルタミトと永遠の別れとなった。
アルタミトが転生してから3年間はリンドと取り込んだ自分の中にいる紅から教えられながら日々勉強に励み、次元管理者として生活していた。
ただ、紅の神としての仕事もあり、ちょくちょく地球への訪問もバーログとしなければならなかったので、紅から託された本に乗っていた分身を造る魔法を使ったりした。
比較的簡単で代償も少ない初期魔法の一部なのだが、使い始めた最初の頃は元に戻るときに異物反応が起きて二日ほど寝込んだりしたほど大変なものだった、とシイラは思っている。
そう言えば、訪問する旅に色々な場所へと向かったりするのは神としての基本であるがため、シイラは地球のありとあらゆる所へ飛び回った。紅曰くただの見回りだから本当に大変なことになっていたら次元管理者の責任になる、と教えられた。
その二つの役職を一人でこなしているシイラはかなりプレッシャーをかけられたものだ。
それでも代わりがいないので仕方なく二つの役職をこなすのがシイラである。
それに、代わりの候補もあがっているのだから。
黄昏時…と呼ばれる昼でも夜でもない時間。シイラは一人、地球の、初めて訪れたあの住宅街の外れにある小さな公園に来ていた。
「俺に何か用?」
ぶっきらぼうに言っているが、特に反発している様子はない。恐らく普段からこんな感じなのだろう。
公園の中には滑り台とベンチが一つだけ。そのベンチには、背が高く制服を着崩した茶髪の高校生が座っていた。シイラは整えもしていない髪を無造作に後ろで結うと、少し離れたところから返事した。
声は少し大きいが、この周りには誰もいないため問題はない。
「其方、次元管理について知っているだろう」
その言葉に一瞬眉を上げる高校生。
「…ああ、あんたが新しく次元管理者になったって言うシイラグレーか。随分無防備にここに来たもんだな」
そもそも次元管理者はあの場を離れちゃいけないんだろ?と続ける。口にしなかったが、何故ここにいる?と続けようとしたのだと思う。シイラは無表情に淡々と説明する。
「私は次元管理者でもあるが、紅様から神の位も託されているのだ。ここには無防備に来るわけがなかろう」
その説明だけで大体理解したらしい。彼はふっと笑みを見せる。見た目に反してホッとしたようなそんな優しい笑みだった。
「それを聞いて安心した。俺が罰せられる所だったからな…んで、わざわざ俺の所に来たってことは、次元管理者候補についてか?」
本当に勘が良い。彼は転生を繰り返す不死鳥の一族からその力を貰い受けた、代々次元管理の場の神に遣えるもの。この者はずっと昔から記憶操作をして様々な事をこなしてきたのだ。それこそ地球で人類が生まれた当時から。
シイラは軽くため息を吐いた。
「其方にある者へ近付くための切っ掛けを作って貰いたい」
その言葉を聞いて目を見張った彼は焦ったように聞いてきた。
「まさか、シイラグレーさんあんた自ら候補を連れてく気か!?」
「本来であれば本人の承諾が必要だが、何分急ぎでな。私の中の紅様がさっさとやれと煩いのだ」
神の位に戻ってしまえば紅様の人格は漸く自由になれるからな、と続けると、呆然とした表情で彼はシイラを見詰めていた。信じられないものを見る目だったが、仕方がない。
「前代未聞だぞ?」
漸く口を開いたかと思えばまだ反論しようとしているようだ。シイラはここにきてから初めてちゃんと命令した。
「これは急ぎの命令であるぞ、背くのか?」
それにハッと我に返った彼は長い長いため息を吐いた。背くつもりはないらしい。
気付けば辺りはもうすぐ闇に飲まれそうなほど暗くなっていた。
彼は立ち上がると困ったように笑って言う。
「んじゃ、俺は今回サポートをすれば良い訳だな?」
シイラは何も言わずに頷く。彼はそれを見てため息を吐くと徐に立ち上がった。
「しばらくはこっちに来れないだろう?それまでに準備しといてやるよ」
一週間後また来てくれ、と最後に言い残すとゆったりとした気だるげな足取りで公園を出て行った。それを見送るように見えなくなるまで見送った後ホッとため息を吐いた。紅が内側から声をかけてきた。
『本当に良いのか?其方の思うとおりに行動しても良いのだぞ?』
そう、この本来であれば許されない行動は全て紅の願いだった。
理由は少し複雑なのだが、紅は本来神と言う立場な故に転生などはない。つまり死ぬという概念すらないのである。ただし次元管理の場では例外で本により知識として与えられ、そして自分自身に使用することも出来てしまう。紅はその力を使い、元々の好奇心旺盛な性格の為か転生をしようと考えたわけだ。
しかしそれは失敗に終わり、結果として体は消滅して魂の一部だけが次元管理の場に彷徨い続けることになってしまった。
シイラは紅を復活させるべく力を使った為にその彷徨える一部を取り込んだにすぎないのだが、紅自身はまだあきらめきれていなかったのだ。そして今は地球というこの場所に転生できるように根回しをしている最中である。
シイラの人生はすでに棒に振られているようなそんな状況に、紅はようやく気が付いたのだろう。初めてシイラに『本当に良いのか』と聞いてきたのだから。しかしそれも今更な話だった。
「今更な話ですよ、私はこの次元管理の場に来れたことで救われたんです。そして何しろここの神であらせられる紅様のお願いですからね。私は紅様のお役に立てればそれでいいのです」
中の紅と話す時はシイラも口調が元に戻る。紅が言葉に詰まったのを感じて、シイラはフッと微笑み、姿は見えない紅に向かって言った。
「紅様が望むのであれば私は、転生のお手伝いでも代わりの神として君臨することも致しますよ」
その言葉に紅は少し間を開けて返事した。
「何もかも本当に世話になってばかりだな…ありがとう」
苦笑するような言い方で、まるで目の前で話しているかのような聴こえ方に少し驚いたが、シイラは気にせず歩き出した。
さて、そろそろ帰ろうか、と呟く紅に合わせるようにシイラは上を見上げる。新たな出会いに高鳴る胸を抑えるように一人ぼっちで輝く月がいつもより揺れて見えた。