第05話『緋い世界 -Scarlet-』
……と、そんなことを考えていたのが、今からおよそ四時間前のこと。
「どうも、シオンくん」
「―――、」
時は放課後。七限に渡る授業を乗り越え、今日も無事に学校が終わった……のだけれど。
教室を出た瞬間、まず眼に入ってきたのは、ニッコリと笑顔を浮かべている、昼に会話を交わした女の人……シア先輩その人だった。
シア先輩は、上品な言葉遣い――いわく、お姫様モード――で僕に話しかけてくる。
「どうしたんですか? そんな信じられないようなもの見る眼して」
「…………いや、なんで居るんですか」
「一緒に帰ろうと思いまして」
「お付きの人は……」
「帰らせました」
「ここ二年生の階なんですけど」
「ここも学校の敷地内ですから問題ないのでは?」
「いや、そうですけど……」
「さぁ帰りましょう!」
「待って! 待ってくださいって!」
視線が、周囲からの視線が痛い……!
「な、なぁシオン……なんで、そうなってるわけ……?」
リオが驚愕の表情を浮かべながら、おそるおそる僕に問い詰めてくる
「り、リオ……これは、その」
「万年堅物真面目のおまえが、どうしてシア先輩に下校の誘いをもらってるんだよぅ!?」
「おまえ、それ褒めてるって思って良いよね?」
前から思ってたけど、こいつ実は僕のことめっちゃ馬鹿にしてる気がする。
「えっと……リオくん? でいいでしょうか?」
「はっ、はい! なんでしょうか!」
「その、君の親友……少し、借りますね? ……いいですか?」
「どうぞ! こんなのでよければ遠慮無く持って行ってください!」
「少しは躊躇ってくれよ!?」
即答である。
「じゃあ、遠慮無く借りていきますね。それでは、行きましょうシオンくん!」
「安心しろシオン! アンジェちゃん達には俺が説明しとくから!」
「え、えぇぇ……」
……こうして。半ば済し崩し的に、僕はシア先輩と放課後を共にすることになった。
……なってしまった。
* * *
「いやぁ。何でシア先輩とシオンがああなってるのかは判んねぇけど、親友として良い仕事した気がするぜ!」
「………ちょっと、リオセンパイ」
「それに、あのシア先輩に名前で呼んで貰えたしな! 役得とはこのこと!」
「聴けっ、この馬鹿センパイ!」
「痛っ!? 誰だ……って、何だエメか。どうした?」
「どうしたじゃないですよ。いったい何ですか、さっきのは?」
「さっきの……ああ、見てたのか。なら話は早い。見たとおりだよ。今日は俺ら三人で下校だ」
「むむ……今朝のことといい、気になりますね。事の委細は明日、先輩に問い詰めるとして……ところでリオセンパイ」
「ん?」
「にやけ顔、気持ち悪いです。引きます。そんなにシア先輩に名前で呼ばれたのが嬉しかったんですか。気持ち悪いです」
「うるせぇよ!? 気持ち悪いって二回も言うな!」
「ふーんだ。……アンジェちゃん? どうかしたの?」
「………………、んで」
「え?」
「なんで……あの人が、今になって、兄さんに……」
* * *
リオと別れたあと、僕と先輩は学外に出ず、未だ学院の敷地内を歩いていた。
「先輩。帰るんじゃないんですか?」
「すぐ帰るのはつまらないでしょ。少し、寄り道しようと思って」
「寄り道って……」
「………いや、かな?」
「………嫌じゃ、ないですけど」
……卑怯だ。そんな上目遣いで言われたら、断ろうにも断り切れない。
どうやら、諦めて付き合う以外選択肢はないらしい。
ここに至って、僕はようやく眼前の王女様に付き合う覚悟を決めた。
「で、どこ行くんです?」
「ふふーん。内緒」
そう、悪戯っぽく笑いながら、先輩は僕の前を歩いて行く。置いて行かれないよう、僕も付いていく。
中庭を突っ切り、教師棟とは反対側の別棟へ。そのまま、棟の一番端にある階段まで歩くと、そこから上へと昇っていく。
二階、三階。歩いた距離が増えるにつれ、減っていく人の数。やがて、周囲に人気は無くなり、僕と先輩の二人だけになる。
(っていうか、ここの階段って……)
「さて、と」
四階へ着く。四階構造である校舎ゆえに、本来ならここで階段は終わる――この階段は、屋上へ続くものではない――のだけれど……未だ、僕の眼前には上階へ続く階段が伸びていた。けれど、昇った先は扉があり、南京錠で固く閉ざされている。
それも当然だ。だって、この階段は――
「ね、シオンくん。高いとこは、好き?」
――時計塔内部へ入るための、階段なのだから。
「嫌いでは、ないですね……」
僕がそう言うと同時、先輩がポケットからあるモノを取り出す。銀色に光るそれは、たぶんあの南京錠を開けるためのもので……
「じゃあ、昇ってみよっか」
またも、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、先輩はそういうのだった。
* * *
――そうして、階段を昇り始めてから、どれくらい経っただろうか。
まるで無限に続いていると錯覚するような螺旋階段。周囲から聞こえてくる、歯車の駆動音。かーん、かーんと。階段を一段昇る度に響く、甲高い音。
そんな、普通に過ごしてたら中々味わえない経験に、少しだけ心が躍る。
「シオンくん、だいじょうぶ?」
「大丈夫ですよ。まだ行けます。先輩こそ、大丈夫ですか?」
「うん。わたしも平気。もう少しで着くから、頑張りましょう」
先輩の、僕を労う声が聞こえてくる。僕はそれに、疲れを悟られないよう返事を返す。
……未だ、先輩の行動の真意も判らないし、なんで先輩が、僕にだけ本当の自分を見せたのかも判らないけど。
きっとこの人が、善意でやっているってことだけは、判る。それだけは――理屈じゃなくても、確信できるから。
だからせめて、この人の好意には応えたい。裏切りたくない。
「……つい、たぁっ!」
しばらくして、螺旋階段を昇りきる。時計盤の裏側に当たるこの部分は、ちょっとした広さがあり、壁に空けられた部分からは斜陽が差し込んでいた。
「シオンくん、こっちこっち」
そこから外を覗けるのだろう。壁際に移動したシア先輩にそう促され、彼女の方へ近付く。
そして――
「――――――……………あ」
――目の前に広がる光景に、言葉を失った。
夕陽に照らされる都市。まるで街そのものが燃えているかのよう。
昼間の蒼穹は既になく、空は緋で染まっている。
どこまでも続く雄大な景色。眼下に広がる無数の建物。歩く人々が、とても小さい。
いつも見ている街なのに、初めて見るかのようで。
「……どう、かな?」
「………綺麗です、すごく」
――その光景が、ひどく神秘的で、美しかった。
「良かった……わたしも、この景色が好きなんだ。だから、シオンくんが気に入ってくれて嬉しい」
「前にも来たことがあるんですか?」
「うん。この学院に入学してすぐくらい、だったかな。初めて来たのは。やっぱり、王女って身分だと色々あってね。そういう鬱憤を晴らすために、気晴らしがしたかったんだ。――そんな時、この時計塔が目に入ってね」
「だから、昇ったと」
「高いところは好きだったから。そう決意したあとは早かったなぁ。南京錠の鍵を一度職員室から拝借して、魔術で鍵の型番をとって複製を作って……」
「―――、」
「? どうしたの、急に黙り込んで」
「………先輩って、実は悪い子なんですね」
今日は驚かされることばかりだ。常識を覆されたというか。
ずっと、気品ある存在だと思っていた人が、実はそのイメージが作られたもので。
けれど本当の彼女は、こんなにも可愛らしくて、意外と行動力があって。
言動の端々に、妙にお姉さんぶるものがあって。
「――そうよ。わたし、悪い子なの。とっても、ね」
その姿は――年相応の少女だった。
「………っ」
急に、頭痛がした。ずきずきと疼く鈍い痛みは、ゆっくりと頭を蝕んでいく。
けど、だからこそ。その痛みに耐えられる。
「――――ねぇ、シオンくん」
「なんですか?」
「変なこと聞くかもしれないけど、心当たりがなかったら答えなくていいんだけど……」
「前置きは良いですから。なんです?」
「その………なにか、思い出さない?」
「――――、っ」
………やっぱり、か。
やっぱり、そうだったのか。
心当たりのない優しさ。彼女が仮面を外してまで、僕に接触してきた理由。
それはきっと、仮面を被る前の彼女を、僕が知っているから。
「シオンくん……?」
だからこそ、先輩は最初から、僕に心を許していた。
「先輩。………少し、驚くかもしれないけど。聞いて貰っていいですか?」
でも僕は、それを知らない。
「……うん。わかった」
「ありがとうございます。……じゃあ、言いますね」
これが意味することはつまり――
「――僕は、子供のときの記憶が、無いんです」
この人は――僕の知らない僕が、知り合った人なんだ。
「…………………………、ぇ?」
「……ごめんなさい。なかなか、言い出せなくて」
先輩の目が、驚愕で見開く。その表情は、なぜか悲愴に満ちていた。
「たぶん、僕とあなたは小さい頃に知り合ってたんですよね。だからあなたは、僕に素顔を見せた。でも僕は、あなたを覚えていなかった」
「どう………して?」
「……昔、何か事故にあったらしくて。そのときより前の記憶が、無いんですよ。十年と少し前くらいの話です」
たぶんその事故が、僕が抱える『欠陥』に繋がっていると僕は思っている。
だが僕は、事故の記憶を覚えていない。――それが、どんな事故だったのかさえも。
そして謎なことに、事故の記録すらも残っていないのだ。
僕が知っているのは『シオン・ミルファクが事故にあった』。ただ、それだけ。
真相は闇の中。記憶を失い欠陥を抱え、僕は今日まで生きてきた。
「十年前………」
「何もかも忘れてるんです。記憶も、想い出も。……唯一、覚えていたのが、自分の名前と家族のことだけ」
シオン・ミルファクという名前と、家族のこと。
覚えていたのは……ただ、それだけだった。
幼馴染みのことだって、僕は忘れていた。彼らと関係を一から修復するのは、時間がかかったけど、それでも元通りに……いや、それ以上のモノになったと僕は思っている。
僕は、幼い頃の僕を識らない。
だから、その時に出逢った人たちのことも……覚えているわけが、なかった。
「――………」
シア先輩は、何も言わない。ずっと下を、向いている。
「記憶が無いから……それが、何だって言うの。そんなもので――わたしの大切なモノを、否定なんかさせない」
「えっ?」
不意に、シア先輩が何か呟いた気がしたけど、よく聞こえなかった。
すると、急にシア先輩が顔を上げた。その顔は、先ほど見せた悲しい顔ではなく、前向きな意志を感じるものだった。
「………シオンくん。確かに、きみの言うとおり、わたし達は小さいときに出逢っている。だから、わたしは君に素の自分を見せた」
「……はい」
「だけど……きみは、記憶を無くしていた」
「っ……はい」
「……でも、わたしの本当の姿、もう知られちゃったから。今のきみに、全部見せて、見られちゃったから――」
そこで言葉を区切って、シア先輩がこっちを向く。
夕焼けに照らされ、穏やかな笑みを浮かべながら、
「――わたしと、友達になってくれないかな?」
そう告げる彼女が、とても綺麗だった。
「とも……だち?」
「そ、友達。……どう、かな?」
「……え、と。その……」
迷う。僕なんかが、彼女と友達になっていいのか。記憶がないと判ったのに、どうして彼女は関わろうとするのか。いろんな考えが過ぎるせいで、答えを躊躇ってしまう。
「……ごめん。急にこんなこと言われても困るよね」
「い、いやっ! そんなんじゃ……ない、です」
「じゃあ……いいの?」
「その……僕なんかで良ければ」
けど……さっき見えた、彼女の悲愴に満ちた顔が、脳裏に浮かんでしまったから。
僕は、不相応にも……そして、僕にとって最善ではない答えを選んでしまう。
「そんなことない! むしろ……ありがとう。わたしのワガママを、受け入れてくれて」
「っ……!」
……だから、その笑顔は反則いんだって。
否応なく、心臓の音が跳ね上がってしまうから。
「あ、照れてる。かわいい」
「照れてないです」
「嘘はだーめ」
「嘘じゃないです。夕日のせいですよ」
そう――きっと、夕日のせいだ。
僕の顔が赤いのも、シア先輩の顔を直視できないのも。
――昔にも、似たようなことがあったのかもしれないなって、思ってしまうのも。
全部夕日が見せる、錯覚だ。
僕は、そう思い込むことにした。