Interlude_Ⅱ『大切なぬくもり -Prayer-』
――立ち向かう少年の姿を見て、イルの心はざわついていた。
「し、おん………」
名前を呼ぶ。彼の名を。
彼は、戦っている。
きっと、怖いはずなのに。きっと、怯えているはずなのに。
それでも――彼は、立ち上がって、立ち向かっている。
自分を助けてくれた彼は。
自分を守ろうとしている。
……思えば、彼は、出逢った時からそうだった。
初めて出逢った時。記憶がなくて取り乱していたイルに対し、シオンは優しく、接してくれた。
そこから先だってそう。
あのひとは、暖かい日常をくれた。
大切なぬくもりを、与えてくれた。
ずっと、ずっと――あのひとは。
守ろうと、してくれていた。
そこには、純粋な……混じりけの無い、祈りがあった。
それは、いまだって、感じている。
だから――――。
「っ……う、あ……ぁ……ひっく………」
痛い、痛いのだ。
自分のせいで、傷付いている彼の姿を見るのが。
きっと、あの男の狙いは自分で。
だから、結局のところ――彼が、傷付いているのは、自分のせいで。
涙が溢れる。痛い、いたい。
本当は、いまだって怖い。
あの男から感じられる覇気が、心に刻まれた恐怖が、イルを縛り付ける。
忘却の彼方から、恐怖の感情だけが、蘇る。
だから怖くて、動けなくて。
「いや………いやぁ………っ」
けれど――シオンを喪うのは、もっと怖かった。
シオンは勇猛果敢に立ち向かっている。その勇気は、決して馬鹿にはできない、称えるべきモノ。
けど、イルですら理解している。
シオン・ミルファクでは、カタストラス・ヘプターに敵わない。
それが、わかっているから――。
「―――、」
……熱い。
手首が、熱い。
いったい、なんで熱いのだろう――そう思い、視線を向ければ、そこには。
「うで、わ……?」
腕に嵌めた金色の腕輪が、淡く、光を放っていた。
熱の発生源は、そこからだ。
まるで、何かを語りかけるように――呼びかけるように。
その腕輪は、脈打つ光を放っていた。
(あなたは――――なに?)
そう、呼びかけてみる。
すると――
――――我は、"祈り"に応えるモノ。
そう、答える声があった。
(いの……り?)
――――然り。しかしあなたは未だ、それを識らない……いいえ、忘れている。
――――ゆえに問いましょう。あなたは……無意識の彼方に仕舞われたモノを、取り出す覚悟があるのかと。
投げかけられた問い。その真意を、イルはハッキリと理解することはできなくて。
けど、いまの彼女にとって重要なのはそこじゃなかった。
大事なのは、ひとつ。
(そうすれば……シオンを、たすけられる?)
――――それもすべて、あなた次第です、イル。
そう告げた声が、イルの後押しとなった。
(――だったら、イルは行くよ)
こくり、と。その声の問いに、肯定した。
……意識が、遠のいていく。
イルを案じるシアたちの声が、耳に届く。
嵌めた腕輪が、熱い。
けど、イルは決めたのだ。
たとえ、何があったとしても……
イルは、選んだから。
そうして――無意識の彼方に仕舞われたモノ。
イル・ドゥ=テヴィエスという少女の、記憶の再生が――始まる。
* * *
――――美しく、静謐に包まれた夜だった。
天には輝く無数の星々。地には咲き誇る花々。
風が吹き、木々が木霊する音が、耳朶に響く。
自然に満たされた場所。そこに、一人の少女と、一人の女性が、座っていた。
「イル様、あなたは上に立つ者として在らねばなりません」
優しく告げられた声を、少女――イルは黙って聞いていた。
――その女性は、とても綺麗だった。
光沢のある黒い髪に、紅宝石のように赤い瞳。容姿端麗という言葉を当てはめるに相応しい。そんな女性だった。
「あなたはまだ幼い。しかし、その身に背負うモノはあまりにも大きい。だからこそ、あなたは『覚悟』を決めねばならないのです」
「かく、ご……?」
「はい。
この国を守護する者としての覚悟。
この国の頂点に立つ者としての覚悟。
この国に住まう民を導く者としての覚悟。
それを背負う決意を、あなたは持たねばなりません」
「どうして……?」
「――それが『光の巫女』たる、あなたの運命であり使命だからです」
運命。使命。
よくわからないことばだ。
「あなたは【獣宝】に選ばれた存在。その時点で、あなたが巫女となる運命は確定した」
「――――、」
腕を見る。そこには金色で彩られた腕輪があった。
黄金、金色の円環。きらきらと光が反射して輝くそれを、とても綺麗だと、イルは感じた。腕輪には何か文字が刻まれてあったけれど、イルには理解することはできなかった。目の前にいる彼女にも聞いたけど、彼女にも判らないらしい。
「あなたが着けておられる腕輪。そして、私の腕にも在るモノ。ソレこそが、この国に古くより伝わる神宝――【獣宝】です」
【獣宝】。この国において『光の巫女』とその『守護者』が持つもの。
【獣宝】によって選出された者達は、有無を言わさずこの身分へ就任する。
――たとえ、齢十の幼い少女であったとしても。
「……私が『炎の守護者』となって数年が経ちます。今までは先代巫女様に仕え、そしてこれからは、あなたに仕えます」
「……フィエナが、イルにつかえる、の?」
「ええ。――……これからは、ただの『家族』じゃ無くなるの」
不意に、彼女――フィエナクス・ヴィオレの口調が、変わる。
それは、際限の無い親しみを込めたモノ。
ひとつ一つの言葉から伝わる、親愛の情。
『守護者』としてのものではなく、ひとりの『家族』として告げる言葉。
「あなたは巫女で、私は守護者。これからは、そういう関係が、私達の間に生まれるの」
そう言ってフィエナは――優しく、微笑んだ。
――フィエナクス・ヴィオレとイル・ドゥ=テヴィエスは、同じ孤児院――『ヴィオレ孤児院』という――の出身であった。
彼女達二人の絆は、何千という時間の集積でつくられたモノだった。
それこそ、フィエナが、イルを赤子の頃から面倒を見ていた頃から、彼女達は共にあった。
ゆえに、彼女達の絆は深く、消えないモノであった。
年も離れている彼女達だったが、そんなことなど一切気にせず、共に日々を過ごしていた。
それは、さながら姉妹のように。
それは確かに、家族そのもので。
血の繋がりなんか関係ない。
互いが互いを、大切に想っていた。
目に入れても痛くないと、そう思えるほどに。
フィエナが『炎の守護者』に選出されてからも、それは変わらなかった。
イルは幼く、ゆえにフィエナが就任した役目が何なのか、よく判っていなかったけれど――それでも、彼女を応援した。
だって、家族だから。
理由なんて、それで充分だった。
そして――月日は流れ、現在。
イルもまた、運命により、フィエナと同じ……いや、それより上の存在となった。
すなわち、『光の巫女』。
霊獣国テヴィエスにおける、最高存在である。
そのため、イルの姓は『ヴィオレ』から『テヴィエス』に変わってしまったけど……そんな些細なことで、彼女達の絆は揺るがなかった。
だが――イルがその役目に就任するにあたり、生じた問題が幾つかあった。
ひとつは、彼女が幼すぎるということ。
イルの年齢はまだ十歳だ。国の頂点に立つというには、あまりにも重いし、大きい。しかしこの問題は、まだどうにかなった。先代巫女が健在である内は、彼女に任せればいいからだ。イルが成長するまでは――【獣宝】や立場はイルのままで――先代が事実上の巫女として在る。そういう妥協と打開案が、テヴィエスの最高議会で出され、可決された。イルも、反対はしなかった。
けれど、もう一つの問題が、どうにも出来なかった。
なぜならソレは、周りの人間は手を出せず、イル自身にしか解決できないコトだったからだ。
「大丈夫よ、イル。【獣宝】はあなたの手にあるけれど、先代様は未だご健在。……先代様も、あなたのことを応援してらっしゃるわ。可能な限り、力になるとも。から、焦らなくてもいい。ゆっくり、【獣宝】のコトを理解していきましょう?」
「…………うん」
そう――現『光の巫女』であるイルは【獣宝】の力を行使することができなかった。
「【獣宝】と契約を交わすことで、『巫女』であるイルと、私達『守護者』は【獣宝】の力の行使……そして、【獣宝】の真の力である、『霊臨』という権能を行使することができる。けど、逆に言えば……契約を交わせなければ、『霊臨』はおろか、【獣宝】の力すら使うことはできない」
否。正確に言えば――【獣宝】との"契約"を交わせないでいたのだ。
通常、【獣宝】を継承した者は、まず初めに【獣宝】と契約を交わす。
その契約を交わすことで初めて、『巫女』ならびに『守護者』は【獣宝】の力を――そして、『霊臨』を行使することができるのだ。
それはフィエナもかつて通った道だった。
しかし、イルはその契約を果たせないままでいた。
その理由が【獣宝】に在るのか、あるいはイル自身にあるのか――未だ判らないまま。
……焦らなくていいと、フィエナは言う。他の三人の守護者も、先代様も、そう言ってくれた。
けど――だからといって、周りの人間のすべてが、ソレを赦してくれるわけではなかった。
自分がどう思われているのか、そのすべてを理解しているわけじゃない。
ただ、善く思われていないことだけは、理解していた。
『才無き光の巫女』――未だ【獣宝】の力を行使できないイルは、周囲の人間から辛辣な評価を受けていた。
――先代巫女の方がよほど良かった。
――【獣宝】はなぜ彼女を選んだのか。
――【獣宝】を扱えぬ彼女にこの国を任せられない。
いろんな声が、耳に、届いた。
まだ、幼い身ではあるけれど、
"自分が悪い"ということだけは、理解できた。
"自分に才能がない"ということも、理解できた。
だから、焦らなくていいと言われても。
この心は、焦燥感に駆られていた。
「っ……ごめんなさい、イル」
「……? どうして、フィエナがあやまるの?」
だって、悪いのは獣宝を使えないイルであって、決してフィエナは悪くない。
なのに、フィエナは……大事な、イルの家族が、涙を流しながら、謝っている。
「……判っているの。私達があなたに期待を押しつけていることを。一部の人間が、あなたを快く思っていないことも理解している。あまりにも無責任で、身勝手で。なのに――ええ、どうしてでしょうね。私達は、それでも……淡い期待を、捨てきることができない」
その呟きは、自己嫌悪に満ちていた。
……フィエナの言葉に、嘘はない。
焦らなくていいと、彼女は告げる一方、心の何処かで、フィエナはイルに期待していたのだ。
どうやっても、捨てきれない期待。
背反する感情。それを、自覚できるからこそ、フィエナは泣きながらイルに謝る。
「……フィエナ、泣かない、で? イル、フィエナが泣いてると、かなしい」
――だけど、イルは、彼女の涙なんて、見たくなかった。
悪いのは自分であって、だからこそ、フィエナに泣いて欲しくなどなかった。
自分が頑張ればいい。
自分が、みんなの期待に応えればいい。
ただ、それだけの話。
――――だってイルは、『光の巫女』だから。
「イル……あなたは本当に、やさしい子ね」
ぎゅっ、と。フィエナが、イルを抱きしめる。
とても、あたたかい。
「約束よ。絶対に、何があっても、私があなたを守る。
お姉ちゃんですもの。――それに、あなたを守ることこそが「炎の守護者」たる私の、役目ですから」
「……んっ。よくわかんないけど、わかった!」
「ふふっ、こーら。わかったフリしないの」
苦笑しながら、フィエナは優しく、イルの頭を撫でる。
思わず、イルは目を細める。
フィエナの掌が暖かくて、心地よくて。
そのぬくもりが、大好きだったから。
イルは、告げるのだ。
「フィエナ、だいすき……」
「ええ……私もよ、イル」
大好きなひと。大好きな家族。
それだけは、きっと、何があっても――変わらないモノだから。
* * *
――――あぁ。その時までは、理解っていたのだ。
優しさの根底にあるモノ。暖かな祈り。
それは――確か、■■■■という気持ちで。
識っている。識っていたはずなのに。
何か、別のモノが、その心を塗りつぶした。
何か、別のモノが、その祈りを覆い隠した。
―――だから、思い出せないのだ。
識っていたはずの、ソレを。
……ゆめが、霞んでいく。
■■■■という気持ちが確かにあって、
■■■という決意を未だ固めきれなかったあの頃の、記憶が。
とおい彼方へ、消えていく。
そして―――――。
光の巫女の運命――その始まりの記憶が、再生まる。




