第02話『邂逅 -The medium-』
――閉じていた瞼を、ゆっくり開く。
「ぁ……っ、う」
けれど、視界に入ってくる眩しい光に耐えきれず、再び目を閉じてしまう。
虹彩が伸縮し、光量を調節する。数秒もすれば普通に目を開けられるようになっていた。
もう一度、ゆっくり、瞼を開く。
ここは――小屋、だろうか。休憩を目的とした場所らしく、簡易的な家具や食用品が置いてあった。どうやら自分は、そこにある寝台に寝かされていたようで、体には薄い布がかけられていた。
体を起こす。靴は……見当たらない。裸足のまま、立ち上がる。足裏に伝わるひんやりとした感触。少し、冷たい。
きょろきょろと、周りを見渡して、外へ繋がる扉を見付けると、そのままドアノブを回し、外へ出る。
「―――」
外に出て、まず目に入ったのは、道を行き交う沢山の人々だった。
街、というコトだけは判る。賑やかに談笑する声や、客を呼び寄せる声。少し遠くの方を見やれば、そこには無数の船が港に碇を下ろし停泊していた。どうやらここは、交易が盛んな街らしい。
「………うみ、だ」
青い海が、眼前に広がっている。太陽の光が反射して、きらきら光っている。
宝石みたいで、とてもきれい。
生臭い、潮風の匂いが、鼻腔を通る。あまり、慣れない匂いだ。
上を見上げる。澄み切った青空には、天上から燦々と地を照らす日輪が。眩しい陽光に、思わず目を細める。
ぽつり、少女は呟く。
「……どこ、なんだろう。ここ」
「お……嬢ちゃん。目ぇ覚ましたのか! おーい、おまえら! あのお嬢ちゃんが目ェ覚ましたぞ!!」
「ぇ……?」
不意に、後ろから声が聞こえた。振り向けば、そこには穏やかな表情をした中年の男性が立っていた。彼の後ろを見れば、数人の男達が船から積み荷を運び下ろしている様子が見えた。
この街に積み荷を運んできたの船乗りなのだろう。額に浮かべた珠のような汗を拭いながら、男性は少女の目線まで膝を折り、話しかけてくる。
「嬢ちゃん。アンタ、海で漂流してたんだぜ? たまたま航海中に通りかかったオレらが居なかったらどうなってたか……」
「ひょう、りゅう……?」
「おうとも。一時はどうなるかと思ったが……元気になって良かったよかった」
ポン、と。少女の頭に手のひらを乗せる船乗り。少し、ゴツゴツとしている。
――船乗りの言葉を、反芻する。
漂流。水に漂い流されること。自分は海で漂流しているところを、眼前の船乗りに助けられたらしい。問題は、なんで自分がそうなっていたのか、というコトで――。
「――――あれ……?」
そこまで考えたところで、少女は、ある違和感に気付く。
「あれ……あれっ?」
そもそも――――自分は、何者だ?
「んで、嬢ちゃん……アンタ、名前は?」
名前………思い出せる。名前は――
「イ、ル……」
イル。それが、名前。
でも、それだけ。たったソレだけしか判らない。
あるべきはずのモノが、見当たらない。
思い出せるはずのモノが、思い出せない。
自分が何者なのか、どうしてこんな場所にいるのか。なんで自分が、海に漂流していたのか――名前以外のすべての記憶が、欠落している。
そして――それ以上に、得体の知れない恐怖が、心の中に巣喰っている。
「あれっ、あれぇ……っ?」
どうして、なんで? なにコレ?
名前以外、なにも思い出せない。判らない。
いやだ――――怖い。
「お、おい……嬢ちゃん、大丈夫かい? 顔、真っ青だぜ」
「ひっ……」
そっと伸ばされた手に、少女は、過剰なまでに反応してしまう。
その手に、少女を脅かそうとする意志はない。彼らが自分を助けてくれたコトも理解している。
けれど、今の少女は……ソレすらも恐怖していた。
「あ、ぅ、あ………ごめん、なさい……っ!」
逃げるように、少女はその場から走り出す。
――自分を呼ぶ声が聞こえる。それを無視して、少女は人の波をかき分け、走る。
そんな少女の姿は、街を歩く人々からすれば、とても奇異に見えたのだろう。無数の視線が、少女へ突き刺さる。その内の何人かは、心配ゆえか、はたまた興味本位ゆえか、少女に手を伸ばそうとした。しかし、それも無視して少女はなお走り続ける。
「いやっ………みないでぇ……っ。こないで……っ」
視線から逃れたいという一心で進み続けた少女は、人混みを抜け、人気の無い薄暗闇の路地裏へと駆け込む。
駆けて、走って、逃げて――――そして。
「きゃっ……!」
「うわっ……!?」
ドン、と。角を曲がった際、正面から誰かとぶつかり、その場へ倒れ込んでしまう。
「あ―――――」
その刹那、少女は、自分に限界が来たことを悟った。
朧気になっていく視界。暗闇へ沈んでいく意識。限界まで張り詰めていた少女の精神は、糸が切れたように、失神への一歩を辿る。
最後の瞬間、少女が見たのは――こちらへ駆け寄ってくる、黒髪の男のひとだった。
* * *
そして訪れた週末。シアと合流するべく、僕は待ち合わせ場所へ向かっていた。
――向かっていた、のだけれど。
「いってて…………」
何となく、ショートカットしようと、路地裏を進み、角を曲がった際、思い切り誰かとぶつかってしまう。
「っ、大丈夫ですか!?」
ぶつかってしまった相手へ声をかける。けれど、返事はない。一気に不安が加速した僕は、急いで相手の元へと駆け寄り、その姿を視界に映す。
「女の子……?」
小さな女の子だった。年齢は……たぶん、十歳か、それくらいじゃないだろうか? 肩口まで伸ばされた黒髪が、幼さを助長している。
「って、それよりも――っ」
そっと、彼女の状態を確認する。
……どうやら、気絶しているだけみたいだ。その事実に、ひとまず安心した僕は、少女の姿を、もう一度視界に映す。
一見すると、何処にでも居そうな小さな女の子。
しかし、おかしな点がいくつかあった。
まず、身なり。ボサボサに乱れ、傷んでいる黒髪に、荒れきった肌。先ほど、体に触れた時に感じたが、どうやら体温も少し下がっているみたいだった。
そして、服装。浅葱色に染め上げられた衣服。元は上質な布で作られた服だったのだろう。触っただけで、素人でもコレが上等な部類だということが判る。しかし、いま少女が着ている服は破れたり、解れたりして、ぼろぼろになっていた。
(それに……この服は)
シーベールでは全く見ない形状の服。それどころか、他の二国でも見かけないだろう。
僕が知る限り、この形状の衣服を着る国は、ひとつしかない。
霊獣国テヴィエス――かの国に暮らす人々が着る衣服。確か名前は……『着物』だったか。
(ということは、この子はテヴィエスの人間――?)
正確なところは判らない。
そもそも、なんで、こんな小さな女の子が……そんな疑問が頭の中に浮かぶ。けど今は、この女の子をどうにかするのが先だろう。
僕は、着ていた上着を脱ぎ、少女の肩にかける。そして、優しく、彼女を背負う。
……とても軽い。子供って、こんなに軽かったのか。
ちょっとだけ、僕は自分が成長してしまった事実に対し、時の流れを感じてしまった。
――昔のことを覚えていたら、また違った感じ方をしたんだろうか。
つい、そんなことまで考えてしまう。
……変な感傷に浸るのは良くない。それに、これは考えても仕方の無いことだ。
記憶が無くとも、僕がシオン・ミルファクであることに変わりはないのだから。
「…………とりあえず」
シアに何て説明しようか――それを考えながら、僕は再び歩き出した。




