Prologue『逃亡。昏い闇の果て -In The Dark-』
すべての命に在る、小さく、暖かい祈り
あなたの魂にもある、光のような優しい祈り
いずれ、きっと、わかる時が来るけれど
いまはまだ、ゆりかごのなか
―――――昏い闇の中を、少女は走っていた。
木々が立ち並ぶ森。夜に染まったその場所に光は無い。暗闇の中を、少女は駆け抜ける。
肩口まで伸ばされた、黒い髪の少女。年の頃は十くらいだろう。それゆえに、幼い少女がこの場にいる光景は端的に言って異様だった。
既に限界を通り過ぎた足は、痛みを何処かへ置き去りにしてしまっている。息も絶え絶えになりながら、それでも少女は走ることをやめない。
止めた瞬間、少女は、終わってしまうから。
「はぁ、はぁッ、ハァッ――」
彼女の脳裏に浮かぶのは、ある光景。
『――イル様、お逃げくださいッ! はやくッ!』
そう言ったあのひとの姿が、脳に焼き付いている。
そして――赤く、紅い血が、そのひとの体から流れ出した光景も。
「~~~~~~~ッ!!!!」
瞬間、込み上げる吐き気。全身を襲う恐怖。それを無理矢理抑えつけ、少女は走る。
不意に、視界が歪んだ。それが、自分の眼から溢れる涙だと気付くのに、数秒かかった。
(フィエナ……フィエナぁ……っ)
心の中で、名を呼ぶ。
大事なひとの、名を。
「ぁ――ッ」
不意に、ガッ、と。木の根元に足を引っかけてしまい、思い切り倒れ込む。
「う、ぁ………っ」
全身に伝わる鈍い痛み。口の中に砂が入ったのだろう。じゃりじゃりと、嫌な感覚が腔内を走る。
「や……だめ。いか、なきゃぁ……」
止まるわけには行かない。止まったら、終わってしまう。
終わってしまったら――――あのひとの犠牲に、意味がなくなってしまう。
だから、行かねばならない。判っている。なのに――
「どうしてぇ……動かないのぉ……っ」
まるで石にでもなったかのように、自分の身体が言うことを聞いてくれない。
「うごいて……うごいてぇ……!」
何度も、何度も。自らの足を叱咤する。
もう一度動きさえすれば、後はどうとでもなるから。だから動いて――そう、祈っていた瞬間。
「――――ようやく追いついたぞ『光の巫女』よ」
聞きたくなかった声が、耳朶に響く。
「――――――、」
引き攣った声が、喉の奥から漏れ出る。
恐る恐る、振り返る。そこには、二人の男が立っていた。
一人は、蒼髪の長身の男。視線だけで人を殺せるのではないかと錯覚するほどの鋭い目付き。整った顔立ちであるのに、目付きがそれを台無しにしている。長身ゆえに、少女を見下ろす形となっている今の状態では、その鋭さが増している。
もう一人は、まだ少年の雰囲気を残した、緑髪の男。にこにこと、人の良い笑みを浮かべ、柔らかい印象を与える。だが、この状況下においては、その笑みは些か異常であった。
特徴的だったのは、両者とも、白い祭服と黒のストールを身に付けているというコトだった。
黒い闇の中で、白く、その存在を示していた彼らは、まるで亡霊のように見えた。
「もー、やっと見付けた。最近のちびっこって、こんなに足速いの?」
陽気な声で、緑髪の男が告げる。声自体は、明るいモノ。けれど、何故か、得体の知れない不気味さを、少女は本能で感じ取った。
まるで、わざと明るく振る舞うことで、本性を隠しているような――そんな気がしたから。
「知らん。貴様は何処に行っても煩いな。……それより、早く使命を果たすぞ」
緑髪の男をいなしながら、蒼髪の男は少女の方へ足を進める。
――少女の視界に、何かが映る。
男の着ている白の祭服。その純白を染め上げるように、真っ赤なナニカが、べっとりと付いていた。
たぶん、それは、少女の脳裏に焼き付いているモノと同じもので――――
「まったく……あの女、手間を取らせてくれる。だが、いくら巫女を逃がすためとは言え、自らを犠牲にする……その献身だけは、認めざるを得ないな。さすがは、『守護者』と言うべきか」
告げられた事実に、少女の心は一瞬で凍り付く。
「や、ぁ……いやぁ……っ。いやあああああああああああああああッッッ!!!!!!」
――抑えていた感情が、少女を支配する。
ざく、ざく。恐怖という感情が刃物となって、少女の心を切り刻む。
消えないように。
取れないように。
深く、その心に、刻み込んでいる。
怖い、恐い。目の前に立っている敵から今すぐ逃げろと、本能が告げている。
それが原動力となって、少女の体は再び動きだす。
「ッ、逃がすか!」
当然、男が少女を逃がすはずもなく、彼は少女を捕まえんと後を追う。
「はぁ、ッ。は――ッ!」
必死に走りながら、少女は涙を流す。
(ごめんなさい、ごめんなさい……っ)
少女を護った、大事なひとに謝りながら、彼女は涙を流し、走り続ける。
走って、走って、走って――――そして。
「………………………、ぁ」
逃亡の終わりを告げる場所に、少女は辿り着く。
深い森を抜けた先にあったのは、断崖絶壁だった。崖の先に広がる海を、月明かりが照らしている。
――終わりだった。自然が作りし行き止まりに、少女はどうすることもできない。
…………ぴちょん。冷たい雫が、頬を打った。
最初は弱々しかったそれは、やがて強い雨脚へと変わる。ザァザァと地を打ち付ける水の音。一気に体は冷えていき、体温を奪っていく。
とても冷たい、雨のなか。少女は絶望に、感情を支配されていく。
ザッ、と。地を蹴る音が耳に届く。振り向けば、そこにはあの蒼髪の男が、苛ついた顔をしながら立っていた。
「また、ちょこまかと逃げてくれたな……加えて、この闇だ。おかげで、魔術を撃とうにも撃てなかった。……いや、案外それはおまえが持つ唯一の幸運だったのかもしれないな。――だが、それもここで終わりだ」
そう言って、男は少女に近付く。それに反するように、少女は後退る。
だが、後ろにあるのは崖。ゆえに少女の後退は、すぐに終わりを迎えた。
「……こんな年端もいかぬ子供が、次代の巫女とはな。運命とは因果なものだ」
不意に、男が口を開く。その顔からは、何を考えているのか読めない。
ただ――――今まで行動に、そしてこれからの行動に、何の躊躇いもないということだけは、判った。
それが、狂気に満ちているということも。
「――恨むならこの世界を恨めよ、『光の巫女』。才無き身でありながら巫女に選ばれたこと。そしてここで我らに囚われること。それこそが『アジェンダ』に記された使命であり――おまえの運命だったのだ」
そして、審判を告げるように――男は、少女にそう言った。
「っ……あ」
いま、少女の心に巣喰っているのは、罪の意識と恐怖だった。
自分のせいで、大事なひとを失ってしまったコトへの罪悪感と――これから、自分がどうなるか判らないことへの、恐怖。
負の感情が、少女の心を塗り潰す。
黒く、昏く。精神を侵していく。
震え戦慄く少女の心。あまりにも幼すぎる彼女の精神は、耐えきることができない。
際限なく膨れあがるソレに耐えきれなくなり、思わず少女は―――
「―――――――――………………あ」
一歩、後退ってしまった。
踏み出した足は地へ着かず、虚空を踏み抜く。
ゆえに当然の帰結として、少女は昏き海へ落下していく。
「なに――ッ!?」
突然の事態に、男は対処できず、落下する少女を見ることしかできなかった。
「―――――――――」
逆さになっていく景色を視界に映しながら、少女は思う。
(イルが……イルが、未熟なせいだから。イルが、弱いから―――こんなことになっちゃったんだ)
幼き少女は、ただ延々と、自らを責め続ける。
こうなったのはすべて自分のせい。ならば罰を受けねばならない。
近付いてくる水面。あと数秒もしないうちに、あの中へ飛び込む。
……そっと、空へ手を伸ばした。
誰も、この手を掴んでくれるひとなんて居ないと、判っているのに。
絶対に、己を救ってくれるひとなんて居ないと、理解しているのに。
諦めきれない心が、どこかにあった。
そして――
「………………ごめん、なさ――――」
「い」と、最後まで言い切る前に。
『光の巫女』と呼ばれた少女は――昏き海の中へ、堕ちていった。




