Prologue_B『ある冬の日の、離別 -a separation-』
――――どうして、こんなことになったのだろう。
「――オ、ラァッ!!」
向かってくる拳を、躱す。躱す。
気付けば僕の体はボロボロで、擦り傷がいくつもできている。傷の中には殴られたことで生まれた痣もあり、青紫の色が痛々しい。
痛みは消えず、未だ体を蝕む。気を失わないのはこの痛みゆえか。しかしそんなこと、どうでもいい。
躱すという動作を繰り返すのはこれで何度目だろう。それに対して僕は何回、目の前の人物に攻撃することができただろうか。
「がッ……は、っ」
――答えはゼロ。僕は彼に拳を振るうことはできていない――できない。
少年の拳が、左頬に入る。走る鈍痛。飛びかける意識。それを、何とかつなぎ止める。気を抜くことは絶対に許されない。
魔術は使っていない。あくまで僕と彼は己の拳のみで闘っている。学院の校則違反になるというのもあるが、魔術を使わない本当の理由はそこじゃないということを、僕は理解している。
彼は僕に合わせている。だから、魔術を使わない。それだけだ。
「う、ああああああッッッッ!!」
だけど、このままやられっぱなしでいるわけにもいかない。体を奮い立たせて右の拳を固く握り、そして振るう。しかし僕は、あいにく喧嘩なんてしたことがなく、どうしても不格好なパンチになってしまう。当然、それは難なく躱されてしまうわけで。
「甘いんだよッ!」
「か――はっ」
彼が躱すと同時、振るわれる拳。容赦の無い一撃が、僕の鳩尾に突き刺さる。一瞬だけ止まる呼吸。その後すぐにやってくる痛み。痛い。とんでもなく痛い。
あまりの痛みに立っていられず、思わず路上に前から倒れ込んでしまう。
「ぅ、あ……はッ」
そのまま仰向けに寝転んで、呼吸を落ち着かせようとする。
閉じていた目を開けば、空は曇天で、鉛色。
頬に冷たい感触が伝う――雪だ。
周りには誰も人がいない。雪が降る寒い冬空の下、閑散とした通りで、僕達は二人、殴り合っている。
吐いた息が白い。白の息吹は、空に溶け、消えていく。
ザッ、と。靴が擦れる音が聞こえた。
「立てよ。まだ終わってねェだろうが」
不意に、その言葉が耳に届く。視線を声の主の方に向ければ、そこには一人の少年が立っていた。
雪のように白い髪を、一房だけ後ろでまとめている髪型。目付きの悪い、薄い藍色をした双眸が、こちらをジッと見つめている。
「そんなモンかよ。おまえの根性ってやつは。ああならば――おまえはその程度ってことだ」
「くっ……あああああああッッッ!!」
簡単な挑発だということは理解している。けど、乗らずにはいられなかった。
ここで負けたら何かが終わると――それが何かは判らないけど――確信しているから。
未だ痛む脇腹を気力だけで押さえつけながら、再度拳を固く握る。先ほどの動作から至らない点を思い出し、修正する。
だけど――この拳は、届かない。
「おまえを……殴れるわけ、ないだろ……っ!」
目の前の人間を殴ることなんて、僕にはできなかった。
「ああ……甘いな、おまえは」
刹那、僕の顎を目がけて拳が思い切り振り上げられた。それがアッパーだということに気付いたのは殴られた後だった。
「―――――ぁ、っ」
脳が揺さぶられたせいか、足下が覚束ない。体が上手く動かない。口の中が切れたせいか、血の味が舌を這う。
この一撃は不味い、と本能で理解した。
倒れる。これで二回目だ。さっきと違うのは、もう立ち上がれそうにないということ。
……判っていた。僕じゃ彼に敵わないということくらい。
拳と拳だからじゃない。魔術師である僕だけど、魔術で戦っても彼には絶対勝てない。むしろ、勝算という点で見れば拳と拳のほうがまだあった。けれどそれすらも、勝てなかった。
ならばこの戦いは、紛れもなく僕の敗北ということに他ならない。
……何が原因で、こうなったのだろう。
脳裏に過ぎるのは、取り留めのないそんな思考。二度目の自問に、僕は答えを得ることはできない。
どんなに考えても、この状況を変えることはできないというのに、頭はそればかり考えてしまう。
その原因は己にあるということを判っていながら、僕はそこから目を逸らす。
「――止まり続けるのが、そんなにいいか。進まなきゃ変わんねぇってことくらい、判るだろ」
だから、彼の氷のように冷たい言葉も、聞こえていても理解することはできなくて、
「じゃあな――ミルファク」
だから僕は、遠ざかっていく彼の背中を、ただ見つめることしかできない。
「……ロー……ト……」
小さく呟いた彼の名は、吹いた風にさらわれ、雪空に消えていく。
暗闇に染まっていく視界。地の底に落ちていくような浮遊感。
彼の言葉が脳内でぐるぐる回って、廻る。
けれども愚かな僕は、それを理解しようとはしない。
停滞を望んだ。進むことを拒んだ。夢を諦めた。
ゆえに、この日の出来事は偶然などではなく、きっと運命だったのだろう。
寒い寒い、とある冬の日。
――――それは、僕と彼が離別した日だった。