Interlude_Ⅰ『雪花 -Lot Niveus.-』
――その少年は、ある日、すべてを喪った。
少年は、シーべールの北部に存在した、とある村に暮らしていた。
その村は何の変哲のない、どこにでもあるような小さな村だった。人口は一〇〇に満たない村ではあったが、住人はみな優しく、互いに手を取り合い、助け合いながら、日々生きていた。
少年と呼ぶにはまだまだ幼すぎた彼は、まだ世界を知らず、こんな日々がいつまでも続くのだと思っていた。
しかし、そんな彼の幻想は、儚くも崩れ去ることになる。
今から十二年前。少年が、齢にして五歳の時。
その小さな村は、ある組織によって一夜にして滅んだ。
星へ理想を掲げる非道の衆。天上楽土へ召されんがため、外れた道を歩く狂信者。
『天辰理想教』――彼の組織の手により、その村は滅んだ。
村人は死に絶え、其処は生命在らぬ不毛の地となった。
始まりは唐突で、終わりは一瞬。
寒い寒い冬の日の、出来事だった。
一夜にして滅びた村――そんな中で、少年はただ独り、生き残った。
しかし、少年は衰弱しきっており、とても自力では生き延びれる状態ではなかった。
――ああ、死ぬのか、俺。
そう覚悟した。己の人生はここで終わるのだと。
だが、彼の運命はここで終わらなかった。
『――大丈夫かい、少年?』
あの日、そう投げかけられた声を、少年は忘れることなく覚えている。
『――俺はグレン・ミルファク。安心してくれ、今から君を救う』
死を待つだけだった少年を救った――ひとりの、英雄を。
かくして、少年は命を救われた。
そして少年は、自分を救った英雄に願った。
――力をくれ、と。
貴方のような人間になるための、力をくれと。
少年は、男に憧憬を抱いたのだ。
その魔術師は、彼の願いを聞き入れた。
正真正銘、掛け値無しに英雄であったその男は、少年を弟子として迎え入れた。
それから、十二年。少年は研鑽を重ねてきた。
誰よりも強く、速かった師のように。
先達を知らず、ただ愚直に、ただひたすらに速さを突き詰め、固有詠唱を会得するに至るまでの強さを得た。
紛れもなく、天才であった少年は、英雄が没してもなお、少年は憧憬へ至る道を歩み続けてきた。
それが少年――ロート・ニヴェウスが生きてきた、それまでの人生だった。
* * *
――学院内のとあるベンチ。そこロートは一人、腰掛けていた。
何をするわけでもなく、ただジッと、そこから見える景色を眺めていた。
落陽に照らされていた街は、静かにその色を闇に染めていっている。あと数分もしないうちに、夜の帳が落ちるだろう。
時間が遅いこともあるのだろう。周囲に人気はなく、静謐で保たれている。
「―――、」
それが、まるで世界に独りぼっちであるかのような錯覚が、一瞬だけしたから。
あの日の出来事が、記憶の底から顔を覗かせた。
目を閉じれば、今でも思い返せる。
真白の雪原で、慟哭を上げた、あの日のことを。
「『天辰理想教』………」
ギリッ、と。奥歯を噛みしめる。無意識の内に、拳を固く握りしめる。
思い出す。忌まわしき記憶。底へ封じた己が原初の記憶を。
――血で紅く染まった雪を覚えている。
――其処彼処に転がっていた屍人達を覚えている。
――焼かれ、刺され、潰され。愛した人々が惨殺された光景を覚えている。
あの地獄を、己は決して忘れない。
あの組織を、己は決して許さない。
「――けど、今はそんなことはどうだっていい」
忘れない。そして、決して許しはしないが――今は、関係ないことだ。
今、考えるべきことは、己が親友のこと。
己が憧憬である英雄の――息子のこと。
「……あー、くそっ」
小さく、悪態を吐く。
「くそっ。もっと言い方ってモンがあるじゃねぇかよ……」
もっとも、悪態を吐いていた相手は、自分自身だったのだが。
「もー……この性格どうにかしてぇ」
「いやいや。それはお前らしくていいと思うぞ、ロート」
不意に、横から声をかけられる。声のした方を向けば、そこには長身の、灰髪の青年が笑いながら立っていた。
「……なんだ、先生か」
「なんだ、とは失礼だな。これでもお前らの担任なんだぞ」
オルフェ・ウルフェン――彼の担任であり、先程まで模擬魔術戦の立会人をしていた人物だった。
「……で、何の用ですか」
「うん? まぁ、なんだ。担任らしく、おまえらがさっきの戦いを経てどう感じたか、聞こうと思ってな。……もっとも、片方の役目は取られちゃったんだが」
「取られたって……誰です? アンジェ?」
「いいや。……驚くなよ? なんと、シア王女だ」
「―――、」
「ったく……あの二人、いつの間に仲良くなったんだか。これもまた、運命なんかねぇ」
「……たぶん、そうですよ。なるべくして、そうなったんだ」
「ふぅん………。――なぁ、ロート」
「なんすか?」
「お前さ、実はシオンのこと励まそうとしてただろ?」
「っ……」
「今回の模擬魔術戦、単にシオンを貶すのが目的じゃなく、『欠陥』を抱えてるシオンを……いや、立ち止まってるシオンの背中を押してやろうと思ったんだろ?」
「――……ま、そりゃわかるか」
「当たり前だ。オレは、おまえらの担任だぞ」
笑みを浮かべながら、オルフェはそう告げる。
(前から思ってたけど、ほんと面倒見いいよな、この人)
おまえらはまだ子供なんだから、大人に頼れ――彼の言動ひとつひとつに、そういう『大人』の雰囲気を感じる。
だからこそ、ロートも安心して彼と話ができる。
「先生の言うとおりですよ。俺は、あいつの背中をぶっ叩くために、今日模擬魔術戦をした」
「…………その理由、聞いてもいいか?」
真剣にロートと向き合ってくれているオルフェだからこそ、包み隠さず話すことができる。
「――俺、昔あいつと会ったことがあるんですよ。小さい頃の……記憶を無くす前の、あいつと」
学院に入学してから、誰にも話さなかった事実を、ロートは打ち明けた。
「初めて会ったのは、今から十一年前くらい。グレンさんに弟子入りして、一年経ったある日……俺とあいつは、出逢ったんです」
それはきっと、グレンの気紛れみたいなものだったのだろう。
兄弟子と、弟弟子。兄弟弟子である二人を、一度会わせてみたいと思うのは、師としては当然のことかもしれない。
「第一印象は……まぁ、最悪でした。俺、そん時まで自分がグレンさんの一番弟子って思ってたんですよ。それが、実は俺の方が後だって判って」
何だコイツは。おまえは誰だ。俺はグレン・ミルファクの弟子だぞ――そう、思ったりしたものだ。
「あいつの方はどうだったか判らないけど、たぶん良い気分じゃなかったでしょうね。何せ、俺があれこれ言ったから」
オルフェは、何も言わない。ただ黙って、ロートの話を聞いている。
「それで、諸々あって……あいつと、魔術戦をしたんです」
「へぇ……で、結果は?」
「――……負けました」
あれが、初めての敗北だった。
目の前が真っ暗になるとはあのことだ。胸を満たしていた自信が喪失し、空っぽになる。敗北しなければ経験できない感覚。
――強い、と。そう思ったのも、初めてだった。
自信を砕かれるというのは、あんな感じだと、幼い時分でも理解できた。
「けど、俺はその敗北を認めたくなくて、だからもう一回、あいつに挑みました。――それで、二回目は、俺が勝ったんです」
どうだ見たか――そう思ったのも束の間で。
「すると今度はシオンの方が、もう一度勝負しろって言ってきて……で、三回目は俺の負け。そこから先は、同じ事の繰り返しで」
「くっ……ははっ! ガキかおまえら」
「ガキだったんですよ。それに、ガキはガキなりにプライドってもんがあったんです」
本当に、今から考えてみれば、ただの意地の張り合いだった。
けど、譲れないモノがあったから、互いに全力を出して戦った。
師であるグレンは、その光景を笑って見ていたのを覚えている。
「結局、お互い最後はぶっ倒れて……決着はつかないまま、最終的な結果は引き分け」
子供の喧嘩の結末は、陳腐でありふれたモノで。
「でも――戦いが終わったあと、俺達は笑い合ってたんです。互いが互いを、認め合ってた」
けれど、その時の自分たちにとっては――最高の結末だった。
互いに認め合う朋友ができた。超えたいと願う好敵手ができた。
これを最高と言わずして、何だというのか。
「だから、俺達は誓ったんです。
――『俺達が成長して、もっと強くなったら、もう一度戦おう。その時こそ、決着をつけよう』って」
握手を交わした。再戦を誓った。
いずれ来る日に胸を躍らせながら、ロートは再び歩き出した。
昔日の誓いを、決して忘れずに。
師が没しても、止まらず歩いた。
ただ、その約束を果たすために――ロートはシオンとの邂逅以降、より研鑽を重ねてきた。
そして、ライナリア魔術学院に入学し、好敵手であり友であるシオンと再会した。
「けど、再会したあいつは、記憶を無くし、進むことをやめていた」
再会した少年は、欠陥を抱え、立ち止まっていた。
「最初は、それでもいいかと思った。記憶を無くしたあいつの背中を、無理矢理押そうとするのは、間違ってる気がしたから」
でも、あの時……彼と離別するに至った、冬の日。
シオンの真実が垣間見えた時の、彼の眼は――
「――まだ憧憬を渇望していた」
なぜなら、その眼を自分はよく識っていたから。
他ならぬ己が――あいつと、同じ眼をしていたから。
「だから、俺があいつの背中を押すって決めた。……その選択が、あいつを苦しめるって判っていても」
それがエゴなのは判ってる。
あの日、言葉足らずで、あいつを傷付けてしまったことも、理解している。
「あの時、シオンが言ったことも、紛れもないあいつの真実なんだと思う。……それでも俺は、あいつの眼を信じたかったから」
――けど、きっと。
「俺が知ってるシオン・ミルファクは、こんなところで止まる人間じゃないから」
あの日戦った少年は、これくらいで終わる器じゃない。
たとえ記憶を失っていたとしても、あの眼をしている限り、シオンはきっと進む。
その果てに、誓いは果たされる。それが確信できる。
その為なら、自ら泥を被ろうと構わない。そう決めたから。
「そして今日、シオンと戦って、背中をぶっ叩いたと」
「半年。シオンが何も進まないようだったら、そうするって決めてましたから」
仮にここで進まなかったとしても、ロートは何度でもシオンに模擬魔術戦をするつもりでいた。
「なるほどね……そこまでの覚悟なら、もうオレから言うことは何もねぇや。影ながら、おまえらを見守ることにするよ」
「ええ、そうしてください。それと、また魔術戦するときは立会人お願いします」
「……ったく。ま、いいけどよ。じゃあ、オレは帰るわ。ロートも遅くならないうちに帰れよ」
「判ってますよ。……――先生!」
「ん?」
「……話をしに来てくれて、ありがとうございました」
「―――、おう。何かあれば、またいつでも来いよ」
そう言って、実に頼もしい彼の担任は、背を向け校門の方へ歩いて行った。
「……、」
座っていたベンチから立ち上がる。夜の帳は既に落ち、辺りは濃い闇で満たされている。
歩き出す。歩きながら、思い返すのは今日の模擬魔術戦。
「這い上がって来いよ、シオン。俺は、待ってるから」
――――雪花がひとつ、信じた友を高みで待っている。




