第09話『その勇気は、小さな一歩となって -One step forward.-』
――其処は暗く、底も昏い。
何も視えない暗闇の中を、ふわふわ漂う。
……古い記憶を視ていた。
それは、僕が今まで目を逸らし続けていたモノ。
僕が、僕で在り続ける為に、背けていたモノ。
――愚かな選択のせいで、大切な友情を失った日の記憶。
あの日も、いつもと変わらない日のことだった。
寒くて、白い、冬の日のことだった。
半年前のあの日、僕達はアルカディアの人間と接触し、そして窮地に陥った。
アルカディアの魔術師に対し、僕は何もできなかった一方、あいつは……ロートは、勇猛果敢に立ち向かおうとした。
斃すべき"悪"に対し、恐れず、相対した。
僕は? ――ただ、視ているだけだった。
戦う術はあった。けど、僕は愚かにも戦わなかった。――いいや、逃げ出したのだ。
理由なんて判っている。
ずっと前から……最初から、気付いていた。
僕が、眼を逸らしていただけで。
学院に入学して、ロートとお互いに親友と呼べる仲になった、その日から――僕は、この感情から、目を背けていたんだ。
黒く淀んだ感情。どろどろと、心に纏わり付くソレは、否定しても否定しきれない。だってそれは、紛れもない僕自身のモノだから。
誰だって感じたことはあるはずだろう。自分より上にいる存在を妬む。人間である以上、避けては通れない感情。それを感じない人間は、間違いなく人間として壊れた存在だ。
醜くて、汚くて、けれど最も人間らしい感情。
――――つまるところ、僕は。
ロートに、嫉妬していたんだ。
ロートは親友だ。だから彼が誇らしいのだし、憧れもする。
けれど、同時に……彼のことを羨み妬む自分が、心の何処かに居た。
欠陥とは違う天才。劣等から遠い優等。
一番近くて、一番遠い存在。
お互い近くにいるからこそ、その差は歴然としていて。
優劣は、火を見るより明らかで。
ああ、だからこそ。僕は時々思っていたんだ。
どうして――僕は、アイツと親友なんだろう、って。
アイツと近くにいるからこそ、感じてしまう疑問。僕が僕である以上、避けられない疑問。
でも僕は、その疑問に蓋をした。黒い感情を底に隠した。
それは、僕とロートの間には、必要無いモノだったから。
そうすれば、僕は、望んだ日々を過ごすことができたから。
けれど……隠していたはずのソレは、あの日、箱から出てきてしまった。
一番触れて欲しくない人間に、蓋を開けられた。
「…………っ」
そこから先のことは、思い出したくもない記憶。
感情に身を任せ、絆を断つに至った、あまりにも愚かな離別の記憶。
あの日、ロートが僕を糾弾したのは、戦わなかったことじゃない。ロートは、それくらいで他人を責める人間じゃないことを僕は知っている。
じゃあ、何故?
それこそ、答えは明らかだった。
――己が真実から逃げようとする、僕を責めたのだ。
僕の真実。それはつまり『前に進もうとしないこと』。
シオン・ミルファクという人間は、欠陥を抱えた魔術師だ。だからこそ、その欠陥を克服するために、そして、憧れた父のような魔術師になるべく、努力を重ねている。
けれど……その努力は、あくまで見せかけだった。
僕は、真の意味で努力をしていなかった。強くなる気が無かった。
欠陥を治すことを、強くなることを――とうに、諦めていたのだ。
それこそが、僕の真実。シオン・ミルファクが眼を逸らし続けていたモノ。
真実から目を背け、ただ流されるがままに日常を過ごしていた僕を――ロートは、許してくれなかった。
そして、僕達は殴り合った。この友情に、皹が入るまで。
離別した、冬の日。あの日こそが、僕達の分岐点。
白く降り積もった雪は、僕達の友情を隠し、冷たくする。
冷たくて、寒くて、凍って――僕の時間は、止まった。
同時に……大切な親友を、失くした。
夢を諦めた。停滞を望んだ。進むことを拒んだ。
憧憬を追うことを―――止めた。
僕は……前に進む人間じゃないから。
『隣で光が輝いてるのに、どうして暗闇の中を進まなくちゃならない……っ?』
僕は、止まったままでいいから。
シオン・ミルファクという魔術師にとって、それまで過ごしてきた日常は、何事にも代え難いモノだった。
欠陥者の己が求めた物は、ただそれだけだった。
だって、あの日常は、僕が自分で得たモノだから。
進まなくていい。今ある幸せを大事にしよう。そう、思ってしまったから。
――だから、この真実は、停滞を望む僕にとって、邪魔ないモノだった。
ゆえに、僕は己が真実に眼を背けた。
臆病者。そう思って貰って構わない。
でも仕方ないだろう?
あの輝きのようになりたいと思えば思うほど、己がどれだけ遠い場所にいるか、思い知ってしまうから。
僕は、あの人のようになれない。僕はアイツのように強く在れない。
それを、誰よりも僕自身が深く理解している。
――臆病な、欠陥者。
つまるところ、僕という人間を形容する言葉は、こういうことだ。
輝きの後ろに在る、小さな影。その光に怯える、弱い影。
嘘を吐いて。自分を偽って。ただひたすらに、逃げ続けて。
そうして出来上がったのが、今のシオン・ミルファク。
愚かで、弱い。欠陥の魔術師。
この世でいちばん嫌いな、魔術師。
「――――、」
目を、閉じる。
何も視えないというのは、まるで海の中にいるようだと、場違いだがそんなことを思ってしまう。
仮にここが海中だというのなら、僕はこのまま底へと沈んでいくのだろうか。
沈んで、沈んで――其処で朽ち果てるだけなのだろうか。
「――?」
不意に、何かを感じた。ゆっくりと、瞼を開く。
光が、見えた。
あの光は、一体何なのだろう。わからないけど、とても暖かい。
その煌めきを知りたくて――僕は、手を伸ばした。でも届かない。
だから……藻掻いた。暗い海の底で、じたばたと藻掻く。
藻掻いて、足掻いて、地上を目指す。
そして見えた光へ、手を伸ばす――届いた。
「――――――あ」
そして、そのまま。
引き上げられるように――僕の意識が、覚醒する。
* * *
「……、……っ、あ」
目を覚ますと、まず視界に入ってきたのは知らない天井だった。
電気は点けていないのか、室内はやけに薄暗い。眼球だけで窓の外へ視線を動かすと、外は夜の帳が降りかかっていた。いつの間にか、夜が訪れつつあるらしい。
「起きた?」
そのまま数秒、天井を見ていると、すぐ傍から声が聞こえてきた。そちらに視線を向けると、優しげな笑みを浮かべた緋色の少女が椅子にちょこんと座っていた。
「シア……せん、ぱい」
「まだ起きちゃダメだよ。保護術式と治癒魔術のおかげで大きな怪我はなくても、小さな怪我はあるんだからね。安静にしてなきゃ」
「ここ……医務室、ですか」
「うん。オルフェ先生が君を運んできてね。たまたま医務室にわたしも来てたから、看病を買って出たの」
「そう……だったんです、か。ごめんなさい、迷惑かけて」
「ぜんぜん。これくらい、大したことないよ」
そう告げるシア先輩の言葉には、優しさが満ちていて。
「っ………」
その優しさが、今の僕には、痛かった。
「ね、シオンくん」
「……なんですか」
「どうして、こうなったの?」
優しいあなたはきっと、踏み込んでくるだろうから。
「――別に、何でもありませんよ。ちょっと、友達と喧嘩しただけで」
「君が喧嘩するってのが、そもそも異常事態なんだよ。君、そんな性格じゃないでしょ」
「……っ」
「ロート・ニヴェウスくんと……だよね。その喧嘩は」
……なんで。
なんで、こんなに鋭いんだ。このひとは。
まだ出逢って少しなのに。
たとえ幼少期に会っていたとしても、きっと、そんなに長い期間いたわけじゃないのに。
どうして、このひとは……僕のことを、こんなにも理解しているのだろう。
「君だからだよ。君じゃなきゃ、ここまでしない」
どうして、このひとは――こんなにも、僕に触れようとするのだろう。
「………先輩に、何が判るって言うんですか」
僕はただ、放っておいて欲しいだけなのに。
ただ日常を過ごせれば、それでいいのに。
「僕は――あなたが知っているシオン・ミルファクじゃない。欠陥を抱えた、劣等にもなりきれない中途半端な魔術師なんだ……。ただの、弱い臆病者なんですよ……っ」
気付けば、声が震えていた。目頭が熱く、鼻の奥がツーンとして、痛い。
「だから……これ以上僕なんかに関わらないで、あなたは元いた場所に戻ってください」
「いやだ」
「っ――どうして……どうして、僕なんかに構うんです? あなたみたいな高い場所にいる人が、底にいる僕なんかに構う必要なんかどこにもない。なのに……どうしてっ」
『友達になろう』――彼女がそう言った日も、こうだった。
彼女は、いつも、触れようとしてくる。
あの日で終わるはずだった僕らの関係は、シア先輩が踏み込んできたせいで未だに続いていた。だからこうして、こんな状況になっているわけで。
断るに断りきれなかった僕の弱さが、いま、僕を苦しめている。
だけど――。
「だって――――わたし、きみの友達だもん。だから、絶対に見捨てたりなんかしない」
「―――――――――――、」
そのひとことで、一瞬だけ、暗い思考が停止する。
「それに……ここで私がやめたら、きみは、また止まっちゃうでしょう? そんなシオンくん、わたしは見たくない」
「………っ。止まることの、何がいけないっていうんですか……」
ああ、また。
「さっき言ったでしょう……あなたが知ってる僕は、今の僕じゃない。……今の僕は、弱いんだ」
また僕は、自分自身を、抑えきれなくなる。
「ずっと、ずっと――直そうって、努力してきた。父さんみたいなすごい魔術師になりたかったから。でも、だめだった。僕ひとりじゃ、どうにもできなかった」
周囲からの期待があったのも、僕を苛ませる原因だったのかもしれない。
英雄の息子――それだけで、周りが期待するのも無理はないだろう。それに応えようとしたのも事実だ。
だが、努力は意味を成さず、僕は欠陥魔術師のままだった。
彼らの憐憫と落胆の視線を、今でも覚えている。
「そんな時……、あいつと出逢った。そしてあいつは――僕の求めた強さと、同じだった」
ロート・ニヴェウス。それは、僕の憧憬を体現した魔術師で。
「嫌なんだ……あいつの隣にいるのが。もう、嫌なんです。
――あいつはすごいから。僕は並んで歩いて行けないってことに気付いたから。
だから僕は、止まろうって、そう決めたんだ」
それゆえに、僕は劣等を抱き続ける。
――感情が、また暴れ出そうとする。静かに、内側から黒く、僕を侵していく。
「……別に、停滞を望むことを否定する気はないよ。それが、その人の真に望むモノなら、わたしなんかに止める権利はないから」
「だったらっ、どうして……」
「言ったでしょう? ――それが、その人の真に望むモノなら、って」
「ぇ……?」
だけど、その感情の暴走は、深刻化する前に、シア先輩のひとことで止められた。
「――きみの眼は、まだ憧憬を、輝きを、強さを望んでいる。それが、わたしには判る。
きっと、ロートくんも、それに気付いていた」
「……ぁ」
それは、いつかロートにも言われた言葉。
そして僕が気付いていながら逃げ続けた、僕自身の真実。
「だから彼は――自ら泥を被る真似をしてでも、君と戦ったんだと思う。わたしと同じで、きみに止まって欲しくなかったから」
「………ロート、が」
『―――それでも俺は、おまえの眼を信じるから。あの日のおまえを、信じるから』
あの日のロートの言葉が、僕の中で繰り返される。
あの日、ロートが僕と喧嘩したのは、停滞を望んだ僕に失望したから……ずっと、そう思っていた。
けど、もしかすると……親友だったあの少年は、何も変わっていないのではないかと。
だって――ロートは、一方的に友情を断ち切る男じゃない。
あいつは、これ以上ないくらい……英雄的な少年だから。見捨てるのではなく、救おうとする人間だから。
父さんみたいな、英雄のように。
「心の闇を否定しないで。それは、誰だって持っているモノだから」
先輩の声が、耳に届く。
「――……僕、は」
僕は欠陥を背負うあまり、憧憬を意識しすぎた。
そして、僕の願った強さに最も近いロートと自分を比べて、勝手に立ち止まった。
「だから――自分を偽って、逃げようとしないで」
――本当の渇望から目を逸らして、自分をダメだと決めつけて、逃げた。
日常を求めていながら、願いを捨てきれなかった。
僕すらも気付かなかったモノ。僕じゃないからこそ、他のひと達が気付けたモノ。
もしかするとそれが――僕の中に在る、本当の真実だったのではないだろうか。
「せん、ぱい……」
「ね、シオンくん」
「君は――どうしたい?」
「ぼく、は……僕はっ」
夢を諦めた。停滞を望んだ。進むことを拒んだ。
憧憬を追うことを………止めた。
――――けれど。
もう一度、追いかけてもいいのだろうか?
もう一度、願い望んでもいいのだろうか?
「いいに決まってるよ。それが、君の願いなら」
シア先輩の、その言葉は、とても優しさに満ちていて。
不思議と――その優しさが、痛くなかった。
「………っ」
人生は選択の連続だ。
かつて、僕は愚かな選択をした。
そのせいで、大切だった友情を失くしてしまった。
けど、そんなことを言っても、もう仕方ないこと。
だから――今度は、選択を間違えない。いいや、間違えてもいい。
ただ、後悔しない選択を。
逃走か、前進か。
今の僕は、どっちを選べば後悔しないだろうか。
「――、」
……決まっている。
このままでいいのか? ――いいわけがない。
もう、目を背けているだけの時間は終わりだ。
立ち止まったままの僕を、動かそうとしてくれたのは他ならぬロートだ。それも、二度も。
このまま、立ち止まったままでいるのは――ロートの意志に背け続けるのは、彼の願いに反する。
そして――目の前にいる、彼女の願いにも。
「……っ、は」
――怖い。心が竦む、体が震える。
心臓が激しく動悸する。ドンドン、と。内側から容赦なく叩きつけてくる。
呼吸が整わず、嫌な汗が背中を伝う。
たった一歩。されど一歩。
逃げ続けていた僕にとって、その一歩を踏み出すには、かなりの勇気が必要だった。
ただ、怖いという感情が心に在った。
この一歩を踏み出せば、僕はもう自分を偽れない。
あの輝きへ至るための、辛く険しい道が僕を待っている。
逃げることも、止まることも許されない。それが判っているから躊躇い、恐怖する。
けど、
「―――だいじょうぶだよ」
そっと。震える僕の手を握る、優しい感触。
「怖くてもいい――わたしが、手を引いてあげるから。傍に、いるから」
「―――ぁ」
先輩の言葉が、僕の心に入り込んで。
その暖かさは、まるで夕日のようで。
怯える心に、ほんの少しの勇気をくれる。
「っ……」
だから僕は、その勇気で――小さな一歩を、踏み出した。
ぎゅ、っと。先輩の手を握り返す。
小さくて、女の子だって実感させる手。とても、暖かい。
「……先輩」
「……うん。なに?」
「――ありがとう、ございます」
ほんの少しの勇気を、与えてくれて。
「――どういたしまして、シオンくんっ」
僕がそう言うと、先輩は優しく微笑んでくれた。
「――――――――、」
止まっていた時間を進めるときが来た。
この道は、きっと果てしなく遠いものなんだろう。きっと、過酷なものなんだろう。
……恐怖は消えない。今も、心のどこかに居座っている。
でも、それでいい。この気持ちを抱えたまま、僕は行く。
進むと決めた。もう戻れない。だったら――やるしかない。
序章は終わる。
今日、シオン・ミルファクは真の意味で、己と向きあった。
ならば、ここからが、物語の本当の幕開け。
何の変哲もない、ありふれた物語かもしれないけど――紛れもなく、僕が主人公の物語が、ここから動き出す。
視線を、窓の外へ向ける。
――――遙か遠い星空の光が、僕達を照らしていた。