第08話『追憶/少年と少年、天才と欠陥者 -White,Winter,Wizards.-』
『――シオン。一緒に帰ろうぜ』
『ああ。いいよ、ロート。あれ、リオは?』
『リオの奴なら、さっき急いで帰ってるのを見たぞ。なんでも、急用だとか』
『そっか。じゃあ僕らも帰ろうか』
『あ。そうだシオン。ちょっと帰り寄っていいか?』
『いいけど、どこに? 商業区?』
『まぁ、そんなとこだ』
春の刻にロートと出会い、そろそろ一年を迎えようかという頃――相変わらず魔術は使えていない――、いつものように、僕とロートは学院から帰宅しようとしていた。
季節は冬の刻へと移り、その冬の刻らしく、街は雪に包まれていた。
『――なあシオン。お前、あれから魔術はちゃんと使えるようになったか?』
『……ううん。まだ、使えない。こっちに来てから図書室とかにも通って色々調べたり、自分の方でも鍛錬はしたりしてるけど、やっぱり、まだ』
『そう、か』
沈黙が訪れる。
これまでにもロートは幾度となく、僕の欠陥を気にかけてくれた。ともすれば、僕以上にこの欠陥を気にしていたかもしれない。
……もっとも、実際のところなどロート本人にしか判らないのだけど。
雪が降り積もっている街を、二人歩く。
変わらない光景。変わらない日常。
ずっとこんな日々が続くのだと、そう思っていた。
だけど――――。
『――――ッ!?』
突如、僕らが向かう先――商業区の方から、大きな轟音が聴こえた。
『なんだ、今の音……!?』
『商業区の方だ、行くぞ!』
突然の事態に、僕は困惑した。いや、思考が追い付かなかったというべきか。しかし、そんな状況下でもロートは慌てず、冷静に状況を判断し、行動を取った。自分で考えて行動を起こすことさえままならかった僕は、走るロートに付いて行った。
そして――そこで目にした物は、ひどく壊れ果てた、商業区の姿だった。
『いったい……何が』
見るも無残な、建物の残骸。物理的に壊された物もあれば、火で焼き払われた物もあり、それらは共通して、ここで何があったかを物語っていた。
『うぅ、あ……ぁ』
『! 大丈夫ですか!?』
倒壊した建物の下敷きになっている人を発見し、僕はすぐ駆け寄る。
『シオン!』
『――――ぇ?』
だから僕は、僕に向かって魔術を放とうとする人物に、気付くことが出来なかった。
『――【力渦巻く風の奔流】ッ!』
何者かが放った魔術が僕に被弾するその寸前、ロートが放った魔術がぶつかり、二つの魔術は相殺した。
『大丈夫か、シオン!』
『う、うん。ありがとう、ロート』
『気にするな。でも、気ィ抜くんじゃねぇぞ。さっきのは間違いなくお前を殺す気だったからな』
『ころっ……!?』
殺す気だった、などと言われてもまるで実感が湧かない。けど、冷静になって考えてみると、やはりそれを認めざるを得なかった。
――だって、こうやって人が傷を負っているのだから。
ゆっくりと、顔を上げる。
そして視界に入ってきたのは、白の祭服と黒のストールを身に纏った一人の男性だった。身長は僕より高い。
最も特徴的なのは、その顔に被った髑髏の仮面だろう。アレを被っているせいでその場に立っているだけで威圧感が増し、そして表情を読めないため、何を考えているのか全く判らない。
その姿は、さながら死神。
死をふりまく圧倒的存在を、想起させた。
『――ディア』
『え?』
『――アルカディア、だと』
ロートが呟いたその一言で、あの人物が何なのか思い至った。
非魔導宗教組織『天辰理想教』。それはシーベール王国内において、かつて最も人々を震撼させた、宗教組織のことだ。
その行動は千にも登る数の魔導テロや、誘拐や略奪、強盗などの犯罪。そして非人道的な、魔術を使った行い――詳しくは公開されてはいない。少なくとも、魔導テロのことではない――など、王国において最大最悪の組織として名が知れ渡っていた。
そんな、悪の存在でありながらも、彼らの掲げる教義に心酔した信者は多い。
しかし、十年前に、王国魔導師団による《アルカディア殲滅戦》で、かの組織は解体された筈だった。ならば、目の前にいるこの人物はアルカディアの残党というところなのか。
『なんでアルカディアの人間がここに……』
『わからない。けど、このままだと俺達二人とも殺られるぞ』
依然として、アルカディアの人物は動かない。彼はじっと、その場に佇んでいるだけだ。
戦う術はある。マナリングは、ポケットの中にある。
だけど、
(怖い……っ!)
さっきの魔術――僕を殺そうとした魔術――の恐怖が今になって蘇る。
殺す気だった、と言われ、麻痺していた感情が僕を支配する。
怖い。ただひたすらに、怖い。
『戦うぞ、シオン』
『――え……?』
だから僕は、突然そんなことを言い出す親友に、上手く言葉を返せなかった。
隣を見る。ロートは張り詰めた表情で彼を見ている。いや、あれは親の敵でも見るような視線にも感じ取れた。
有り体に言えば、憎しみだろうか。
『ロート……冗談、だろ? 僕達がアイツと戦っても勝てやしない。それくらい、お前だって判るはずだろ?』
『そんなことは判ってる。けど、このままアイツを放っておいていい理由にもならない』
『でも――』
『大丈夫だ。さっき呼応石で助けは呼んだ。時間さえ稼げば助けは来る。それまで――戦うぞ』
『――――、』
助けを呼んだ。その事実は確かに心強い報せではあった。
しかしそれ以上に、僕自身が戦うことを拒んでいた。
それが恐怖から来たものなのか、あるいはそれ以外の何かなのか。
どちらなのかは判らない。
――なぁ、ロート。
心の中で、親友に問う。
――どうして、おまえはそんなに勇敢なんだ?
――どうして、おまえは恐れずに戦おうとする?
どうして―――。
『っ! 構えろ、シオン! 来るぞ!』
『――え?』
刹那、ドン、と音がした。
それが何だったのかは判らない。ただ一つ言えることは。
『ぐあっ……!』
『シオン!!』
僕が今、壁に体を打ち付けられたということだけだ。
腹部に走る鈍痛。まるで鉄の球を思いっきり打ち込まれたようだった。
頭が回らない。なんだ、何が起きた?
痛みに耐えながら、顔を上げる。すると視界に入ってくるのは、やはり彼だった。
男は僕から数十メートル離れたところに立っていた。止めを刺そうと思えば、すぐに刺せる距離。
――動け。じゃないと、殺される。
頭ではそう判っていても、体が動いてくれない。
ゆっくりと、彼が動き出す。何もできないまま、彼と僕の距離が縮まるだけ。
それはまるで、死の宣告。髑髏の面を被った死神が、一歩一歩、近付いてくる。
――戦えよ。その為の術はあるだろう!?
判っている。判っているのに――
この身体は、動かない。
『がっ……!』
近づいてきた彼に、首を掴まれる。
呼吸が上手く出来ない。このままじゃ――。
『――【氷槍】!』
刹那、ロートが彼に向かって魔術を放った。そのおかげで、僕は彼の拘束から逃れられた。そしてそのまま、ロートの方へ走る。
【氷槍】を受けても、彼の様子に変化はない。初級魔術だから威力は望めないが、それでも直撃したのだ。多少なりと、負傷していてもおかしくはないはず。
『大丈夫か、シオン!』
『げほっ……。なんとか』
『――興醒めだね』
不意に、何処からか声が聞こえた。その声が彼の物だと理解するのに、数秒を要した。
『――なんだって?』
『興醒めだ、と言ったんだ。紛い物でも、歯向かう気力があるのかと思っていたのだが、どうやら本人にその気がなかったようだ。あったのは、見せかけの意志だけ。ああ、つまらん。実につまらんよ』
『……どういう意味だ』
『そのままの意味だよ。そこの貴方は、無意識の内に戦うことを放棄していた。全く、興醒めだ。魔術をマトモに使えない体でありながら、どこまで歯向かうか期待していたというのに』
『なっ……』
――どうして、僕の欠陥を知っている!?
そう問いかけたかったのに、男は唐突に僕らから背を向けた。
『逃げるのか』
『用もなくなった所に何故長居せねばならない? 追ってきたいならそれでも構わないが……ただしその場合は、確実に殺すがね』
『――――』
『それでいい。どうやら貴方は愚者ではなく賢者のようだ。相手との力量差をしかと理解している……それは、賢き者しか出来ぬことだよ。もっとも、戦うことすら放棄するのは、ただの弱者だがね』
『っ……』
『では、また会おう。シオン・ミルファク。ロート・ニヴェウス。
――今宵の邂逅に、いずれ意味が与えられることを』
その告げた瞬間、彼の姿が黒い靄に包まれたかと思うと、彼の姿は跡形もなく消えていた。あるのは、魔力の残滓だけ。
僕とロートは言葉を交わすわけでもなく、その場に座り込んだ。
なんで、あの男が僕達の名前を知っているのかとか。
どうして、僕は戦えなかったのかとか。
――己の胸の裡にある、どろどろしたこの感情が何なのかとか。
そういう疑問を全部投げ捨てて、僕とロートは背中合わせで座っていた。
頬に当たる雪が、冷たかった。
――しばらくして、王国魔導師団の人達がやってきた。
僕達はそのまま事情聴取などを受けて、帰路につく頃には既に夜になっていた。
『…………』
『――――』
僕達の間に、会話は生まれない。先程からずっとロートは思いつめた表情をしている。
それは、何か問おうとするのを迷っている様子にも見えて。
『――なぁシオン。おまえ、本当にそのままでいいのかよ』
会話が生まれないまま、時間と距離だけが進み、僕の家の前まで来た時に、ロートは口を開いた。
『……? どういうことさ、ロート』
『どうもこうも、お前、そのままでいいのかって聞いてるんだ』
『そのままでいいかって……』
『欠陥を治さなくて、そして強くならなくていいのかって聞いてるんだよ』
その言葉を聞いて、僕は首を傾げた。
『何を言ってるんだよ、ロート。僕はちゃんと修行しているじゃないか。欠陥を治す努力もしているし、それに魔術の鍛錬も怠ってなんかいない』
『じゃあ、今日のアレはなんだって言うんだ。――おまえが、戦わなかったのは』
『……アレ、は』
言葉に、詰まる。
『どうして戦わなかった? なぜ臆した? いいや違うな――おまえは、そもそも戦う気が無かった』
『……っ』
……真っ黒なモノが、じわじわと、心を蝕んでいくのを感じる。
『ロート……』
『俺には、おまえがただ恐怖から戦いを拒んでいるように見えなかった。だから、それが知りたい』
『―――、』
その黒いモノを、何とか理性で押さえ込む。
溢れ出させては、いけないから。
『……別に、何でも無いよ。ただ、怖かっただけなんだ』
嘘は吐いてない。恐怖したのは本当だ。
『確かにそうかもしれない。けど、それだけじゃないだろ?』
なのに、この親友は、僕の触れて欲しくない部分まで、触れようとする。
『……本当に、何でも無いんだ。だから、もうこの話は終わりに……』
けれど、
『そうやって――逃げようとするなよ』
『っ……!』
『違うだろう……おまえは――』
必死に、押さえ込んでいたのに。
『――俺が知ってるシオン・ミルファクは、そんな奴じゃない』
その言葉が、壁を壊した。
『っ……………おまえに―――』
『え……?』
『――――おまえにッ! 僕の何が判るって言うんだよッ!!』
叫ぶ。
喉の奥から、そして心の底から――叫ぶ。
決壊する感情の壁。抑えていた感情は、一度溢れ出すと止まらない。
黒くて暗いモノが、僕の心を侵していく。
『シ、オン……?』
『なぁロート、教えてくれよ。
どうして、おまえは戦える? なんで臆さない?
ずっと隣で、おまえを見てきた。でも判らないんだ。その勇気が、その強さが――僕には、判らない』
ああ、そうだ。判らないんだ。
ロートの勇気が、強さが、何処から来るモノなのか。
なんで、そんなにも――輝くように在れるのか。
『……ッ』
そして、そんなロートの姿が、どうしても……
――どうしても、憧れた人と重なって。
僕を、暗いところへ堕としていく。
それは、僕が求めた光だったから。
『シオン……』
ロートは、僕の感情の発露に、ひどく戸惑っている様子だった。
何度も口を開いては、閉じて。僕にかける言葉を、選んでいるようだった。
『おまえ、だって。やろうと思えば……』
『無理、なんだよ……っ』
けど、親友がやっとのことで紡いだ言葉でさえ、僕は一蹴してしまう。
もう、僕は、僕自身を止められない。
『隣で光が輝いてるのに、どうして暗闇の中を進まなくちゃならない……っ?』
迷いながら、悩みながら、闇の中を手探りで歩いて行って。ちょっとずつだけど、進んでいって。
――けど、ふとした瞬間に、隣を見れば。
そこには、星のように輝く光が在った。
それは、僕が目指した強さに酷く似ているモノで、だからこそ、現実を突きつけられる。
この光のように、なれないと。そんな劣等感に、苛まれる。
それが判っていながら、努力を続けなきゃいけないなんて……
そんなの、拷問にも等しいじゃないか。
『それは……まだ、おまえの努力が足りてないからで、続けていれば、いつかきっと、おまえの目指した強さに辿り着けるはずだから。だから……』
『っ………おまえの一歩と、僕の一歩は全然違うんだよッ! おまえの物差しで測るな……ッ!』
確かに歩いていれば、いつかそこに辿り着けるだろう。
けど――それは、いつ?
判らない。それまで、僕は耐えきれる自信がない。
隣に在る光を見る度に、焦燥感に駆られ、精神的圧力に押し潰されて、壊れる未来しか見えないから。
一瞬の静寂。ロートは何も言えないまま。
『なぁ、ロート……』
小さく、呟くように、僕は親友の名を呼ぶ。
『おまえ……おまえ、さ……』
それは、ずっと僕が思っていたこと。
――ロートの、完成された魔術の腕を見る度に、
――ロートの言葉に在る、正義感を感じる度に、
――ロートの、勇気ある英雄的な姿を見る度に、
僕は、こう思っていたんだ。
『――――おまえ、異常だよ』
そんな、普通とは違う存在に畏怖する。
同時に、そんな異常に――どうしようもなく、憧れる。
けど、現実は残酷で無情なモノ。
憧れれば憧れるほど、その強さを見せつけられるほど、遠くて違う存在だって思い知らされる。
だから……こうして、僕みたいな人間には、黒く淀んだ、醜い感情が、心に芽生える。
相手は何も悪くないのに、ただ一方的に逆恨む。そんな醜い感情が、僕を支配する。
『そんなすごいロートだから、きっとこれから先も強くなって、高いところまで行くんだろう』
僕の、手が届かない場所まで。
『僕には、いいや僕だからこそ、それが確信できる』
僕の憧れた光は、ここで止まる器じゃないと信じているから。
『っ……』
だけど――
『僕は、その先には行けない』
彼と親友だった、歪みを抱える少年は、その光に畏敬する余り、
『僕は……止まったままでいいんだ』
――あまりにも愚かな答えを、導き出した。
己を、守るために。自分の真実に気付くと同時、そこから眼を逸らした。
『僕は……前を進む人間とは、違うんだよ』
僕は、前に進まない人間だから。
まっすぐ、先を見ているのに、進み出すことはない。
進むのが怖いから。
隣にいて、けれどずっと前にいる親友が、眩しくて仕方ないから。
『今のままでいい。いいや、今が良いんだ』
――歪んだ、欠陥者の僕が求めたのは、ただ眼前の日常だけだったから。
……沈黙が訪れる。
無音の空気。無言の会話。ロートは僕をジッと視ているけれど、僕はロートの眼を視れない。
『だったら、なんで……』
不意に、ロートが口を開いた。つられるように、僕も顔を上げる。
『――――そんな、泣きそうな顔をしてるんだよ』
そこから漏れる声は、なぜか悲愴の色に満ちていて。
そう言っているロート自身も、泣きそうに見えた。
『俺は……俺が見たかったのは……っ! 俺が、果たしたかったのは――!』
『……おまえが見たかった僕が、どんなモノかは判らないけど……おまえの願望を、僕に押しつけないでくれ……』
弱い僕は、きっとソレに押し潰されてしまうから。
『――……だったら』
ザッ、と。地を蹴る音が聞こえた。気付けば、ロートが僕の方へ向かって歩き出していた。
『教えてやるよ。俺の強さを。……俺が、戦う理由を』
その声は、先ほど悲壮に満ちた声ではなくて。
何かを決意したような、そんな気持ちが乗っていた。
一歩、一歩。ロートが僕との距離を詰める。
『気付かせてやる。目覚めさせてやる。
おまえが奥底に仕舞った、お前自身の渇望を』
そして、
『――が、っ』
右頬に、鋭い痛みが走った。
それが、殴られたのだと気付くのに、数秒かかった。
『な……ぇ?』
『立て。まだ目ェ覚めてないだろ』
『ロート、なに、を………』
『言葉で伝えるのは、どうやら俺には向いてないみてぇだからな……だから、コイツでお前に語りかける』
『う、ァッ!』
再び、痛み――今度は、腹部――が走る。
『――たとえ、俺の選択が、最低な結果をもたらしたとしても。きっと、おまえの言葉は真実なんだろうけど』
ロートが、何か言っている。けど、痛みのせいでそれどころじゃない。
『―――それでも俺は、おまえの眼を信じるから。あの日のおまえを、信じるから』
……ぼやけた視界の中、気のせいか、ロートが泣いているように見えた。
『だから、今は……拳に、すべて乗せる』
そして、三度、拳が振るわれた。
* * *
――――どうして、こんなことになったのだろう。
『――オ、ラァッ!!』
向かってくる拳を、躱す。躱す。
気付けば僕の体はボロボロで、擦り傷がいくつもできている。傷の中には殴られたことで生まれた痣もあり、青紫の色が痛々しい。
痛みは消えず、未だ体を蝕む。気を失わないのはこの痛みゆえか。しかしそんなこと、どうでもいい。
躱すという動作を繰り返すのはこれで何度目だろう。それに対して僕は何回、ロートに攻撃することができただろうか。
『がッ……は、っ』
――答えはゼロ。僕は彼に拳を振るうことはできていない――できない。
ロートの拳が、左頬に入る。走る鈍痛。飛びかける意識。それを、何とかつなぎ止める。気を抜くことは絶対に許されない。
魔術は使っていない。あくまで僕と彼は己の拳のみで闘っている。学院の校則違反になるというのもあるが、魔術を使わない本当の理由はそこじゃないということを、僕は理解している。
彼は僕に合わせている。だから、魔術を使わない。それだけだ。
『う、ああああああッッッッ!!』
だけど、このままやられっぱなしでいるわけにもいかない。体を奮い立たせて右の拳を固く握り、そして振るう。しかし僕は、あいにく喧嘩なんてしたことがなく、どうしても不格好なパンチになってしまう。当然、それは難なく躱されてしまうわけで。
『甘いんだよッ!』
『か――はっ』
ロートが躱すと同時、振るわれる拳。容赦の無い一撃が、僕の鳩尾に突き刺さる。一瞬だけ止まる呼吸。その後すぐにやってくる痛み。痛い。とんでもなく痛い。
あまりの痛みに立っていられず、思わず路上に前から倒れ込んでしまう。
『ぅ、あ……はッ』
そのまま仰向けに寝転んで、呼吸を落ち着かせようとする。
閉じていた目を開けば、空は曇天で、鉛色。
頬に冷たい感触が伝う――雪だ。
周りには誰も人がいない。雪が降る寒い冬空の下、閑散とした通りで、僕達は二人、殴り合っている。
吐いた息が白い。白の息吹は、空に溶け、消えていく。
ザッ、と。靴が擦れる音が聞こえた。
『立てよ。まだ終わってねェだろうが』
不意に、その言葉が耳に届く。視線を声の主の方に向ければ、そこには一人の少年が立っていた。
雪のように白い髪を、一房だけ後ろでまとめている髪型。目付きの悪い、薄い藍色をした双眸が、こちらをジッと見つめている。
ロート・ニヴェウス――僕の、親友。
『そんなモンかよ。おまえの根性ってやつは。ああならば――おまえはその程度ってことだ』
『くっ……あああああああッッッ!!』
簡単な挑発だということは理解している。けど、乗らずにはいられなかった。
ここで負けたら何かが終わると――それが何かは判らないけど――確信しているから。
未だ痛む脇腹を気力だけで押さえつけながら、再度拳を固く握る。先ほどの動作から至らない点を思い出し、修正する。
だけど――この拳は、届かない。
『おまえを……殴れるわけ、ないだろ……っ!』
目の前の人間を殴ることなんて、僕にはできなかった。
『ああ……優しいな、おまえは』
刹那、僕の顎を目がけて拳が思い切り振り上げられた。それがアッパーだということに気付いたのは殴られた後だった。
『―――――ぁ、っ』
脳が揺さぶられたせいか、足下が覚束ない。体が上手く動かない。口の中が切れたせいか、血の味が舌を這う。
この一撃は不味い、と本能で理解した。
倒れる。これで二回目だ。さっきと違うのは、もう立ち上がれそうにないということ。
……判っていた。僕じゃロートに敵わないということくらい。
拳と拳だからじゃない。魔術師である僕だけど、魔術で戦ってもロートには絶対勝てない。むしろ、勝算という点で見れば拳と拳のほうがまだあった。けれどそれすらも、勝てなかった。
ならばこの戦いは、紛れもなく僕の敗北ということに他ならない。
……何が原因で、こうなったのだろう。
脳裏に過ぎるのは、取り留めのないそんな思考。二度目の自問に、僕は答えを得ることはできない。
どんなに考えても、この状況を変えることはできないというのに、頭はそればかり考えてしまう。
その原因は己にあるということを判っていながら、僕はそこから目を逸らす。
『――止まり続けるのが、そんなにいいか。進まなきゃ変わんねぇってことくらい、判るだろ』
だから、彼の氷のように冷たい言葉も、聞こえていても理解することはできなくて、
『じゃあな――ミルファク』
だから僕は、遠ざかっていく彼の背中を、ただ見つめることしかできない。
『……ロー……ト……』
小さく呟いた彼の名は、吹いた風にさらわれ、雪空に消えていく。
『―――、』
肌を刺す冷たい空気。光差さぬ鉛色の曇天。そこから降り積もる雪は、あらゆるものを白に染め、覆い隠していく。
――僕達の、友情すらも。冷たく、隠していく。
『は、は……っ』
乾いた笑いが、込み上げる。
『ははっ……はははは!』
その行動に、特に意味は無かった。
ただ、こうしていないと自分の気持ちを保てないだけで。
『はは、あはははっ…………っ、あ……ぅ』
でも僕の心は弱いから、すぐに折れる
『ぁ、あ……っ、ううああ……っ』
漏れる嗚咽。両の眼から溢れる雫。一度流れ出すと、もう止まらない。
この心を占める感情はただ一つ。
後悔という名の、後の祭りでしかない、ひどく生産性のない感情。
――こんなつもりじゃなかった。こうなるつもりなんて無かった。
ちょっとした、けれどあまりにも致命的なすれ違い。
ただ、封じていた感情がこぼれてしまったせいで、すれちがってしまった。
望んだ選択をしたはずなのに。
今ある日常を守ったはずなのに。
なのに――そんな大切なモノから、大事な存在が、抜け落ちていった。
これでは本末転倒も良いところだ。
(……いいや、違う)
これは、報いだ。
立ち止まった僕への、罰。
停滞を望んだ。進むことを拒んだ。夢を諦めた。
ゆえに、この日の出来事は偶然などではなく、きっと運命だったのだろう。
僕とアイツの道は――この日を以て、ここで別れた。
『―――』
暗闇に染まっていく視界。地の底に落ちていくような浮遊感。
彼の言葉が脳内でぐるぐる回って、廻る。
けれども愚かな僕は、それを理解しようとはしない。
寒い寒い、とある冬の日。
それは、僕と彼が離別した日だった。