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民営騎士団は眠らない  作者: 実乃里
第五章 ヤックハルスデイ
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救出

 睡眠と気絶は、似て非なるものだ。前者は目を覚ましたとき、良夢であれ悪夢であれ、体の疲れは癒えているものだが、後者は意識を失う直前の具合の悪さを残したまま覚醒に至る。

 そんなわけで体調は最悪で、軽い眩暈と頭部の鈍痛に苛まれながら、僕は冷たいコンクリートの上に座っていた。


「なあ、ひとつ訊いてもいいか?」

「なによ?」

「膝枕とかオーケー?」

「ふざけないで! 呑気なあんたでも、今がどんな状況かわかるでしょ!」

「いやほら、頭殴られたもんだから体調が悪くてさ。できれば横になりたいんだが、これが邪魔で体勢的に難しいんだよ」


 僕は嵌められた手枷と、壁に伸びる鎖を、隣に座るアイに見せた。


「それくらい我慢しなさいよ。私だって状況は同じなんだから」


 そう言ってアイも、自分に嵌められている手枷を僕に見せる。


「いいや同じじゃないぞ。だってアイは殴られてないだろ?」

「その代わり変な薬を盛られた。意識が朦朧として、あの殺人鬼女の命令に逆らえなくなっちゃったんだから……。おまけにこんな格好にされちゃったし……」


 アイは現在下着姿だ。共にピンク色の、上下お揃いのブラとショーツ。リボンのようなヒラヒラが可愛らしい。


「ジロジロ見ないでよ、スケベ。そもそもあんたなにしにきたの!」

「お前を助けにきたに決まってるだろ」

「ミイラハンターがミイラ化しちゃ意味ないでしょうが!」

「惜しいところまで行ったんだって。冴え渡る頭脳でこの場所を割り出し、華麗に工場に侵入し、犇めくコボルトの大群をバッタバッタと薙ぎ倒したまではよかったんだが、一瞬の隙を突かれてしまった。オレとしたことが一生の不覚だぜ」

「ずいぶん余裕があるけど、もしかして脱出の算段がついてたりするわけ!」


「いや、まったく」と、僕は首を振るう。


「さっさと考えなさい。こういうことはあんたの得意分野でしょ」


 別に得意ではないものの、殺人鬼に命を握られている現状は打破しなくてはいけない。僕は周りを見渡す。

 僕らが監禁されている場所は工場の地下室だと思われる。窓がないのと、天井に向かって伸びる水道管らしきものがあるのがその理由だ。壁、床、天井はコンクリートで、唯一の出入口は前方の扉だけだ。施錠されていることは容易に想像できるも、見たところ木製のようで、二人係ならじゅうぶん破壊可能と思われる。

 次に僕らの状態だ。僕とアイは手枷で後ろ手に拘束され、その手枷は鎖で壁と繋がっている。脱出するにはまず、この手枷をなんとかしなくてはならない。

 僕は顔を捻り、自分の手枷とアイの手枷を入念に観察した。

 材質は鉄で、鍵ではなくボルトでロックするタイプだ。厄介なことにボルトの尖端がまげられている。これではネジを緩めることができない。アイの方も同じで、外すのは困難だ。


「手枷は諦めよう。工具でもなきゃ外せない」

「なにか持ってないの?」


 僕は体を捩って持ち物を探すも、ポケットの中に所持品の気配がない。


「ダメだ。持ってたものは全部取られちまった。アイはどうだ?」

「所持品があるように見える」

「わからないぞ、もしかしたらブラかショーツの下になにかあるかもしれない。念のため脱いで調べてみたらどうだ?」

「この手枷に感謝することね。ぶん殴られずにすんだんだから」


 そう言ってアイは右足の踵を僕の臑に落とす。


「そろそろ真面目にやんなさい。私ら本気でヤバイ状況なんだから」


 僕は痛む臑を反対の足で摩りながら後ろの壁を向く。


「真面目な意見として、手枷はどうすることもできない。ただ、なにごとにもつけ入る隙はある。こいつを見てくれ」


 僕は手枷から伸びる鎖の尖端を、足の爪先で指し示す。

 コンクリートの壁にはフックが刺さっており、鎖はそこに繋がれている。


「この壁はコンクリートだ。コンクリートってのは意外に脆くて、無理になにか刺した場合ヒビが入ってしまう。だがこのフック周りにはヒビがない。これはどういうことか。簡単だ。ドリルかなにかで一度穴を開けたのち、ネジ式のフックを差し込んだに違いない」


 アイは僕の説明にうんうんと頷く。


「ネジというものは逆方向に回せば抜けてくるもんだ。あとはわかるな……」


 アイは後ろの壁と向きなおる。


「このフックを鎖ごと壁から抜こうってわけね」

「そういうこと。鎖を引き摺りながら逃走することになるが、そこは我慢してくれよ。ちなみに抜くときは左回りだからな」


 そして僕とアイは、後ろ手に壁のフックを掴み、力いっぱい左に捻った。

 不自然な体勢なため、思うように力が入らない。それでもやるしかない。体を傾け、全体重をかけながら渾身の力を込めると、僅かにフックが回り始めた。


「こっちは少し動いたぞ、そっちはどうだ!」

「こっちもなんとか動いた。いけるわ!」


 いい感じだ。この調子でこんな辛気臭い場所とはおさらばだ。

 ちょうどフックが一回りしたとき、足音が近づいてくるのがわかった。

 作業を一時中断し、なにごともなかったように床に腰を下ろす。ふと思いつき、僕は床に寝そべり、まだ意識が戻っていないふりをすることにした。

 やがて扉が開いた音がし、パトリシアが部屋に入ってきた。いつも所持しているカメラを首にかけ、右手にはランタン、左手には麻袋を提げている。僕は薄目を開けながら、ことのなりゆきを見守る。


「気分はいかがかしら、グローベルクさん」


 パトリシアは麗しそうな目でアイを見下ろす。


「悪くないわね。おかげでのんびり骨休めができたわ。それより人を無理やり別荘に招待しておきながら、お茶の一杯も出さないとはどういう了見なわけ。舐めてんの」

「あらあら、昨日はあんなに怯えていたのに。ボーイフレンドが隣にいるだけで強気になれるなんて可愛いらしいわね」

「そりゃあ、変態女の前でこんな格好してれば貞操の危険を感じるってもんよ。誰だって変質者は怖いものね。あー怖い怖い。近づいてこないでよ変態」


 アイの言葉を受け、パトリシアはガッカリしたように肩を落とす。


「つまんないの。無様な姿で慄く騎士さまに嘲笑を浴びせてやるつもりだったのに。こんなことなら先に泣き顔を写真に納めておけばよかったわ。でも昨日は解体した二人を街に捨ててくるので忙しかったから仕方ないか……」


 まるで昼食の献立を明かすかのごとく、恐ろしいことを平然と言ってのけた。


「まあいいわ。どうせすぐに泣き叫ぶことになるでしょうから」


 そう言ってパトリシアは持っていた麻袋の中身を床に落とす。

 ハンマーにペンチ、ワイヤーカッターに金切り鋸。血液が付着していることから、これらがどういった用途に使われていたのかは容易に想像できた。


「どれがいいっかなぁ~。ペンチで爪を剥してあげよっかぁ……。それともいきなり鋸で手足行ってみる? 要望があれば遠慮なく言って。ある程度は考慮してあげるから」


 パトリシアはアイに向かって穏やかに微笑みかけた。それは一昨日まで普通に振る舞っていた彼女の仕草そのもので、一層不気味に思えた。


「要望がないみたいだから私の独断で決めるわね。無難なところで、ハンマーでの指潰しから初めましょうか。ちゃんと耳を澄ませておいてね。骨が砕けるときっていい音がするんだから」


 ハンマーを握るパトリシア。アイは反射的に足を引込め、体を捩って後ろに下がる。


「そうそう、その調子。たっぷり怯えてお姉さんを楽しませてちょうだい。命乞いとかしてもらえると最高ね」


 パトリシアはアイに向けてカメラのシャッターを切った。口元から涎を滴らせ、左手で自分の股間を押さえ、ハアハア深く息を吐きながら何度もフラッシュを焚いた。

 ……間違いない、この女は狂っている。異常性癖などといったものではなく、ただ狂っているのだ。


「そうだ、いいこと思いついたわ」


 パトリシアはカメラを床に置き、腰のポーチに手を入れる。

 取り出したものを見たとき、全身に冷たいものが駆け巡った。


「ボーイフレンドの武器で可愛がってあげるわ。嬉しいでしょ」


 彼女が取り出したのは僕の銃だった。


「見てたけど面白い武器ね。普通の男の子でもコボルトを倒せるんだから驚いたわ。こうやって使ってたわね」


 パトリシアは銃のスライドを引き、アイの後ろの壁に向かって引き金を引く。

 部屋の中に籠る発砲音、飛び散るコンクリート片、反対側の壁に跳弾する弾、漂う硝煙の臭いに、床を転がる空の薬莢。


「すごい威力ね。これを人間に使用したらどうなるのかしら? とても興味あるわ」


 パトリシアは銃口をアイに向ける。

 身を竦めるアイの姿を一枚撮影したのち、スッと狙いを脇に逸らして引き金を引く。

 今度はなにも起きない。どうやら弾切れらしい。

 パトリシアは一度溜息を吐くと、腰のポーチを外す。逆さにすると、中に納められていたものが床に散らばる。予備マガジンと弾薬。全て僕が所持していたものだ。


「確かこうやっていたわね?」


 パトリシアは銃から空のマガジンを抜き、弾が充填されているマガジンと取り換える。


「この状態で上のところをカチッて引けば、また使えるようになるんでしょ?」

「さあね、その武器は私の専門じゃないし」

「違うわよ、私はマイザ君に尋ねているの。もう目が覚めているんでしょ。寝たふりなんかやめてこっちにハマったらどう。楽しいわよ」


 バレていたらしい。僕はゆっくりと体を起こす。


「人は意識を失っているときでも、なにかしら動きはあるものよ。あなたは不自然なくらいジッとしていた。動かないようがんばっていたのはわかるけど、逆にわざとらしくなっちゃったわね。お姉さんの目を誤魔化そうとしたって無駄よ」

「ずいぶん詳しいんだな。あんたの時代は学校の授業でそんなことも教えてくれたのかい?」

「まさか、教えてくれたのは私のおじさんよ」


 パトリシアから狂気の色が消える。


「ジャン・シッカートか……」

「ええ、ジャンおじさんは色々なことを私に教えてくれた。ナイフの扱い方や、人の自由を奪う薬品の作り方。低級魔物を支配する方法なんかも教わったわ」


 彼女の瞳は、恋人について話す少女のごとく無垢な光を放っていた。


「この森に巣食っていたコボルトもあんたの仕業だったのか……」

「魔物としてはチンケだけど、警備員としては優秀なのよ。侵入者を速やかに追い払ってくれるし、視覚を共有することもできるし。マイザ君が森に入ってきたのもコボルトの目を通して知ったのよ」


 コボルトたちの不可解な行動はそのためか。エリーが一緒なら察知してくれたかもしれない。シャロ姉さんが一緒なら不自然さに気づいたかもしれない。今更ながら単独行動してしまったが悔やまれる。


「なぜジャンがあんたにそんなことを教えたんだ? まるで接点が見えない。そもそもジャンはあんたの父親を殺した男だろ。恨みを抱いて然るべきなのに、そんな素振りもない。その辺りを是非とも教えてもらいたいもんだな」


 今僕にできる最善の策は時間を稼ぐことだ。脱出の算段は立っているのだ。あと一時間もあればフックを外すことができるだろう。それにはパトリシアが邪魔だ。一時的にでもこの部屋から退出してもらわねばならない。

 とにかく会話を続けるのだ。時間をかければ休憩のため引っ込んで行くかもしれない。


「恨むなんてとんでもない、ジャンおじさんは父を殺してくれた優しい人よ。おじさんのおかげで私とお母さんは、あのクズ男の暴力から解放されたんだから」


 ここでパトリシアの顔が憎しみに歪む。


「工場の経営が芳しくなかったのは自分が無能なせいなのに、あいつは私とお母さんが足を引っ張っていると考えていた」


 彼女の頬を一筋涙が伝う。


「できの悪い妻が家庭を上手く回さないからだ。お転婆な娘が世話ばかりかけるからだ。八つ当たりによる理不尽な暴力で身も心もボロボロだったわよ」


 一度しゃくりあげたのち、流れていた涙が大粒に変わる。


「あるとき、ついに工場は存続困難になってしまった。マリンヒャーワインの権利は他社に売却され、父は全てを失った。すでに気が触れていたあの男に、酒に溺れるなんて選択はなかった。即刻、私とお母さんを道連れに自殺をはかったのよ」


 次の瞬間、パトリシアはニッコリと微笑んだ。


「ジャンおじさんと会ったのはそのとき。なぜ彼がここにきたのかはわからないわ。きっと運命の出会いね。とにかくおじさんは、私と母の命を奪おうとしていたろくでなしの父に鉄槌を下してくれた。すごかったわよ、鉈を持って襲いかかる父を、おじさんは素手で倒しちゃったんだから。首の骨って案外簡単に折れることを知ったわ」


 涙を流しながらケタケタ笑うパトリシアは一層狂気の色を濃くした。


「私とお母さんは歓喜したわ。ようやくあのクズ男の呪縛から逃れることができたわけだもの。おじさんと交流を持つようになったのはそれから。人生でもっとも充実した日々だったわ」


 パトリシアはうっとりとした表情で自分の体を抱いた。


「あんたバカでしょ! ジャン・シッカートは狂った殺人鬼よ。そんなやつと知り合いになって充実した日々なんて、頭がどうかして――」


 バチンという大きな音により、アイは言葉を途中で遮られた。


「状況はしっかりと把握するべきよ、グローベルクさん。今のあなたは私に口答えできる立場じゃないのよ」


 張られた頬を赤く腫らし、アイは憎しみの目をパトリシアに向ける。


「気に入らない目ね。生死権を握っているのは私なんだから、もっと諂った態度を取るべきだと思うけど?」


 パトリシアはアイの髪を掴み、頭を後ろに仰け反らせる。


「一応、グローベルクさんの勘違いを訂正しておくわ。私もお母さんも、その時点ではおじさんが世間を震え上がらせているヤックハルスだとは知らなかったのよ。事実を知ったのはそれから十年後のこと。ちょうどおじさんが急死する一週間前、私にだけ教えてくれたわ」


 アイの髪を離し、パトリシアは元の位置に戻る。


「帝国からの亡命、公国独立への助力、そして自身を縛る黒水晶のナイフの呪い……」


 呪い。クロドさんも似たようなことを言っていた。確かジャンが生前に語った言葉だとか。


「あり得ない、って顔してるわね。でも本当よ。ジャンおじさんは自身を蝕むナイフの呪いに苦しめられているのよ。今もね……」


 そう言ってパトリシアは、左手で上着のポケットから黒水晶のナイフを取り出す。


「私が今行っているのは、殺戮じゃなく儀式よ。ジャンおじさんの魂を呪いから解放するための聖なる血の儀式……」


 ナイフシースを捨て、切っ先をこちらに向ける。刃の表面には僕とアイの姿が映り込んでおり、まるでナイフに捕らわれたかのような錯覚を抱く。

 パトリシアは刃表面の僕らを、愛でるように指先で撫でた。その表情は今まで見た中で一番穏やかなものだったけれど、一際恐怖を感じるものだった。

 まずい、彼女は僕らの処理を始める気だ。


「あれっ、でもおかしくないか? ジャンが死んだのは十年前だ。なんで今になって動き出すんだ? 十年というブランクが開いた理由に興味があるな」


 なんとか会話を長引かせるのだ。今できるのはこれしかない。


「お母さんに配慮したのよ。お母さんは事情をなにも知らないからね、もし私が儀式を行っていると知ったらショックでしょ。そのお母さんも去年亡くなった。ようやく本格的に動くときがきたというわけ。儀式はカニスの日と決めていた。おじさんに端を発した公国の独立記念日。まさにうってつけとは思わない」


 八人を惨殺した人間でも、自分の母親は大事ときたか。やり切れない怒りを感じる。


「このナイフにたくさんの血を吸わせるの。そうすればおじさんの魂は呪いから解放されるわ。今度は私がおじさんを助ける番よ」


 あり得ない。呪いなんて迷信に動かされた結果がこれか。お前は自分が殺した人間の気持を考えたことがあるのか。罵倒してやりたいところだけれど、それは我慢だ。まずはこの場を切り抜けなければならない。僕は煮えたぎる怒りをグッと堪えた。


「ちゃんちゃらおかしいわね。呪いからおじさんを解放する? そんなの詭弁もいいとこよ!」


 どうやらアイは我慢する気はないようだ。

 パトリシアは無言でアイを正面から睨みつける。


「ならなぜ女性だけを狙ったの? たくさんの血が必要ならガタイのいい男を標的にした方が効率的じゃない。でもあんたはそうしなかった。若い女性を拉致し、散々恐怖を与えたのちに八つ裂きにするなんて、手間のかかるやり方を選んだ。それはなぜ?」


 ここで初めてパトリシアに狼狽が見られた。


「当ててあげましょうか。おじさんを呪いから解放したいなんて、ただの建て前よ。あんたはただ自分より弱い者を痛めつけ、相手が苦しむ姿に快感を得ているだけの変態にすぎないのよ!」


 瞬間、鳴り響く銃声とアイの悲鳴、そして床に広がる血。事態は最悪な方向に動き出した。


「生意気な口を利く子にはお仕置きが待っているのよ」


 右太腿を撃たれ、絶叫しながらのたうち回るアイに、パトリシアは冷笑を浴びせる。


「騎士なんでしょ、ピイピイ泣くのはそれぐらいにしてこっちを向きなさい。面白いものを見せてあげるから」


 パトリシアは足元の血溜りにナイフの尖端をつけた。

 すると薄黒かった刃が見る見るうちに朱に染まり、それに比例して溜まっていた血の量が減って行った。まるで水溜りに落としたスポンジが水を吸収しているかのようだった。


「こんな感じで血を頂いているわけ。驚いたでしょ?」

「……ええ驚いたわよ。あんたの敬愛するおじさんは蚊に魂を捕らわれているわけね。こいつは傑作だわ」


 顔じゅうに脂汗を掻きながら、精一杯の憎まれ口を叩くアイに対し、間髪入れずパトリシアはナイフを握った左手を振り下ろした。

 再び響くアイの悲鳴。パトリシアが振り下ろしたナイフは、アイの左太腿に根本まで突き刺さっていた。

 僕はアイを助けようと試みるも、鎖に繋がれた状態ではどうにもならない。パトリシアを罵る言葉を延々と発しながら、両足をデタラメに振り回した。それはなんの意味もない無駄な行為にすぎず、無力さをパトリシアに嘲笑われただけに終わった。


「血が流れないでしょ。あなたの血がどんどんナイフに吸われているからよ」


 パトリシアは楽しそうにアイの太腿に刺さったナイフをグリグリ動かす。最初は痛みに喘いでいたアイだったけれど、その声は次第に小さくなっていった。

 ガクンと頭を垂れ、その瞳からは力が感じられなかった。


「失神しちゃったみたいね。痛みに耐えられなかったのか、それとも血を流しすぎたせいかしら。……どっちでもいいわね、彼女とのお喋りはこれまでにしましょう」


 パトリシアはアイの太腿に刺さったナイフを引き抜く。ナイフが抜かれたことにより、傷口からはドッと血が溢れ出る。血の海で眠るアイの姿に恍惚とした表情を浮かべつつ、パトリシアは横に構えたナイフをアイの咽元に宛がった。

 僕は、「やめろ!」と絶叫するも、彼女が耳を貸すわけもない。デタラメに体を揺すり、足をジタバタさせ、なんとか拘束から逃れようとするも、現実は甘くはない。

 なにか手はないか。こんなことならエリーから簡単な魔法の一つでも教わっておくのだった。

 怒涛のように後悔が押し寄せる中、僕のつま先がなにかを蹴った。

 それは円筒形の小さな塊で、尖端は丸みを帯びた鉛でできており、後ろは平たい金属に包まれている。銃の弾薬だ。先程パトリシアがポーチから落としたものだ。

 僕は体の横に転がってくる弾薬を後ろ手に掴むと、鎖の隙間に捻じり込んだ。

 銃の発射メカニズムは単純だ。引き金を引くと、内部にある撃鉄という細い棒が動き、薬室に装填されている弾薬後部の平たい金属部分に衝撃を加える。衝撃を受けた弾薬は、内部に詰められている火薬が着火し爆発が起こる。この爆発により発生したガスで、尖端の鉛部分を飛ばすのだ。つまり弾薬に衝撃を与えることができれば、銃がなくとも発射は可能なのだ。

 僕は迷わず手枷を床に思いっきり振り下ろした。

 耳がキーンとなるような轟音と、手に伝わる不快な衝撃。千切れた鎖が落ちる音と、驚愕するパトリシア。

 手枷は壊れなかったけれど、鎖からは逃れることができた。じゅうぶんだ。

 僕はパトリシアに体当たりし、アイから引き剥す。

 パトリシアが落とした銃を、使われないよう遠くに蹴ったとき、左肩に熱いものが走る。熱さはすぐに激痛に変わり、左肩を切り裂かれたことを理解した。

 パトリシアは黒水晶のナイフを構え、憎々しい表情で僕を睨んでいた。

 僕は後ろに回っていた手を背中まで上げると、肩に力を込め、手枷ごと無理やり前に回す。肩関節が外れ、ナイフで切られた以上の痛みが走るも、グッと涙を堪える。


「そんなに死にたいわけ。男の子を痛めつける楽しみはあとに取っておこうと思ったけど、先に天国に送ってあげるわ。すぐにグローベルクさんも向かわせるから心配しないで。もっとも、彼女が持てばだけどね……」


 パトリシアが言うとおり、アイの出血は激しい。一刻も早く医者に見せなければ命にかかわる。

 やるっきゃない。相手は殺人鬼だ、手加減なんかいらない。僕が足元に落ちていたハンマーを掴み殴りかかるのと、パトリシアがナイフを振るうのは同時だった。

 僕が振り下ろしたハンマーはパトリシアの左腕に直撃し、パトリシアが振るったナイフは僕の左わき腹を深く切りつける。

 不思議と痛みはなかった。脳が興奮状態のとき、痛みが麻痺するという話は本当らしい。なんにせよ痛みがないのは好都合だ。思いっきり行ける。

 もう一発ハンマーを食らわせようとしたところ、パトリシアの左手に払われ、ハンマーを落としてしまった。

 反射的に拾いたくなる気持ちを押さえて後ろに飛び退くと、先程まで僕の顔があった位置をナイフが一閃する。


「意外にいい動きね。なら作戦変更よ。まず足を破壊して動きを止めたうえで、たっぷり堪能させてもらうわ」

 

 パトリシアはナイフを舌で一舐めする。

 ……しめた。僕は怯えたような素振りで後退りしつつ、心の中でほくそ笑む。

 パトリシアがこちらに向かって床を蹴ったのに合わせ、僕は左足を前に出した。足の一本くらいくれてやる。

 思惑どおり彼女は僕の垂らした釣り餌に食いついてきた。太腿にナイフが沈むのと同時に、僕は横から腕を振るい、手枷でパトリシアの顔を殴打した。

 右からの一撃で彼女の頬が砕ける感触。振り切った手を戻すように左からの一撃で、彼女の鼻から血が飛ぶ。再度右からの一撃で歯が一本落ち、トドメとばかりに渾身の力を込めた左からの一撃を、彼女は右腕でガードした。

 あり得ない。手枷は金属製だ。普通の人間なら立っているのも辛いはずだ。

 顔中血塗れのパトリシアは、驚愕する僕に向かって口の両端を吊り上げた。

 ハッとしたときは手遅れだった。左肩から右腹にかけ、ナイフの冷たい感触が走る。

 溜まらず後退したものの、かなり深く切りつけられたようで、夥しい量の血が体から滴り落ちる。


「人の体は騙しやすいのよ。ちょっとした薬を服用すれば痛覚を消したり、筋力を増幅させたりできちゃうわけ。あなたの攻撃なんか痛くも痒くもないのよ」


 パトリシアは顔についた傷を指で乱暴に擦って見せた。まるで痛みを感じているようすはない。

 ドーピングなんて反則だ。こっちにはまともな武器もないのだ。圧倒的に不利だ。

 しかし泣き言が許される状況ではない。脇で横たわるアイは顔面蒼白、文字通り血の気が引いている状態だ。たまに痙攣のように体がピクリと動いているのは、大量失血の症状だと思われる。アイの命は僕のがんばりに委ねられているのだ。

 僕はパトリシアに向かって突撃し、がむしゃらに手枷を振り回した。そこには作戦なんてない。アイを救いたい。ただその思いだけが僕を動かしていた。

 僕が振るう手枷をパトリシアがナイフで受け、パトリシアが振るうナイフを僕が手枷で受ける。

 一進一退の攻防とは言えなかった。パトリシアは巧みなナイフ捌きで僕の体を徐々に切り裂いていった。手首を傷つけられ、頬を切られ、ナイフにばかり気を取られていると脇腹に蹴りが飛んできたりと、パトリシアとの力量差は歴然だった。ジャンからナイフの使い方を教わったというのは本当のようで、ド素人の僕が負けたのは当然の結果と言えた。

 床に倒れた僕を見下ろしながら、パトリシアは狂ったように笑っている。血塗れの顔で狂笑するさまは悪鬼そのものだった。

 不思議と恐怖は感じなかった。これは僕の意識が途切れかけているせいだと判断される。眠りに落ちる寸前、思考が真っ白になる状態に似ている。


「さあ終わりよ」


 ぼんやりとした意識の隅に、パトリシアの声が沁みてくる。


「ええ、あなたがね」


 どこからか、凛とした女性の声が聞こえてきた。


「そうですぅ。トモ君はまだ終わりませんが、あなたは終わりなのですぅ!」


 おっとりした女の子の声も聞こえてきた。

 ……どうやら助かったようだ。渾身の力で首を動かし、ドアの前に立つエリーとシャロ姉さんの姿を確認する。

 二人の登場に、パトリシアは笑いを凍りつかせる。


「神妙にすることね、パトリシア・コーウェン。あなたの悪事はすでに露見しているわ」

「もうすぐおまわりさんたちがいっぱいここにくるですぅ。抵抗すると裁判で不利になりますから、大人しくお縄になることを勧めますぅ」


 パトリシアは叫び声を上げつつ、ナイフを構えて二人に向かって行く。

 シャロ姉さんはこれを軽々と素手で往なし、そのままパトリシアを背中から羽交い絞めにする。


「今よエリー!」


 エリーは動けないパトリシアの肩に手を触れる。瞬間、バチンと電撃が走り、パトリシアはグッタリと床に崩れ落ちる。


「お仕置き完了ですぅ。いえい」

「早くトモ君とアイを!」


 倒れたパトリシアは放置し、二人は急いでこちらに走ってくる。


「オレは大丈夫です。それよりアイを……、早く病院へ……」

「エリー、アイの具合はどう?」

「問題ありません、ちゃんと息をしています。治癒魔法でなんとか止血しましたので命の危険はないと思いますぅ」


 エリーの言葉にホッと胸を撫で下ろしたとき、脇で物音がした。

 見ると電撃で倒れたはずのパトリシアが起き上がり、身から溢れるほどの憎しみをこちらに向けてきた。


「意外にタフですねぇ。普通なら一時間は動けないはずですのにぃ」


 これもドーピングのおかげだろう。ただダメージは受けているようで、両肩は力なくダラント垂れ下がっている。


「今度は私がやるわ。少々荒っぽい手で眠ってもらいましょう」


 そう言ってシャロ姉さんは腰のレイピアを引き抜いた。パトリシアは一瞬ナイフを構える素振りを見せるも、すぐに後ろを向いてドアから走り去って行った。


「追ってくださいシャロ姉さまぁ! ここはわたしが担当しますですぅ」

「その必要はないわ。私たちの第一目的はトモ君とアイの救出よ。すでに森の中に警官が展開しているはずだから、やつの逮捕は彼らに任せましょ」


 シャロ姉さんの肩を借り、僕は上体を起こす。


「ありがとうございます」

「まず謝罪でしょ。独走により、みんなに多大な心配をかけたことを深く反省しなさい」


 コツンと、シャロ姉さんは僕の額を指で小突く。


「こんなにボロボロになって。私とエリーが間に合ったからよかったものを、あと一歩遅ければ被害者リストに名前が載っていたところよ。ルーチェさんに感謝しなさい」


 ルーチェさん? なぜルーチェさんの名前が出るのだ?


「トモ君が森に入ったことを教えてくれたのが彼女なのよ。『マイザさまがステアー地区の森に入って行くのを見ました。もしかしたらお嬢さまは森のどこかにいるのかもしれません』ってね」

「シャロ姉さまからその話を聞きましたところ、そういえば森にはワイン工場がありぃ、そこのオーナーが犯人のお父さんだったことを思い出したんですぅ」


 さて、どうしたものか……。僕は心の中で嘆息を漏らした。

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