殺人鬼と黒いナイフ
午後は来客もなく、僕らはゆっくりとした時間を本部内ですごした。
セシールさんは少々早めに仕事を切り上げることを決断し、いつもより一時間ほど早く本部のシャッターを降ろし、僕らは帰宅となった。
いつものようにアイを自転車の後ろに乗せ、二人で帰路につく。
「帰る前に店に寄ってくれない。今日ルーチェから買い物を頼まれてるのよ」
アイの要望に従い、僕はスーパーに自転車を向けた。
スーパーではカニスの日を祝う菓子細工や、パーティー料理が棚いっぱいに並んでおり、店に訪れる客たちはそれらを大抵一品は買い物カゴに入れる。
「毎年この時期はすごいわね」
「カニスの日は食料品の売り上げが倍増するんだとさ。主婦たちにも楽をしてもらうため、夕飯は出来合いの料理ですませるのがセオリーだからな」
「ふーん。あっ、あのキャンディおいしそう。買って帰ろう」
アイは棚のキャンディを二つカゴに入れた。この時期に売り出される伝統的なキャンディで、フェンスター公国設立の立役者となったフランソワ公の顔を模したデザインになっている。
フランソワ公について説明すると、それは同時に公国の歴史に触れることとなる。
フェンスター公国は元々、隣接するテロール帝国の一部だった。帝国の一部地域が公国として独立したのだ。テロール帝国フェンスター地方。今から約百年前、この地方の領主だったフランソワ公が帝国皇帝に反旗を翻したことがその発端とされている。民が独立を求め、フランソワ公がその先頭を買って出た。そんなもっともらしい理由づけがなされているものの、真相は不明だ。この辺りは専門家の間でも意見が割れているようだ。
まあ、そんなこんなで独立戦争が勃発し、帝国は内戦状態に突入してしまう。一地方が帝国本国に敵うはずがないように思えるも、僕らの先祖はガッツ溢れるやつらだった。
なんと帝国の猛攻に十年抗ったすえ、相手の譲歩を引き出すことに成功してしまったのだ。
譲歩案というのは、フェンスター地方の独立を認める代わり、公国の中央議会に帝国官僚を含めるという案だった。まるっきり赤の他人になるのでなく、遠くの親戚程度の関係は保っておくということだろう。
フランソワ公がこの案を飲んだことにより、フェンスター地方はフェンスター公国として独立、正しくは仮独立をはたしたのだ。
その仮独立が完全な独立になったのが今から三十年前だ。どういった手段を使ったのか、フェンスター公国議会は、中央から帝国官僚を追い出し、不可侵条約を結ぶことに成功したのだ。かくしてフランソワ公の夢は七十年目にして叶ったのだった。
公国では政治的勝利を記念し、条約が結ばれた日を祝日とした。それがカニスの日というわけだ。命名の由来については謎だが、多くの公国民は気にしていない。カニスの日イコール大型連休、その程度の認識だ。
「そろそろルーチェの買い物をすませようかしらね」
アイはポケットからメモを取り出す。内訳はチキンにニンニク、料理酒にローズマリー。なんとなくグローベルク家の今夜の献立がわかった。
「今夜はハーブチキンだな」
「正解。ルーチェのやつ、自分の好物でメニューを決めてるのよ」
ルーチェさんはハーブチキンが好きなのか。
「まあハーブチキンは私も好きだから問題ないけど……。オーロラーソースがなんともいえないのよね」
「ハーブチキンにオーロラソースをかけるのか? グレイビーソースじゃなくてか?」
「そうなの? そもそも私の家ではハーブチキンを食べる習慣はなかったのよ。ルーチェがうちのメイドになってから作り始めたのがきっかけだから……。そっか、一般的にはグレイビーソースをかけるのか。ルーチェのやつ間違えてたのね」
「間違いとかじゃない。ハーブチキンは元々テロール帝国で食べられていた料理で、地域ごとに味つけが異なってたんだ。帝国の北側ではオーロラソース。フェンスターがあった南側ではグレイビーソースが好まれていたってだけだ」
「へえ、知らなかった。じゃあ今度はグレイビーソースで食べてみようっと」
アイが納得したところで、買い物を再開する。
レジで精算をすませ、自転車に戻ると、外は若干暗くなっていた。意外に長い時間スーパーに滞在していたらしい。
「早く帰らないと夕飯の支度に支障が出るな」
「そうね。ルーチェも待っていることだし、近道を行きましょう」
アイの家があるリバーヒル地区へは、表通りを進むと大きく迂回し、遠回りになってしまう。僕はやむなく自転車を裏路地に向かわせた。
「ヤックハルスに襲われたりしなきゃいいけどな」
「むしろ好都合よ。返り討ちにして警察に突き出してやりましょう」
さして警戒することもなく、僕はペダルを漕いでいた。
もうじき裏路地を抜けようかという頃、アイが、「ちょっと止めて」と制止をかけてきた。
言われたとおりブレーキをかけると、彼女は自転車から降り、横に伸びる細道を鋭い目つきでジッと見つめている。
「あっちから血の臭いがする……」
彼女の言葉は寒気を抱くにじゅうぶんだった。
夜、裏路地、血の臭い。そこから連想されるものはただ一つ……。
僕とアイは互いに小さく頷いたのち、裏路地に足を進めた。
細道に入ると、僕の鼻でも臭いが感じられた。鼻孔を刺激する錆びた鉄のような臭いに咽ながら、どんどん濃くなる闇の中に踏み入ると、ついにその発生原に到着する。
……多分、あの遺体が横たわる地面は真っ赤に染まっていることだろう。周辺のレンガの壁も真っ赤なら、石畳の隙間から生える雑草も真っ赤になっているに違いない。
「そこのゴミ箱の影にいるやつ、一つ質問に答えてちょうだい。……これはあなたの仕業なわけ?」
アイの注意は、遺体ではなく脇にあるダストボックスの方に向いていた。実際にダストボックスの影でなにかが動き、僕は固唾を呑む。
出てきたのは見るからに怪しい人物だった。雨でもないのにレインコートを纏い、目深に被ったフードで顔を隠している。
その人物は質問には答えず、僕とアイの方を向いたまま仁王立ちしている。正面からでもフードの奥は確認できない。
「あんたが最近世間を騒がしている殺人鬼ね。ヤックハルスだかなんだか知らないけど、私に合ったのは運がなかったわね。ふん縛って警察に突き出してやるから覚悟しなさい。ついでに言うと、あんたには二つの選択があるわ。抵抗したせいで怪我を負った状態で警察に突き出されるか、大人しく投降して、五体満足な状態で警察に突き出されるか」
両手の拳を打ちつけながら、不敵に語るアイだったものの、次の瞬間、彼女のようすが変貌する。
レインコートの人物は抵抗する方を選択したらしく、懐からナイフを取り出した。そしてそれを見たアイが驚愕の表情を浮かべる。
取り出したのは黒いナイフだった。黒水晶のように真っ黒な刀身と、金の細工が施された悪趣味かつ禍々しいナイフだ。月明かりが出てきたおかげで全貌が望めた。
アイは叫んだ。大声で叫んだ。声高らかに叫びながらレインコートに殴りかかって行った。それは普段のアイらしくないデタラメな突進だった。レインコートは易々とアイの拳を回避する。
勢い余って転倒するアイ。レインコートは無防備なアイに向かってナイフを振り降ろす。
アイは地面を転がり回避を試みるも、間に合わず右腕に刃を受けてしまったようだ。
「顔を見せなさい! この薄汚い暗殺者が!」
右腕の傷も構わず叫ぶアイ。それは鬼気迫るものを秘めてた。
やばいんじゃないか、と思い始めたとき、不意に周囲が騒がしくなる。
「悲鳴はどこからだ」「裏の路地だ」「警察を呼べ」と、人の声が次々聞こえ始め、いくつかの足音がこちらに近づいてくる気配がした。近くの人々が異変に気づいたらしい。
レインコートは真っ先に反応した。踵を返すと、足早にこの場から走り去って行った。
「待ちなさい!」
「バカ、お前怪我してんだぞ。手当の方が先だろ」
追おうとするアイを僕は引き止めた。
「邪魔しないで! ようやく見つけたんだから。黒水晶のナイフよ! あいつは黒水晶のナイフを持っていたの!」
相当興奮しているようで、まともに話ができない。とにかく追わせまいと、僕はアイの体を押さえつける。
そうこうしているうち、数人の男性がやってきて、僕とアイ、そして横たわる遺体を見つけ血相を変える。
「殺人鬼です! さっき向こうに逃げて行きました。あと彼女が怪我をしています!」
僕は必死に状況を説明する。男性たちはあたふたとうろたえ始める。
「ヤックハルスだ! ヤックハルスが出たぞ!」
夜の帳が降りる寸前の街中に、男性たちの叫びが響いた。




