8話 伯爵の娘、旅館に泊まる(2)
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ナタリアの周囲のお付きの者たちも、ハーブティーに感嘆の声をあげていた。
「なんて洗練された味なんだろう」
「本当にいいものを使ってるんだな」
「それだけじゃない。淹れ方も実に上手いんだ」
ナタリアの父親の伯爵も例外ではない。
「ナタリアちゃん、どうだい? アリマー山脈にある宿とは思えないだろう?」
いいものをいくつも賞味してきた伯爵だからこそその上質さはすぐにわかる。
「そ、そうですわね……わたくしもそれは否定しませんわ……」
すぐに褒めるのも癪なので、ちょっとためらったような表現になってしまった。
それにナタリアにとって、お茶よりもこのモンブランという奇妙なお菓子が気になる。
(どうやら複数のクリームを使っているようですけれど、どこのお菓子なのかしら。田舎者が作れるものでは絶対にないし、もしかして、今、宮廷で流行っているのかしら……)
フォークで一口目を試す。
思わず、口を押さえた。
信じられないような味が口内に広がる。
(甘い! だけど、決してしつこい甘さではありませんわ! ほのかに栗の渋さが次の一口の邪魔にならないように手伝っている!)
二口目には黒豆という豆がフォークに乗った。
(この黒豆もまた違う甘さを出していますのね。何層にも違う甘さがあって、それが調和していますわ……)
周囲の人間が談笑していることがお茶を飲みながら信じられない。
それどころではない。
会話を楽しんで、お菓子に集中できないのがもったいない。
このモンブランというお菓子、あまりにも完成されすぎている。
そして、大きな栗のところにフォークがぶつかる。
栗のシロップ漬けはナタリアの大好物でもあった。
その栗を口に入れた途端、ナタリアの顔がすっかりゆるんでしまった。
(至福ですわ!)
どの部分も甘さが基本で、かつ、ほどよい。
(これは間違いなく王都から一流のお菓子職人を連れてきていますわ)
そこにピアノの音色が流れてきた。
奥でピアノが置いてあり、それをピアニストが演奏していた。
聞いたことがない曲だが、ハーブティーの相乗効果で気持ちがどこまでも落ち着く。
もはや、気持ちは王都の社交界そのものであった。
(いえ、王都でもこんなにすべてが洗練された空間はありませんわ)
少し、目を閉じて、ナタリアは安らぎを感じた。
これまでも、ナタリアは貴族の令嬢として、贅沢をして暮らしていた。
けれど、こんなにもくつろいだ気分になったことは一度もなかった。
残りのモンブランを平らげると、ナタリアは少しまどろむことにした。
おいしいお茶を飲み、美しい音楽を聞いて、午睡を楽しむ。
まさに貴族の象徴とでもいうような時間だった。これ以上の幸福など、どこにあるだろうか。
…………。
……………………。
「さて、ナタリアちゃん、そろそろ部屋に行こうか」
伯爵の声でナタリアを目を覚ました。
起こされたせいでナタリアの気分は少し悪くなる。
「はいはい、じゃあ、部屋に参りますわ」
「それでは、別館のほうにご案内いたします」
女将とかいう女性従業員で一番偉そうな女が伯爵とナタリアを先導した。たしか、息吹という名前だったはずだ。
執事などほかの職員は別の部屋に泊まるのだ。
別館はうねうねと渡り廊下を歩いていった先だった。
わずかな段差もスロープになっている。これは転んだりしないための配慮だろうか。
たしかに老齢の貴族が階段で難儀している様子はナタリアも記憶にある。
さらにひさしのついた庭に面した廊下を進んだところにやっと別館はあった。
「こちらが別館、コスモスの間でございます」
そこはこぎれいな洋室だった。
テーブルのある応接スペース。
ベッドルーム。
その他、窓に面した部屋。
二人で一泊するには充分な広さだ。
窓のほうに行くと、庭がよく見える。この部屋に泊まる人間用の庭だ。
そして、庭に面した廊下伝いに行くと、不思議なスペースがある。
トイレとか洗面所もあるが、それだけではない。まったく別の部屋がある。
そこを開くと、庭に出るのだが、その前に――
「お風呂がこんなところにありますわ……」
木製の浴槽がちょこんと置いてある。
一応、扉で仕切られていて、部屋の外側にあるので、露天風呂ということになるだろうか。
今もお湯がその浴槽に流れこんでいて、お湯をたたえている。
「そこはこの部屋の方専用の源泉かけながしのお風呂でございます」
後ろには息吹が立っていた。
雰囲気からナタリアは最高位のロイヤルメイドと同じ空気を感じた。
「お庭の風を感じ取りながら、汗を流していただける施設です。もちろん、外からのぞかれるご心配はありません。落ち着かれないということでしたら、部屋にお風呂もございますし、大浴場も利用できます」
「なるほど、たしかに好事家の貴族は喜びそうな趣向ですわね」
素直に褒めると単純な人間と思われそうなので、そんな表現になった。
やはり、この宿はあまりに物質的に恵まれている。
そこに泊まれる自分もまた恵まれている。
なのに――
ナタリアはある種の寂しさを感じてしまった。
「……いい宿なのは認めますけれど、このままだと一日、結局退屈してしまいそうですわ」
六十を超えている父親とはどうしても盛り上がる話にもならない。
ある程度はやむをえないことではあるのだが。
「見てのとおり、お父様はいいお年なので。楽団でも呼んでこないと時間を持て余すことになりそうですわ。さすがにこんな田舎の宿に楽団まではいないでしょう?」
「そうですね。楽団はいないのですが」
人差し指をくちびるに当てて、なにやら息吹は考えているようだった。
「遊び相手なら、ご用意できますよ。もしお夕食がおすみになって、まだ退屈をされていらっしゃるなら、本館のほうにお越しくださいませ」
「まあ、覚えておきましょう」
夕食まで、ナタリアはその部屋風呂に身をよこたえていた。
はっきり言って、この宿はこれまで泊まった中でも最高水準だ。貴族の屋敷を超えているところも多い。
だが、自分の中で何かが物足りない。
まだ物寂しい気持ちは残っている。
宿に不満があるのではない。
むしろ、この宿でそういう物足りなさを感じるということは――
自分の人生のほうに何らかの欠落があるということだ。
おそらく、贅沢な暮らしだけでは代わりにならない何かがある。
むしろそう感じること自体が贅沢なのだ。満ち足りているからこそ、そのほかの何かをナタリアは求めてしまっているのだった。
(わたくしは一体何を必要としているのかしら)
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