10話 伯爵の娘、旅館に泊まる(4)
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ナタリアは、まず冷たいお茶をごくごく飲んで、それから大浴場の露天風呂で汗を流した。
公衆浴場の経験もないので、葵にも同席させている。
長旅をする女性はまだまだ数が少ないのと、温泉が混む食事のあとに卓球で盛り上がったのとで、ほかの客はいない。
二人の独占状態だ。
「身分もばらばらの何人もの人間が同じお風呂に入っている、なかなか変わった空間ですわね」
「私は生まれた時から見てるから、何も違和感はないんですけどね」
湯船につかって、二人は話をしている。
ナタリアがこれだけ庶民と話をしたのは初めてのことかもしれない。
「ところで、あのタッキュウというのは有名なスポーツですの?」
「温泉地には定番ですね。本当はお風呂あがりにするスポーツなんですが」
「入浴後に汗をかくようなことをするのは不合理ですわ」
「たしかにそうですね。まあ、温泉卓球だともうちょっとゆるいことが多いんですけどね」
卓球部だったので葵はまあまあマジになってしまう。
「あとで、あの台とラケットの規格を計らせてくださいまし。領地にも作って普及させますわ」
「あ~、あの軽いボールって工業製品だから作りづらいんですけど、それはお送りすればいっか」
卓球のボールも箱を開けると、なぜか補充されているのだ。原理はよくわからないが、ありがたいシステムだ。
これ以降、カラコニア伯爵領にはタッキュウというスポーツが流行ることになる。
そして、ここから王国全土にも普及していく。
ルールがわかりやすいこと。
室内でもできること。
その二点からとくに上流階級の間ではなくてはならないものになったのだった。
「あと、この大浴場もいいですわね。なんというか、心が広くなるというか」
ちょうどきれいな月が浮かんでいる。
この世界はネオンサインなどもないので、星も実によく見える。
「そうおっしゃってくれるお客様は多いですね」
にこやかに葵は笑う。
「あなたって、なんだか幼く見えますわね」
たぶんナタリアよりけっこう年上のはず、それこそ結婚してもいいような年齢だと思うのに、あまりそんな印象を受けない。童顔だからだろうか。
「あ~、そういえば東洋人って幼く見えるらしいんですよね……。お酒はなんとか飲める年齢なんですけど」
「年齢制限でもありましたの? 子供でもちょこっと飲む者もいますけれど。酔いが速いからあまりお勧めされてませんけれど」
「あ~、そうですね。この国にはそういう法律がないんですね」
「あなたの住んでいた国はいろいろと変わっているみたいですわね」
はっきりとどこの国から来たのかはナタリアは聞いてないが、服装も建物の様式もかなり異なっているから、外国ということはすぐにわかった。
「そうですね。この国に来た時は本当にびっくりしました。わからないことばかりで」
その言葉がちょっとナタリアにはひっかかった。
「少しぐらいなら、わからないのもいいかもしれませんけれどね」
ナタリアは貴族の娘として、何から何まで予定されたように生きてきた。
わからないものなんてナタリアの前に出てきてはいけなかったのだ。
だから、未知のものに触れるという経験自体がナタリアにはほとんどない。
だからといって、庶民になりたいというのでもない。
冒険者をやってみたいというのでもない。
そんなことができるだなんて思ってない。
ただ、もっといろんなものを見たり知ったりして、わくわくしたかった。
「ですね。私も最初のうちはどうしようかと思いましたけど、意外と自分たちができることが多いって気づいて、そしたら勉強しないといけないことが多い分、楽しくて」
また、にこりと葵は笑みを浮かべる。
そうか、この笑い方が屈託ない少女みたいなのだとナタリアは思った。
「こんなふうに笑顔でお仕事ができてます!」
ぼうっとナタリアはその顔をあてられたように見つめていた。
こんな元気な顔になれたことなんて、ほとんどなかった。どうしても、貴族の娘としてすましていることが多かった。
そして、そんな顔を見ていると、なぜだかナタリアも表情がゆるんでくるのを感じた。
「葵……さんでしたっけ?」
「はい」
「また何度も泊まりに来ますから、わたくしと友達になってくださらない?」
宿の使用人なんて何度も見てきたけれど、これまでの使用人と葵はまったく違って見えた。
それこそ、自分の悩みさえ打ち明けたくなるような何かがある。
「はい! 喜んで!」
普通の庶民なら、めっそうもないと逃げ腰になるところだけど、葵は全然引かない。
「私、お客様とそういったつながりが持てるような女将になるのが夢なんです。女将のお母さんのところには、毎年、年賀状を送ってきてくれるお客様もいますし、もちろん毎年、家族で泊まりに来てくれるお客様もいらっしゃいますし」
葵の顔は理想に満ち満ちていた。
じっと、ナタリアはその顔を見ている。
自分のこんな顔ができたら、きっと人生楽しいだろうな。
それは貴族だとかどうとかそういうこととは関係のない楽しさだろうな。
「そういうのを見る時、宿って寝て、食べるだけの場所じゃないんだって実感するんです。もっと特別なところなんだって思えるんです」
「あなたが立派な人間だということはわかりましたわ」
「立派どころか、まだまだミスだらけですけどね。でも、ナタリア様には特別なお客様になってもらいたいです」
「違いますわよ」
ナタリアはすまし顔で訂正する。
「お客様ではなく友達になれとわたくしは言いましたわ」
◇
出発の日、ナタリアはどこか晴れ晴れとした顔をしていた。
それは父親の伯爵もすぐにわかった。
「どうやら、この宿を気に入ってもらえたようで、よかったよ」
「お父様、今度、わたくしにも政務を教えてくださいませんこと?」
「せ、政務をかい? ま、まあ、問題はないけれど……」
「わたくし、もっといろんなことを勉強したいと思いますの。そういう女性のほうが輝いていますから」
「森さと」のロビーには日本語で「一期一会」と書かれた書が飾ってある。
その下にセルフィリア王国の言葉で説明がある。その時、その人に会うことが最後かもしれない、だからすべての出会いを大切にしなさいという意味だと書いてある。
宿に泊まる。連泊しなければたったの一泊二日のことだ。たいていは丸一日の時間ですらない。
でも、その時の出会いで人の人生が変わることだってあるのだ。
貴族のお嬢様編は今回で終わりです。次回、旅館の土産物コーナーの話を1話やって、冒険者のパーティーが「森さと」に泊まりに来るシリーズをやるつもりです。
なんとか今日中にもう一回更新したいです。




