第1章 3-3 リネット
「スターラを見殺しにする気か、なんとか船を出してくれ!!」
スターラ、とは、ストゥーリアのことである。本来はスターラといい、サラティス語でストゥーリアというのである。
(そういえば、わたし、ストゥーリア語は分からないなあ……)
カンナは、ぼんやりとそんなことを考えた。
ごった返す事務所を後にし、とにかく港へ向かってみた。
確かに風が強い。いやな風だ。また、風が強いわりに雲は晴れず、曇天が次第に濃くなってきている。ザバザバと白波がたち、船はみな帆を畳んで、きつく綱で係船柱に固定されていた。
「残念ねえ、アーリー。嵐が過ぎるのを待っていたら、本格的に冬になっちゃうかもお。冬の海はもっと危険よお。今年はあきらめて、サラティスに帰りましょうよお」
マレッティが突然、元の調子を取り戻したのでカンナは驚いた。
「いや、なんとしてでもストゥーリアへ行かなくては。今年の冬に、竜どものストゥーリア侵攻が始まるやもしれない」
「えっ、そうなの!?」
マレッティはわざとらしく目を丸くした。
「手分けして、なんとか船を出してくれる船長を探すんだ。二人とも、夕刻にここで集合だ。いいな」
アーリーがそう指示を出したとき、いつのまにいたものか、すらりと背の高い、細身で短髪の栗毛の少年が厚手の綿生地の服の上に毛織の上着をはおって空を見あげたまま、
「今回は無理だよ。特に、これは北へ向かうのは難しい風さ」
意外に涼しい声でアーリーへそう云った。
少年と思われたが、声を聞くに少女のようだった。
「だれよお、あんた」
胡散臭げにマレッティが少女をみつめた。少女はよく日に灼けた顔から真っ白い歯をみせて屈託の無い笑顔で、マレッティの鈍く光る視線を受け止めた。
「ボクはリネット。パーキャスの水先人。小さいけど船ももってるから、船長もやってる。いまは、あのタータンカ号でスターラへ行くのに航海士として雇われてるんだけどね」
アーリーが前に出た。
「船をもっていると云ったな」
「だめだよ、船はパーキャスだ。それに、どっちにしろこの風じゃ出せないよ」
「そんなに難しいのか?」
「三人はバソから来たんだろう? どうだった? パウゲン連山にも嵐がきてなかった?」
さすがのアーリーも驚いた。
「どうして知っている」
「風の流れが複雑なんだ。とってもね。見たことが無いくらいに。大陸からの風と、海風が混じっている。連山から吹き下ろす荒風が、ずっと雲の上で大きく渦巻いて、その影響でまだ遠くの海上にあるはずの冬の嵐が引き寄せられている。こんなことは、滅多にない。ひいばあちゃんから聴いた話を信じるに……九十年ぶりだね」
アーリーが無言で空を見上げ、小さく舌を打った。
「アーリー、こんな得体のしれないやつの云うこと、信じるのお?」
と、いつものマレッティなら云うところだが、今は黙っていた。船が出ない方が良いからだ。
「とにかく、悪いことは云わないよ。この嵐が過ぎても、すぐ真冬になるというわけじゃない。ぎりぎり、出発できるかもしれないよ? 過ぎるのを待った方がいい」
「いつ、過ぎる?」
「三日……四日……いや、連続して嵐が来てるから、完全に風が納まるには余裕をもって六日から七日ってところだね」
「冗談じゃない、リネット。七日も待ったら、北風にかわっちまうわ。これ以上遅れたら大損だし、スターラじゃ、みんなこの荷物を待ってるんだぞ。冬が越せなくなっちまう」
「船長」
いかにも海の男という、日と潮に灼けつくした風貌の、小柄だががっしりとした中年が現れた。額が広く禿げあがり、そのかわりぼうぼうに伸びた黒髭が潮風を受けている。
「だけど船長」
「リネット、おそらくこれが最後の便だ。分かるな」
「わかるけど、沈んでしまったら同じだよ」
「そこを沈まないように進めるのがお前の仕事だろう。ちがうか?」
「沈まないためには、出ないことさ」
「リネット……お前、何年船に乗っている」
「……七つからだから、十年目かな」
「おれは十五から四十年だ。ひたすらウガマールとベルガンを往復している。この時期の嵐は確かに珍しいが、嵐の規模としてはこれくらいは経験がある。スターラの代官の命令もある。明日の朝まで様子を見て、風が強まってなかったら、出てみようじゃないか。どうだ」
「まあ、船長がそう云うのなら……」
リネットはあっさりと承諾し、笑みを浮かべてその場を去った。
アーリーはすかさず船長へ多めに金を払い、三人分の乗船枠を買った。カンナは、マレッティの顔が見たことも無いほどに青ざめているのに気がついた。
翌朝。風はややおさまっているように感じられた。リーディアリード港湾事務所の役人は引き留めたが、出港の判断及び責任は船長だ。ウガマールから人と主に食料を運ぶ貨客船タータンカ号は、暗雲と強風の中を北へ向けて帆を張った。




