第1章 3-1 不安
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バソ村では、気候か気流の関係か、果ては地形的なものなのか、それは不明だったが、竜の出現がサラティスやストゥーリアと比べて段違いに少なく、大量の牧畜が行える数少ない土地だった。豚、牛に山羊に羊と、数々の加工肉に加工乳製品は、サラティスではまさにバスクの収入が無いと滅多に口にできないものばかりだった。またここでは、この時代、移動や耕作に貴重な馬も生産されている。
新鮮なバソ豚の生ハムに、名物のバソ牛やバウゲン山羊のチーズ類とそれらの肉料理を鱈腹食べ、ワインを飲んでマレッティはご機嫌だった。サラティスでも塔では同程度の食事は出ていたが、何がちがうのだろう、異様にうまい。カンナは生まれて初めて、このような味の濃いものを食べた気がした。すべてのものが、味と食味の芳香の塊だった。パンまでうまい。
ちょうど食事を終えるころ、アーリーが村の集会所より戻ってきて、二人の席へつくと、大量の肉を注文して届く順にバリバリと音を立てて頬張り始めた。骨つきバラ肉のステーキなどは、骨ごと砕きかじる始末である。カンナは、このアーリーの一回の食事だけでいったい何カスタが飛ぶのだろうと思ったこともあったが、今はもう慣れてしまった。彼女の数十年に及ぶバスクとして稼いだ個人的な蓄えは、想像と常軌を絶している。
「で、アーリー、山はどうなの?」
「無理だ。カンナはおろか、我々でも遭難する危険があるほどの大嵐だ。季節外れの。一寸先見えぬ猛吹雪が、もう十日も続いているという」
「嵐がおさまるのを待ったらあ? 遠回りよりは早いでしょ」
「嵐の次は、すぐさま厳冬の寒波が来る。カンナでは、越えるのは無理だろう」
「じゃ、どうするのよお」
「船で行こう」
「ふねえ!?」
マレッティの顔が、一瞬の驚きから見る間に苦しげに歪んだ。
「迂回するのならば、船便の方が早い」
「そ、そうでしょおけどお……」
「カンナはどうだ。どう思う」
いきなりふられ、カンナは蛇に呑まれるカエルめいた声を発した。
「ア、アーリーさんに従います」
正直、船も山越えも、まるで想像ができないので、そう云うしかないのが本音だった。
「では早い方がいい……明日、街道を西へ出発する」
アーリーは有無を云わせずそう発すると、最後の肉片にかぶりついた。
ひとっ風呂浴びたアーリーが、その火照った身体をほぼ薄い下着のみで寒風へさらし、広間のテラスから星空の下の巨大な連山の影をみつめていた。ダールとして赤皇竜の血を引くアーリーは、元々体温が異様に高く、この程度の寒さではびくともしない。紅い火のような髪を後ろでひっつめて、ふだんと印象がちがって見えた。カンナも、テラスへ出る。冷たい空気が肺へ刺しこんできた。
「あ、あの、アーリーさん……」
「どうした?」
「あの……わたし……」
「なにが不安だ」
看破され、カンナは驚いた。寒々しい藍色の月光に包まれたアーリーの視線に、胸が苦しくなる。
「不安を力に変えろ。ガリアを信じろ。己を見失うな。あの黒い剣は、君自身だ。一切の迷いを出すな。黒剣も迷う」
アーリーはそれだけ云うと、夜風へ温泉と竜と人の混じった独特の香りを残し、部屋へ戻った。
カンナはアーリーの残り香に心臓が早鐘を打ち、興奮して眠れなくなったので、名残の湯にしばし浸かって精神の高揚を沈静させた。
よく見ると、ここの湯は薄い乳白色をしていた。硫黄の淡い香りと、流れ出る湯の音。その薄い漆喰色が自分のミルク色の余人と異なる肌にまとわりつく感覚に、カンナは芯から痺れた。
よくよく鑑みるに、いままで考えようとも思わなかったが、自分の、このどの人種とも異なる肌合い、髪色、それに濃翠の眼の色は、本当に人間なのだろうか。自分たちの村では、確かに父母も一族も他の村人も、同じ部族は同じ肌と髪をしていた。
と、記憶していたが、村を出てたしか既に七年。ウガマールからサラティスに来て、父母の顔もおぼろげになっている自分に恐怖した。
「わたしは……誰なんだろう」
カンナの不安は、この一方的に寒さの厳しくなる旅路でも、新たな竜との戦いでも、マレッティのことでもなかった。
翌日、カンナも二人と同じ厚手の毛長竜の毛入りマントを買い、糧食を補給して、バソ村から街道を西へ出発した。天気は、連山より張り出る重厚な雲が果てしない曇天を形成し、いまにも雪が降りそうなほど冷え込んでいた。今日も山は猛吹雪なのだろう。こんな天気では竜すら出ない。




