第1章 2-3 マラカ
「シャ、シャ、シャ……ようやく行っちまいましたね……カ、ン、ナどの!」
「うわあ!!」
いままでどこにいたのか。そしてその、聞き覚えのあるハスキーな声と妙な笑い方。
「マラカ……さん」
確かに、湯殿には二人の他には誰もいなかったはずだった。
それが、いつのまにか相変わらずよく日に灼けたマラカが、湯船につかっている。
マラカはカンナのひとつ年上である都市国家ラズィンバーグ近郊一帯に住むスネア族で、サラティス政府直轄の斥候バスクとして仕事をしている。また、アーリーからも極秘の指示で動くことも多い。くしゃくしゃの黒髪に、カンナに似た薄緑の眼、そして細身のしなやかな身体。ガリアは、その身を完全に隠し、竜すらも惑わす「葆光彩五色竜隠帷子」だ。まさか、ガリアで隠れていたのだろうか。
「どうしてここに?」
カンナが湯気の向こうにいるマラカへ向け、見えない眼を細める。
「カンナどのこそ、どうして?」
「わたしは、ストゥーリアに行くって、アーリーが……」
泳ぐようにして、波もたてずにマラカがカンナへ近づいた。マラカの部族の慣習か何か知らないが、マラカはやたらとくっついて来るので、カンナは自然と距離をとった。
「マラカさん、そこまで、そこまで」
「いやですなあ、二人っきりじゃないですか」
「だからです!」
マラカはカンナへ手が届きそうで届かない距離で止められてしまったので、やや不満げだったが、にやにやと笑いながら、
「カ、ン、ナどの、パウゲン連山はいま、猛吹雪ですよ。季節外れの大嵐が続いて、山を越せるような状態ではありません。私は、吹雪がひどくなる前になんとか越えて来たんです」
「ストゥーリアに行ってたの!?」
「都市政府とアーリーどのの、め、い、れ、い、で……シャシャ……」
薄暗い湯気にぼやける灯の中で、マラカは幻想的な笑顔を作っていた。心なしか、その緑の目が灯を反射している。
「ストゥーリアって、どんなところ? ウガマールやサラティスと同じ、昔からの都市国家なんでしょう?」
「そうですねえ、大きさは、サラティスより大きく人口も多いのですが、そのぶん、冬は食べ物が少なく……むしろ人々は竜を狩って食料にしているほどです。なにせ寒いですよ、これからの季節は」
「寒いのはいやだなあ」
カンナは、既にここまでの旅路の寒さですら、辟易していた。これ以上寒いなどと、想像もできない。
「カンナどの、悪いことは云いませんから、カンナどのに山越えは無理です。空気も薄いし、道は険しい。なにより雪が。遭難して死んでしまいます。アーリーどのへ云って、下回りの街道を進んだ方がいいでしょう。時間はかかりますけど、凍え死ぬよりましです」
「そうかあ……」
カンナがつくづく嫌そうにつぶやいたとき、マレッティが湯殿のドアを開けて顔を覗かせた。
「カンナちゃあん、まだ入ってるのお? だいじょうぶ? のぼせてない?」
ドキリ、としたが、なんと既にマラカの姿はどこにもない。夢だったのでは、と思ったほどだ。
「は、はい、いま出ます!」
「ちゃんとお水飲むのよお。もう夕刻だし、ご飯にしましょお! ここの料理は美味しいんだからあ」
カンナは、長い黒鉄色の髪を絞り、まとめながら、ゆっくりと湯から上がった。しっかり熱い湯で温まったはずのその肌は、入る前と変わらずしっとりとした深い時を経た白磁めいた乳白色のままだった。湯気と熱気の中に、氷の塊があるようだ。マレッティは、カンナの正体に迫るデリナの言を思い出し、内心ゾッとしてつばを飲んだ。カンナは、世界で八人目のダールか、バグルスの完成体ではないかという、あの恐るべき言葉を。




