第1章 1-2 出発
「では、準備をしておけ。長旅になるぞ。少なくとも来春までは戻ってこない」
「はあい」
アーリーが螺旋階段をおりてしまってから、マレッティはカンナを素っ気なく突き放した。そして、無表情のまま何度も大きく息をついて、アーリーの後に続く。カンナを見もしない。
カンナは語りかけようと口を開きかけたが、それ以上口が開かなかった。何かが、マレッティへ語りかけるのを制止した。
それが何かは分からない。
長旅の準備は得意だった。そもそも、カンナはウガマールから一か月かけてここにきた。船便をうまく使えば、ウガマールからサラティスまでは速くて七日で到着するので、四倍の時間がかかったことになる。理由は、早船に乗る金が無かったのでひたすら歩いてきたからだ。護衛のつく隊商にも参加せず、一人で歩いてきて、よく無事だったとカンナは自分でも思った。途中で盗賊だの、竜だのに一度も遭遇しなかった。運がよかった。
一人で歩いてきたのは、無関係の者が旅の安全を確保するために隊商へ同行する、気持ちていどである些少の同行料すらも無かったからである。可能性の鑑定料のみが、持ち金の全てだった。その可能性鑑定で、まさか自分が驚異の……いや、狂気の99であるとは、黙然として街道を歩き続けていたころには、夢にも見なかったが。
身体は粗食に耐えるように生きてきたし、食おうと思えば虫など平気のカンナだった。ウガマールの奥地では、昆虫は重要な食料であった。
したがって、長旅の用意といっても、頑丈な衣服と金銭以外、ほとんど用意するものがない。街道沿いを北上すると聴いていたし……気がかりなのは、未体験の寒さのみだ。
街へ出て衣服屋で北方行のための装備を買い揃えようとしたが、まだ塔の外に出るのが憚られたため、下女に云いつけて、適当に外套や下着を含めて厚手の衣服を買った。後に思えば、それが今回の旅の大きな転換点となる。
現に、下女が買ってきた北方用の衣服を見ても、いまいちピンとこない。いまここで着込んだら暑そうだな、というだけだ。
出発予定の四日後まで、カンナはただ部屋で寝て過ごした。
一方、マレッティは……。
ふだんは信用ある貸し金庫へ隠してある金属板の鍵を用意し、自室の、暖炉横の石壁の隙間へ差し入れる。石壁が自動的に開いて、狭い隠し階段が現れる。入ると思わせて、やおら厳重に玄関ドアまで戻り、部屋の外に誰もいないこと、それから塔の窓の外まで確認し、ようやく素早く隠し階段へ身を踊らせた。
完全に扉を閉めると、中はまっくら闇となる。ガリア「円舞光輪剣」の光を集め、明かりとしてゆっくり螺旋隠し階段を下りる。
やがて塔の地下へたどりつき、地下通路を歩きだす。通路は長く続き、次第に天然の洞穴へ至る。サラティスの地下を流れる地下水脈の一部が、こうして地下浅いところを流れ地下河川と地底湖を作り、天然の地下迷宮を都市の下に作っている。
サランの森の真下辺りに着いたころ、とある窪みにマレッティは入り込んだ。地上のどこかに通じており、月光めいて明かりが差し届いている。
「あっ……!」
マレッティが声を上げた。鎖につながれ、死人のようになってはいるが寄生竜の力で死にながら生きていた、遠隔連絡のガリア遣い。マレッティですら名も知らぬ、ましてやなんという銘のガリアなのかも知らない、サラティス攻略竜軍総司令のデリナと連絡をとるためだけに捕えていたガリア遣いが、死んでいた。肉体はもともと半分死蝋化していたが、完全に固まっている。胸が内側から大きくめくれ上がっており、寄生竜が逃げ出したのだと分かった。
これは、マレッティからデリナへ連絡をつけるために利用していたもので、デリナからはまた異なる様々な方法でいつも連絡が来る。その後、改めてマレッティからデリナへこのガリア遣いを使用して連絡を入れる。
今回はあれから三か月たっても、何も云ってこないうちに北方行が決まったので、せめて報告だけでもと久しぶりに訪れたのだが。
「……どうして……?」
寄生竜は、半年は何も食べさせなくとも平気だ。そのために、三か月前にたらふく食わせた。したがって飢餓のためとは考えられない。もしかしたら、宿主がもう限界だったのだろうか。それとも他に理由が……?
マレッティは竜退治の専門家だが、竜の生態研究の専門家ではないので、まったく分からなかった。
まさか、デリナが何らかの方法で、自分と連絡をつけさせなくするために……? 一瞬、そう考え、マレッティはじっとりと冷や汗をかいた。この、吐く息も白い冷たい洞穴の中で。
だが、考えていてもしょうがない。事情は分からない。とにかく、旅より戻ったら、新しい連絡方法を考えなくては。
マレッティは汚物を見る眼で、かつて自らが捕え、目も当てられぬほどに変わり果てたガリア遣いである少女の死骸を見下ろすと、踵を返した。
その足元をぬって、縄のようなものが物陰よりマレッティへ飛びかかった。
マレッティは一瞬にしてふり返りもせずに、右手よりガリアの力である光輪を複数個発し、その蛇めいた、うなぎのような不思議な生き物を膾切りにした。
寄生竜はぶつ切りにされてもしばらくのたうっていたが、やがて闇の中で動かなくなった。
四日後、ヘアム=レイ帝月十五日深夜。満月の朧月夜。三人はカルマの塔の執事長ダンテスと、経理総責任者である黒猫へあとを託し、密かにサラティスを出発した。




