第2章 5-2 三日月
「デリナがどういう手を使おうと……こっちの切り札はカンナだ。いま、向こうはカンナの力を見極めている段階にある」
「まだ完全に知られる前に……こっちから手を打つのか?」
「そうなるだろう。常に奇襲の機は伺っている」
「あの斥候バスクを使ってるのか? あいつは危ういぞ、スネア族だ」
「分かっている。お前の力も必要だ。アート」
「カルマのお役に立てるとは思えないがな。俺は、防御しかできないバスクだぜ。楯バカのアート様だ」
アーリーが微笑を浮かべた。そんなを顔を見ることができるのは、アートだけだった。
「知っているか? 楯でも相手を殺せるのだぞ。叩き潰し、押し潰してな。大猪の一頭や二頭、軽くひねり殺せるはずだ。現に、カンナがバグルスと戦っているあいだ、あの大猪をどうした? ぬけぬけと、逃げられたとぬかしたそうだが」
アートは笑みを浮かべて答えず、話を変えた。
「カンナを……先に出すのか? まだ未熟な内に?」
「む……」
流石のアーリーも、口に出すのを躊躇しているように思えて、アートは辛抱強く待った。やがてアーリーが、絞り出すように声を出した。
「……あれは……あれは、よくできている。感心した。まさに我々の切り札だ。まさか、あそこまでとは思わなかった」
「我々の希望だよ」
「希望……そうだな。希望だ」
「希望にして絶望さ」
「どういう意味だ」
「そういう意味だよ」
アーリーは視線を変えなかった。自らの髪や血と同じ色の太陽を見つめている。アートも、うつむいて石畳をみつめていた。
「記憶はどうなっている。いつまで操作しているのだ?」
「いつまでというか……」
アートはそこでため息をついた。
「いつからというなら、最初からだ。そのつもりで接してくれ」
「……分かった」
「頼む」
「それから……」
アーリーがアートの肩へ手をやった。珍しい対応に、アートが戸惑った。
「なんだよ。どうした」
「カンナが……竜との戦いで感情を制御しきれないところがある」
アートは唸った。それは、彼も感じていた。
「そうなんだよ……しかし、分からないな……いつの段階で、どういう感情が生まれているのか……竜への恐怖の裏返しか、憎しみか……純粋な殺意なのか……自分の使命を本能的に感じているのか……分からない」
「そうか」
アーリーは素っ気なく立ち上がると、夕日を背にした。
「デリナは先鋒だ。狡猾で強力な相手だが、力はそれほどでもない。策略と罠にさえ注意すれば、私がなんとかしてみせよう。問題は……喫緊の危機ではないが……後ろに控えている存在だ……」
アートが目を向いてアーリーを見上げた。
「誰だ、そんなやつ……ダールか?」
「ダールかもしれない……ダールではないかもしれない」
「ダールじゃないだって……!? ……まさか……」
アートは、大げさに身振りを加え、自身の恐ろしい想像を否定する。
「まさか! そんなはずがない。竜と人は、神代の時代から車の両輪だ! 片方がいないと成立しない。片方が片方を滅ぼす意味も理由も無い! そんなことは、竜属も分かっているはずだ!」
「そうだ。しかし、大侵攻は始まった。私は、『そのため』にここにいる」
アートは黙った。確かに。アーリーは、人のためにここにいるのではない。竜のためにいる。いや……結果として、竜と人の架け橋となり、両方に益がある。ゆえにアーリーは三十年も前に竜を裏切ったのである。
そう、分かっていたはずだったが、いざ現実を改めて認識すると、辛かった。アーリーは人間側として戦ってくれていると、人の味方だと、つい錯覚してしまう。現実は、違う。
(だから、我々は……人は……カンナを生み出した……ダールの力を借りて……そしてダールの力を借りることなく竜と渡り合うために……いずれ……ダールをも滅ぼすために……)
アートも、非情なる現実を再認識した。だが、もし、最終的な相手がダールすら超越した存在だったら!?
「人は……神と戦うというのか……!?」
アートがうめいた。アーリーは答えない。
「アーリー、おまえは、そのとき、神の元へ帰るのか!? 次は人を裏切るのか!?」
「相手が神と決まったわけではない!!」
アーリーの、凛とした、怒りをもこもった声に、アートは我へ返った。
「しっかりしろ、アート。おまえがそのようでどうする。ウガマールはおそらく最後の砦となる。今から心で負けてはならない。心で負けるとガリアが負ける。真相は私にも分からない。世界がどうなるのかは……な。ただ、いま、私は竜を止める。止めてみせる。それだけだ」
アーリーは決然として云い放つと、無言で長い影を落とし、城壁の上を後にした。階段を下り、市街地へ戻る。
アーリーが去った後、アートは虚ろな表情で荒野へ沈む夕日を最後まで見つめ、夜になってもまだそのままでいた。
(カンナ……カームィ……バスクス……轟鳴の……救世者……)
不気味なまでに細い三日月が、アートを照らし続ける。




