第2章 2-1 アートとクィーカ
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雨が上がって、そのまま夜になり、朝になっても、カンナはそこに背をもたれて座っていた。眼はどこか空間を見すえ、メガネも薄汚れたままだった。服はまだぬれており、身体は冷えきっている。ここは、土竜とバグルスを退治したサランの森からそう遠くない、街外れの路地裏だった。どうやってここまで来たか覚えていないし、いつからここに座り込んでいるのかも覚えていない。
明るくなると、眼の前に扉があるのが分かった。狭い通路で、街並みが途切れる本当に市街地の外れの外れだった。ここから先は、城壁内の荒野だった。朝日に体が温まってくる。
その、扉が開いた。中からカンナよりも幼い、歳の頃十前後の少女が現れる。建物は物置か廃屋かと思ったら、人がいるようだ。袋をかぶったような寝間着姿で、そばかすだらけの顔にちょっと上向いた鼻があり、赤に近い茶髪を伸ばし放題にし、目尻の垂れた一重の鳶色の瞳がカンナをみつけ、驚きもせずに鼻と喉の奥から、
「ふごっ……」
と、独特の音を出した。そしてふざけているのか、癖なのか、
「ふごふごふご……」
そのまま、扉の中へ顔を戻し、
「アートさまあー! 知らない人が死んでまあす!」
「クィーカ、朝飯ができてるぞ。顔も洗わないでどこに行ってる?」
「アートさま、玄関です!」
「人が死んでるって?」
大柄な男性が現れた。歳の頃は三十歳前後に見える。背が高く、筋肉質で、浅黒い肌に黒髪のウガマール人だった。麻地のゆったりとした服を着ていた。
「あっ、なんだ?」
急いで首筋に手を当てる。脈はある。しかし体温が低い。
「肺病を起こしたらたいへんだ。湯を沸かしてあるから、おまえ、服を脱がせて湯浴みをさせてやれ。なんだってこんなところで……」
アートはカンナを抱き上げ、家の中へ入れた。クィーカがカンナの服を脱がせている間、アートは裏手の広場でバケツに湯を大量に用意し、タオルも多く用意した。クィーカが熱い濡れタオルでカンナを拭いてやっている間、アートは服を脱水し、干してやった。小物入れもそのまま干した。
日が完全に上がると気温も上昇し、カンナは生き返った。
「あ……」
毛布にくるまって、ソファで意識を取り戻す。
「あれ……ここは……」
食事をしていた二人がカンナへ気づいた。
「お、大丈夫そうだな。俺はアート。こっちはクィーカ。あんたは?」
「あっ……カ、カンナです。あ、ありがとうございます……ご迷惑を……」
「お互いさまよ。あんた、見たところバスクのようだが……竜退治で返り討ちにあったか? 昨日、わざわざ雨の中、森で退治をしているようだったからな。ご苦労なこった。俺もバスクなんだ。珍しい男バスク。いまのところ、サラティスじゃ俺だけだな。所属はモクスルだ。こいつはセチュのクィーカ。俺の助手。こう見えてガリアを遣える。もっとも、可能性はおそらく史上最低だがな」
そう、一気にまくしたて、アートは豪快に笑った。
クィーカも、怒るどころかいっしょに笑っている。
「ふごふご……自分は、可能性3なんです。驚異の3! 一桁です! それでも、れっきとしたガリア遣いですからね!」
パンクズをこぼしながらクィーカはむしろ自慢げに云った。
「なあ、起きたのなら、いっしょにメシを食おうじゃないか。服は……まだ乾いてないかもしれないが、女物はクィーカのやつしかないんだ。小さくて入らないだろうから、生乾きでも我慢してくれ」
「お天気いいから、きっともう乾いてますよ。ふごっ……」
「あ、ありがとうございます」
カンナは裏手へ回り、物干しにかけてある服をとった。高くなった日差しに、ほとんど乾いている。それを着込み、身分証の入っている小物入れを首からかけると、部屋へ戻った。
「あの、すみません。わたし、これで失礼します……」
「まあ、待ちなよ。飯くらい食ってけって。たいしたものはないけどよ。これもなにかの縁じゃないか、さあさあ」
アートはカンナを無理に席へつかせた。確かに腹が空いている。そして確かに、たいしたものではなかった。ウガマールの釜焼き薄パンとレンズ豆のスープ、安いベーコンの切れ端をカリカリに焼いたもの、それにコーヒーだった。
「やっぱりウガマールの味じゃないとなあ。幸い、向こうからの交易路はまだ竜に襲われにくいから、こうしてコーヒーも安く手に入る。食料だって、ストゥーリアよりゃまだまだ余裕だ。さ、遠慮せずに。それともウガマールの食い物は苦手か?」
「いえ! うれしいです。わたしも、ウガマール地方の出身なので」
「へえ!? そうなの!? 見たことないな。あんたみたいな部族……」
「ええ、まあ、その……すっごい奥地なんです。ウガマール市から、船で五日くらい遡ったところです」
「そんなところに人がまだ住んでるのか。凄いね、どうも。ま、じゃ、遠慮せずにやってちょうだい」
カンナがパンを手に取り、美味しそうに食べ始めたのを見て、二人も朝食を再開する。
「俺は、可能性は41だ。ぎりぎりバスクやってる。仕事も、他のバスクの後始末みたいなものばっかりだ。云ってみりゃ、ゴミ掃除だよ。収入もそれなりだ。だけど、ゴミを掃除するやつがいないと、ゴミはなくならない。そういうもんだ。あんた、可能性は?」
カンナがパンで喉をつまらせる。コーヒーを急いで飲み、今度は熱さで吹きそうになった。




