第2章 5-1 マレッティ放浪
それはマレッティ自身にも分らなかった。この機会を利用してのけじめなのだと思った。
あるいは、自分のこのガリアの……円舞光輪剣の導くままに……といったところだった。
小さな路地裏の食堂で小腹を満たしたときも、隅の席でフードを取らずに黙々とそして素早く黒パンと薄いレンズ豆の粗末なスープをかっこんだ。よけい目立つと思われるが、意外にそういうものは多い。いや、そういうものが多い場所で食事をとった。ここは工業区のはずれの、貧民窟との境目にある、末端労働者向けの場末激安食堂だ。半分施し飯屋といってもいい。
マレッティにとっては、懐かしくもゲロみたいな味だった。
食べようと思えば、このスターラでもサラティスにいたころのような食事はできる。ただし、値段は五倍から十倍になる。かつての、王侯貴族並の食事だった。いまでは大商会や都市政府の上層部しか口にできないものだろう。その意味では、サラティスは政府が倹約しており、バスクたちのほうが贅沢な暮らしをしていた。
(ここのガリア遣いも、遠慮しないでサラティスに来ればいいのに)
マレッティはそう思うのだが、いざ竜と戦っての死亡率となると、サラティスは格段に上がるのだった。
(どっちもどっちなのかしらねえ……)
腕に覚えのある者は、サラティスでもバスクとして成功するだろう。しかし、そうでもないガリア遣いは、ここで金持ちに雇われて、衛兵やフルトをやっていたほうが安心安全に、そこそこの暮らしができる。
「はあ……」
ふと気づくと、見覚えの無い通りに迷いこんでおり、マレッティはため息まじりに今来た道を戻ろうとした。そして、本当に唐突に、その建物が目に入った。見覚えが無いと思っていたこの通りは、完全に記憶を抹消していた通りで、いま眼前にある四階建ての赤い煉瓦造りの建物は、まぎれもなく七年前まで自分の家だった建物だった。
「…………」
マレッティは人通りの少ないその道で、彫像めいて立ち尽くした。何十年も昔ではない。たったの七年前だ。所有者は変わっても、建物は普通にそこへあった。シュターク商会。その看板の跡には、そう書いてあったはずだった。しかし、いまは何も書かれていない。現在、誰が所有しているのだろうか。
マレッティは、思わずフードをとって顔を出した。泣きそうな顔をしていることに、窓に写った自分の顔を見て初めて気づいた。少ない通行人が不思議そうに振り返って通りすぎた。
「クゥッ……!」
声にならない吐息を吐き出し、マレッティはバカバカしくなって再びフードをかぶった。何を感傷的になっているのだろう。全てをあの日、捨てたはずなのに。どうして自分はこんなところにわざわざ来ているのか。これでもかと歯を食いしばって、意地で涙を流さなかった。
踵を返して、憤然と歩きだした。自分で自分に怒っていた。どうしてこんな場所に来たのか、理解できなかった。来たくて来たのだろうか。それとも、忘れていた怒りを持続させ、自分に気合を入れ直すために来たのか。
そのマレッティ、しばらく歩いてから、やおら路地へ入った。そのまま、ごみやわけのわからないもの、そして寒さに震えて死を待つ浮浪者を押し退け、跳び越えて走り出す。マレッティを尾行していた者は、あわててその後を追った。
「……くそっ、さすがにカルマだな!」
地味な冬物ジャケットコート姿の三人がわめいた。しかし路地裏の道筋は、彼女たちの方が詳しい。二人が回りこんで挟み打ちにするべく、近道をゆく。
いかに動揺しているとはいえ、追手に気づかぬマレッティではない。また当時と変わらない路地裏の風景も、走っているうちにおぼろげながら思い出してきた。ここを抜け、裏通りを横切って工業区に入ってしまえば、さらに道は複雑になり追手を振り切れる。そう考えた。
が、その裏通りに出た瞬間、マレッティは硬直して動けなくなった。その情景、臭い、なにより空気。すべてがマレッティの記憶を強制的に掘り起こして、神経が情報の錯乱に耐えられなくなって動かなくなった。
そこは、商業区と工業区の合間にある歓楽街の片隅で、民営遊郭や場末の安売春窟の並ぶ通りであった。
マレッティは実家が破産してより、ここで十三から三年のあいだ客を取り続け、債務の返済にあてていた。
その記憶が一気に蘇って、猛烈な吐き気と眩暈、頭痛に襲われた。どっと汗が出る。
この午後も早い時間、ましてこの季節、通りは閑散として店も閉まり、誰もいない。そこにマレッティが路地から抜けてきて、石化したかのごとく固まった。
風でフードがまくれ、顔があらわになり金髪がたなびいた。その顔は、アーリーもカンナも、誰も見たことがないほどに嫌悪と憎悪で歪み、眼が病的に見開かれ、皺が刻まれ、十歳も二十歳も老けて見えた。
そこへ後ろから暗殺者!