エピローグ スターラへ
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寒い。
カンナはまずそう感じた。北上するほどに、異様なほど空気が冷たい。ただ寒いというのではない。こんな冷たさは、いままで経験したことの無い、あり得ない冷たさだった。本格的な冬になるとまだ寒くなるというのだから、カンナは恐ろしくなった。
渡し板から次々に荷が下ろされる。リーディアリードに蓄えられていたウガマール産の小麦や豆類、雑穀類。珍しいウガマール芋(巨大なサトイモ)もあった。そしてパーキャスからの魚の加工品。ストゥーリア……スターラの冬は、少しは死ぬ人間が減るだろう。
その隊商と共に、三人はスターラへ向かうことになった。途中で竜も出るかもしれないし、なにより盗賊の跋扈がおびただしい。サラティスからウガマール行きの隊商は貴金属や現金、装飾類目当ての盗賊であり、それほど命懸けというでも無く、人間の衛兵でも良いのだが、こちらの盗賊団は食料目当てであってまさに命懸けだった。ガリア遣いがいてくれると、とても助かるというのでアーリー達は特に請われて隊商に加わることとなった。
ということは、つまり、盗賊達が襲ってきたら、ガリアで普通の人間を相手に戦わなくてはならないのである。
「それも、手加減なんかしたらだめよお、カンナちゃん。逃がしたところで、ちがう人達を襲うんだからあ……皆殺しにするのよ」
「そんな……」
「いいこと、スターラじゃ、あまっちょろいことしてたら、いかにカンナちゃんほどのガリア遣いだとて、どうなるか分からないわよお。まして、メストはいるわ、竜の侵攻はあるわ。気をひきしめないとお」
カンナは何も云えなかった。デリナや敵側のダール達だけではなく、ウガマールからも暗殺の対象になっているらしいことを、否が応にも思い出させられる。ちらりとアーリーを見たが、アーリーの表情は変わらず、これから向かう街道の先を見すえている。
ベルガンには他に何人かのガリア遣いが滞在していて、その中の二人が共にスターラへ行くこととなった。
数日後、隊商が整った。荷駄を馬車に十二台連ね、総勢で五十人ほどもいた。半分以上は衛兵だ。食料を運ぶのに、なんという大げさな……という思いだったが、こうでもしないと、盗賊団に襲われ、とてもスターラまでたどり着かないのだという。必然、冬期の食べ物の値段は高騰し、どちらにしろ貧乏人の口には入らない。安く食べられるのは退治のついでに出回る竜の肉だけだ。それだけが、貧民の飢えをしのぐ。
「竜退治ならぬ、竜狩りが始まる季節よ。そんな時期にあえてスターラを侵攻するなんて、何を考えているのかしらね、こんどのダールは」
マレッティはそう云うが、その表情は冴えない。冬のスターラ、そこまで厳しいところなのかと、カンナまで憂鬱になった。
が、アーリーだけ、微かに笑いだしたではないか。
「なによ、気味の悪い……」
マレッティが剣呑な顔つきでアーリーを見すえる。
「あいつらも、それだけ必死ということだ。まして、デリナとホルポスは、もともとすこぶる仲が悪いからな……そこにつけこめば、我々にも勝機はある」
「へええ」
マレッティは意外な様子だった。三か月前のデリナの口ぶりから、二人はてっきり同盟でも結んだのかと思ったからだ。
(ホルポスの動向も、デリナ様に知らせる必要があるかもね……)
アーリーは、ホルポスとも個人的に知己なのだろうか。やはり、このカルマの創始者は侮れない。マレッティは、自分こそ気を引き締めねばと、想いを確認した。
「カンナ」
「は、はい」
「おまえの力が頼りだ。いいか、自分を見失うな。なにがあってもだ。そうすれば、おまえは誰にも負けぬガリア遣いとなる。おまえが負けるときは、自分に負けるときと知れ。自分のガリアを……黒い剣を信じろ」
「はい……?」
カンナはわけが分からなかった。しかし、アーリーの赤いまなざしを見ていると、不思議とがんばれる気がしてくる。いつかサラティスの戦いの終わった夏の日にアーリーが歌ってくれた、竜歌が耳に甦ってきた。
(竜の命 人の命 螺旋にからみ 無限に続いてゆく……)
カンナは心の中で、そのなんともいえない半音進行の話しかけるような歌を繰り返した。
「あ、出発みたいよお」
先頭の護衛の兵士に率いられ、隊商が動き出す。
さらに厚く防寒着を着込んだカンナ、スターラの商人や衛兵にまぎれ、歩きだした。馬車は全て大きく丈夫な、戦車馬を先祖に持つ巨大な農耕馬が一頭立てで引いていた。カンナは、こんな大きな馬を初めて見た。カンナの隣を行く荷台には、小麦の袋が詰め込まれた木箱が山のように積まれている。
冷たい風が進行方向より吹きつけてきた。息が止まるほどの冷たさだ。
風の合間にふと曇り空を見上げると、メガネになにかが落ちてきた。ふわり、と水晶を磨いた特製の凹レンズについて、融けた。なんだろう、とカンナは思った。
雪が降ってきた。
第2部「絶海の隠者」 了