Looking for
私たちはそれぞれの心のうちに、ひっそりと孤独の場所をもっているのだわ。果てることのない悲しみや、秘密のしあわせを入れておく場所を。
サラ・オーン・ジュエット
とがったモミの国
少女は昨日から何も食べていなかった。食べ物のことを強いて考えないようにしても胃からせりあがる悲鳴とのどの渇きが邪魔をする。手首には黒く変色した血がこびり付きピンク色の肉が覗いている。この 忌々しい 鎖のせいだ。鎖は手首から壁にコンクリートで固められた杭へと繋がっている。一見して自分の力では外せないと分かるが無駄と知りつつも昨夜は闇の中で自由になろうと試みた。鎖は容赦なく縛り付け、手首は激痛をもって止めるように訴えた。それでも肉を切らせて自由を得ようと試みを続けると手首の皮が剥けて出血した。肉を切らせてもまだ駄目だった。骨を砕くことも考えるがこれ以上の出血が恐ろしかった。別の機会を伺うしかない。それまではできるだけ体力を残しておこうと考えたのが明け方だった。明かり取りの小さな窓にかけられたカーテンの隙間から漏れる光が時間の経過を知らせていた。コンクリートに囲まれた半地下室の中で鎖に繋がれてから気絶と眠りは同義だった。そして再び少女は体を丸めた姿勢のまま気を失った。
「どうかあの子を助けて下さい」臼井ゆりは梶山の腕にしがみついた。「犯人のどんな要求でものみます。ですからお願い助けて」
梶山浩はできるだけ困った顔を見せないよう気をつけてゆりの手をとるとそっと離した。
ゆりの娘が消息を絶って四日が経とうとしていた。最後に臼井みきの姿が見られたのは中学校だった。学校を出る前に友人に「また明日」と声をかけて教室を出たのが現在確認できる最後の姿だ。いつになっても帰宅しない娘を心配してゆりは学校や娘の友人に連絡をとったが行方は知れなかった。警察に通報すると共にゆりと夫の剛はみきの通学路を探し回ったが徒労に終わった。失踪したというだけではゆりが事件に巻き込まれたと判断できるわけではなかった。犯人からの連絡もなかったのだ。警察の明確な方針が示されないまま時間は流れていた。少年課の梶山は連絡を受けた当初から担当として対応していたが失踪したのがこれまで補導されたことも学校で問題を起こしたこともない生徒であったあったこと、家出の前例のないことから事件に巻き込まれた可能性が高いと見ていた。だが少年課と第二課の各課長の判断はしばらく様子を見ることだった。捜索願が出された場合、捜索の対象は一般家出人と特別家出人とに分けられ、事件性のない場合は前者に振り分けられ警察によって積極的に探されることはない。実際に臼井夫婦の対応をしてきた梶山にとっては歯嚙みしながら待った四日間だった。
梶山にも今年中学3年になる娘がいる。もしも涼が一日でも行方不明になったら気が狂わんばかりに心配するだろう。梶山たち少年課の刑事はその間巡回での聞き込みなどできることはやっていた。だが何の手がかりも掴めないままだった。ひょっこりと何事もなかったように帰ってきてくれないか、臼井夫婦のためにもそう祈らずにはいられなかった。母親のゆりはまだ40歳にならないだろう。化粧気のない顔はこの四日でげっそりとやつれた。身長は150センチくらいだろうか。美人というわけではないが目鼻立ちに愛嬌がありこういった状況でなければ可愛らしい女性だろう。
梶山は手を広げて見せるようなしぐさをしていった。「ご心配お察しいたします。ですがまだ犯人がいるかどうかも分からない状況です。私たちとしましてもできるだけのことをしております。通学路周辺や関係者への聞き込みは続けておりますし、他県へも娘さんの写真を送り協力を仰いでおります。どうか我々にお任せください」梶山は痩せた胸を心持ち張っていった。今はこれ以上ゆりを憔悴させたくなかった。娘の行方はようとして掴めないが心配しても事態は好転しない。「今日は剛さんはお仕事ですか」
「ええ。もう三日続けて休んでおりますので、何かあったらすぐに帰るから連絡してくれといって」「そうですか」臼井剛とは三日前に会っているが警察のしばらく様子を見るという対応を聞いてかなり苛立っていた。ゆりによればこの三日間は街中を歩いて娘の行方を探し回っていたらしい。会社に行っても心配で仕事にならないかもしれないが外に出ることで幾分は気が紛れるだろう。その点でもゆりの憔悴ぶりは気がかりだった。家にずっといるのでは考えたくないことも頭に浮かび、その考えから逃れらないこともあるだろう。四日経ち状況報告とゆりの様子見を兼ねて臼井家に立ち寄った梶山は自分の悪い予感があたったことに少々うんざりしていた。ひとりの人間が欠けることで周囲の人間にまで影響を及ぼすことが 往々にしてある。三十年近くこの仕事を続けてきた梶山はそういった例を山ほど見てきた。この場合も娘の行方不明の期間が長期になればなるほどゆりと剛に及ぼす影響も大きくなるだろう。
鳴瀬かおりには友達ができるのが遅かった。小学校に上がっても男の子が苦手だったし女の子同士でもうまく遊べなかった。保育園でも小学校でも友達のいなかったかおりには想像上の男の子と女の子の友達がいた。最初に二人に出会ったのは保育園に行きたくないなと思って部屋で目を覚ましたときだった。突然声を掛けられたのだ。
「かおりまた幼稚園に行きたくないって思っているのか」
声がしたほうを見ると同い年くらいの男の子がベッドに腰掛けてこっちを見ている。まつげが長く、巻き毛のふわふわした黒い綿あめみたいな髪型をした男の子だ。「またお腹が痛いとかいってさぼろうと考えてるんだろ。由里子さんをあんまり困らせるなよな」由里子というのはかおりの母親の名前だった。
「そんなこと思ってないもん」とかおりが口を尖らせていうと「じゃあどうしてゆりこさんが呼びに来るまでベッドで待ってるんだよ」とあっさり切り返された。図星なのでなんといっていいか分からずにいると「たけは失礼だ。そんな口のきき方してるとかおりに嫌われるよ」小さい女の子の少し甲高くてそれでいて柔らかい声がした。いつの間にか男の子の隣にそっくりの顔がもうひとつ並んでいる。けれどよく見ると女の子のほうが色白で目元が柔らかい。髪はうなじまで伸ばした薄茶色のストレートだ。後ろの毛が外側にはねている。男の子のほうはジーンズに紫色のフードのついたフリースジャケットを着ている。女の子はジーンズ生地の膝までのスカートに黄色のフード付きのスエットパーカーを合わせている。「かおり、たけのいうこと気にしないでね。バカだけど悪気はないんだよ。これでもこいつなりの心配のしかたなんだよ」「バカってなんだよ。お前こそ失礼だ」そっくりの顔が向き合っている。
「お前っていわないで。えり姉さんって呼んでよね。もしくはえり姫様でもいいわ」女の子が鼻をつんと上に向けていう。
「だれが呼ぶかっ。だいたい姉っていっても年は変わらないだろ」
「私の方が先に生まれたのよ。一姫二太郎っていうでしょう」
「それってそういう意味なのか。だいたい姫ってがらじゃない」
「あの・・」ここでようやくかおりに口を挟む勇気が出た。「お名前はたけくんとえりちゃんっていうの」
「そうよ」「そうだ」同時に同じ顔が返事をする。なんだか変な気分だった。テレビを二台並べて見ているような。
「ここでなにしてるの」
「だからかおりが今日も保育園をさぼろうかなんて考えてないかと思ってだな」
「たけはかおりが元気ないんじゃないかって心配で来たんだよ。あたしはたけがバカしなように引率。もちろんかおりにも会いたかったよ」
「どうしてあたしが心配なの」
「それは」たけくんが言葉に詰まる。
「好きだからよ」えりちゃんがくすくすと笑いながらいう。
「いきなり告白に持って行くなよ。会ったばかりなのに」たけくんが困ったようにいった。
かおりも男の子に好きといわれてもなんといったらいいか分からない。冗談だと思っても体のあちこちがこそばゆい。
「ま、お前は面白そうなやつだから一緒に遊んでやるかなと思ってさ」
かおりは自分のことを面白いといわれたことがなかったので、その意味がよく分からなかった。だが友達になってくれるというのは嬉しかった。ひとりっ子のうえ、保育園で友達もできないので寂しかったのだ。
「よろしくね。かおり。今日の朝ご飯は卵焼きだよ」自分のことをえりといった女の子がそういってかおりに手を伸ばした。えりの手を握り返そうとしてかおりもベッドから出る。そうして女の子二人は手を握ったまま三人で一緒に一階へと降りていった。
「お母さんおはようっ。かおり友達ができたよ。たけくんとえりちゃんっていうんだよ」
母親に紹介しようとふたりの姿を探したがどこにも見当たらなかった。いつの間にか握っていたえりちゃんの手もない。由里子はかおりが夢の話をしているのだろうと思い、話を合わせた。「よかったね。かおり。また今度お母さんにお友達のお話をしてね。さぁ早く朝ご飯食べなさい」
「わぁ。本当に卵焼きだ。えりちゃんがいったとおり」
「そうよ。かおり卵焼きが好きでしょう」
「うん。大好き。たけくんとえりちゃんは食べないかなぁ。お母さんたけくんとえりちゃんの分も卵焼きある」かおりは周りを見回しながらいう。
「今日はないわよ。でも今度お家に来たら作ってあげるから」
「もうお家にいるんだよ。さっきまで一緒にお部屋にいたもん」
「かおりは夢を見ていたのね。早くご飯食べなさい。保育園でお腹空くわよ」
「夢じゃないよ。本当にいたの」
「そう。本当のような夢を見たのよ」
「ほんとうのようなゆめ?」かおりにはよく分からなかったがお母さんがかおりのいうことを信じていないことはなんとなく分かった。
次にかおりがふたりと会えたのは夕方にひとりで母親が迎えにくるをの待っているときだった。そのときかおりは園内の砂場近くで蟻を見ていた。しゃがみ込んでじっと下を見ていると後ろから「なに見てるの」と声を掛けられた。振り向くとえりちゃんが立っていた。朝見たときの格好に加え、茶色いレースのリボンのついたピンクのつば広の帽子をかぶっている。たけくんの姿を探すとジャングルジムの上からこちらを見ていた。たけくんは朝の服装にベージュ色の野球帽をかぶっている。夕日が逆光になっていてその表情は見えない。
「ありさんたち見てるの。えりちゃんとたけくんはあれからどこに行っちゃったの」責めるような口調でかおりはたずねる。
「かおりの近くにいたよ」えりちゃんは近づきかおりのそばにしゃがみ込みながらいった。えりちゃんの長いまつげの上に夕日が落ちて金色に光るのが見えた。
「でも見えなかったよ。それでお母さんがえりちゃんたちのことをほんとうのようなゆめだっていうの。だからこれからお母さんに会ってくれる」えりちゃんの顔に照る夕日が滑らかな肌とその上のわずかな産毛を金色に染めるのをうっとりと眺めながらかおりはいった。
「あのね。えりとたけはかおりの秘密の友達だから他のひとには見えないんだよ」秘密を打ち明けるような小さな声でえりちゃんはいった。
「どうして秘密なの」今はこんなによく見えるのにと不思議に思いながらかおりはえりちゃんの顔や帽子についたレースの編み目をまじまじと見る。
「他人には見えない友達は誰にでもいて、そしてそのことは誰にもいわないからよ。かおりのお母さんにも秘密の友達がいたんだよ。忘れちゃっているのかもしれないけれど。赤ちゃんを見たら分かるはずよ。周りには見えないものを見つめたりしているでしょう」
「おーい。こっちで一緒に遊ぼうよ」たけくんが呼ぶ声がする。その方向を見るとたけくんが滑り台を頭から滑り降りてくるところだった。お腹から着地して「ぐぇぅ」という声がした。かおりはびっくりして目を見開いた。「大丈夫?」
「平気だよ」えりちゃんが答えた。そして立ち上がるとかおりの手を引いていった「行こう」
由里子が保育園に着いたときに目にしたのは笑い声をあげてジャングルジムを登っている娘の姿だった。いつもなら砂場でじっと何かを見ていたり、砂遊びをしているのに。しばらく娘が遊ぶ姿を眺めて、由里子は声をかけた。「かおり帰ろうか」かおりは突然声を掛けられてびっくりしたがお母さんの姿を見つけ、それからいつの間にかふたりがいなくなっていることに気付いてまた驚いた。由里子は娘の不審な動作を見ていたが、夢中になって遊んでいたせいだと気にとめなかった。それよりも娘がいきいきと遊んでいる姿を見て安堵した。内気で友達がいない様子なのを保育士からも聞いていて心配していたのだ。ひとりでこんなに活発に遊べるならきっと友達もこれからできるだろうと思えた。
それからもふたりの子供はかおりが部屋にひとりでいるとき、おもちゃの人形でごっこ遊びをしたり、ベッドを船に見立てて大航海の旅に出て遊んだ。遊びの内容は毎回違っていてかおりは飽きることがなかった。一人で寝たくないときにはたけくんとえりちゃんがかおりを挟んで川の字になって寝てくれた。両親と行ったデパートではぐれて泣きそうになっていたときには手を引いて両親のところまで連れて行っていくれた。
他にもかおりの知らないことを教えてくれることがあった。「明日は雨が降るから小学校に傘を持っていったらいいよ」とか、帰り道に「今日は一緒にこの道を帰ろう」といい、その翌日に学校から付近に変質者が現れたので集団で登下校するように指示が出たこともあった。
かおりが小学校3年生で今日は遠足という日だった。その日は朝起きるとたけくんとえりちゃんがいた。
「おはよう。たけくん、えりちゃん」
「おはよう。かおり今日は一緒に遊びに行こうぜ」たけくんは棒の先に網がついたものを持っている。魚か虫でも捕りに行くのだろうか。
「でも今日は遠足だよ。動物園まで行くんだよ」ベッドから上半身だけ起こし目をこすながらかおりは答える。
「遠足なら来年も行けるわよ。それに動物園まで行かなくても面白い生き物が見られるわよ。例えばほら、このたけガエル」えりちゃんは今日は白と紺のチェックのショートパンツに淡いピンクのチュニックを着ている。
「げぇこっげぇこっ」たけくんがカエルの真似をして飛び跳ねる。目を点にしてかおりに向かって舌を伸ばしたり引っ込めたりしている。かおりが笑い声をあげるとたけくんが「な、かおり、えりザルも見たいだろ」といった。思わず「見たいっ」というとえりちゃんが怒った顔をしてたけくんを見る。
「ちょっとなんでわたしが」
「かおりも見たいっていってるぞ」
えりちゃんが恥ずかしそうにもぞもぞと動いて体のノミをとって食べるしぐさをする。
「えりちゃん、かわいい」思わずかおりは両手を合わせる。
「どこがよっ」えりちゃんの顔が少し赤い。
「次はかおりだな。かおり馬を見てみたい」
かおりは勢いに乗せられてベッドから飛び降りると馬になったつもりで駆け回った。「ひひぃん」と声を上げてみる。
「いいぞいいぞ」「かおり馬速い」たけくんとえりちゃんが声を掛けてくれる。
結局かおりは遠足に行かずにふたりと一緒にに遊びに行くことにした。もとから学校の友達がいないかおりは遠足に行くよりもふたりと遊ぶことのほうが楽しかった。母親には遠足に行くと思わせたまま、リュックを背負って家を出ると学校へは行かずに近所の川沿いに歩いた。5月の空は晴れて日差しは街路樹の新緑や川面にさざ波のように降り注いでいた。三人は途中で魚を眺めたり公園でブランコに乗ったりして遊んだ。ときおりたけくんか、えりちゃんのどちらかが別のところへ行こうといい、そうして移動していると大人の誰の目にとまることがなかった。昼ご飯はみんなでかおりの弁当とお菓子を分けて食べた。午後は裏山で三人でかくれんぼをして遊んだ。そうしてかおりが外で一日を過ごして家に帰ると、両親ともがなにやら慌ただしく携帯電話で話しているところだった。最初にかおりに気付いたのは父親だった。「いたぞっ」という大声を出して駆け寄ってきた。父親の声でかおりに気付いた母親は動物が突進してくるように走ってきた。これまで見たことがないような怖い顔をしていた。父親がかおりの腰を抱くようにする傍らで母親がかおりの両肩を掴み、震える手で揺さぶる。「かおりどこにいたのつ」突然の成り行きにかおりは呆然となる。遠足に行かないことがそんなに大騒ぎさせることだとは思わなかったのだ。
「かおり答えなさいっ。今までいったいどこにいたの」母親はかおりを揺さぶり続けている。かおりが叱られるときにはいつもならとりなしてくれる父親も今日は黙っている。仕方がないのでかおりは本当のことをいった。
「お友達と遊んでいたの」
「どこのお友達?お名前は」
「いつも一緒にいるお友達だよ。前にも話した、たけくんとえりちゃん」そういうと両親は顔を見合わせた。その後の父親と母親の反応は違った。諦めたような顔をする父親と、顔が白くなるほど怒る母親だった。「うそいうんじゃありませんっ」あまりの剣幕にかおりは泣き出した。それを見た母親は弁解するように父親にいう。「あなたも知っているでしょう。かおりの空想の友達のこと。かかりつけのお医者さんからは小さい子の中にはそういう子もいるけれど大きくなるにつれて空想と現実を混同することはなくなる、といわれていたのだけど。それに最近はかおりが空想の友達のことを話すこともなくなっていたから安心していたのに」
「俺たちにとって理由は何でもいいよ。かおりが無事だったんだ。けれど他の保護者にはそんなことは決して言えないな。みんな子供を亡くしているんだ。かおりに余計な批難が集まる可能性があることは避けたい」
「そうよね。自分の子を亡くした人にかおりが空想の友達のおかげで助かっただなんて聞かれたらふざけていると思われても仕方ないものね」
わけも分からずに泣いているかおりを見て両親はため息をつく。まだ小学三年生なのだ。今日起きたことを話しても理解できまい。遠足に向かったかおりのクラスのバスが崖から転落し、運転手を含む乗客全員が死亡したことと、かおりとは何の関係もないのだ。
だが結果は両親が心配した通りになった。かおりは周囲の好奇の目に晒されることになった。隣のクラスに転入したかおりは意地の悪い子たちから「死に損ない」や「死に神」などと呼ばれることになる。もとから友達のいない内向的なかおりにとって友達作りはさらに難しくなり、小学校の間友達ができることはなかった。だがかおりが本当に寂しいと思うことは学校での友達ができないことではなく、遠足の日以来たけくんとえりちゃんが姿を見せなくなったことだった。前のようにふたりと秘密の話をしたり公園や川へと探検ごっこに出かけたりしたかった。テレビのアニメを観たあとでキャラクターになりきって遊びたかった。寂しい夜には両脇をふたりに埋めてほしかった。目に見えて元気のなくなったかおりを心配した両親はかおりに運動を勧めた。
「かおり何かやってみたいスポーツがあるかしら。やってみて合わなかったらすぐに辞めてもいいのだからやるだけやってみたら」
かおりはスポーツ全般が得意ではなかったが以前駅で見かけたスイミングクラブの看板が気になっていた。それを両親にいうと球技や武道のようなチームメイトや練習相手がいるものを考えていた両親は複雑な思いだったが、本人の意向が大切だと思い直した。
かおりは小学校の水泳の授業のように全員で同じことをするものでは他の子に遅れてしまい、ついていくのに懸命だった。だが母親が選んでくれたスイミングクラブでは監視のもとじっくりとひとりで水に慣れさせる時間をとった。そこでかおりは水の世界に魅了された。水の中には静かな自分だけの世界があった。小学校の残りの期間は学校とプールと家とを往復する日々が続いた。プールが休みの日には図書館へ行き本を借りて読んだ。小学校を卒業するまでかおりには友達ができなかった。中学校を選ぶにあたってかおりが条件にしたことは家から歩いて通えることだった。その条件に合うのは公立の八蒲中学校だけだった。家から遠く離れた中学校へ行き環境を一新すれば新しい友達も作りやすいかとも思ったがたけくんとえりちゃんと一緒に遊んだ思い出のあるこの地を離れたくなかった。近くにいればまたふたりに会えるような気もしていた。小学3年のときに起きた事故はかおりが思うよりも大きな心の傷になっていた。クラス全員が死んで自分だけが生き残ったことに罪悪感も感じていた。|(私だけが生きていていいのかな)一時期は後を追って自分も死のうと毎日考えていた。自分の気持ちを人に伝えることが苦手なかおりは誰にも相談できないまま、小学生には重すぎる悩みを抱えて生きていた。それでも前に進んでこられたのはまたいつかたけくんとえりちゃんに会えるかもしれないという希望があったからだった。ふたりに会えたならどうして自分だけが助かったのか、その理由を聞いてみようとも思っていた。それまでは孤独にも耐えてがんばって学校へ行こうとかおりは考えていた。
中学校の入学式は雨が降っていた。新しい校舎はよそよそしく、2年や3年の先輩は強く大きく見えた。八蒲中等学校と銘打たれた石造りの校門を抜けて最初の校舎に張られた生徒の名前と教室が書かれた大きな一覧表を見るために赤や黒、青や透明ビニールの傘の花が咲いている。鳴瀬かおりの名前は一年四組にあった。案内の矢印を進むと四組は北側の2階にあった。見知った顔を見つけて集まり騒々しく教室へ進む生徒たちの中を黒い傘を差したかおりはひとりで移動する。かおりを探す友達も、かおりが探す友達もないままだった。教室に入り出席番号順に座るとかおりはクラスの真ん中あたりだった。ひとつ前の席に座っていた生徒が振り向いて話しかけてきた。「ねぇ部活何にする」目がくるくると動く活発そうな女の子だった。肩まで伸ばした髪の毛はまっすぐでさらさらだった。かおりは自分が癖毛なのを気にしていた。こんな雨の日には髪が水気を含んでさらに癖がひどくなってしまうのでなおさらだ。長い髪にも憧れるけれどあちこち飛び跳ねてしまうので今のうなじの長さよりも伸ばすことができない。男の子にもかおりほどの髪の長さの子がいる。かおりは色白で線が細いため男の子と間違われることはなかったが、小学生の頃にクラスの男の子に鳥の巣ヘッドとからかわれたことを気にしていた。
「まだ決めていないの。あの、あなたは」
「わたしは水泳部に決めてるの。わたし江崎なつき、よろしく。あなたは」
「わたしは鳴瀬かおり、です。北山小学校からきたの。よろしくお願いします」きっとこの子も北山小学校から来た他の生徒からかおりの噂話を聞いて離れていくだろう。小学校でクラスが変わるたびに同じことを繰り返してきた。出身校くらいは自分からいっておいたほうが江崎なつきも噂話を早く仕入れるだろうとかおりは思った。
「あたしは転校いっぱいしてるからな。小学校を5回も変わってるんだよ。親は鬼かって思うよ。子供のことを付属物だとでも思っているのかしら。といってもたくさん転校して良かったと思うこともあるけどね。でも転校多いとチームプレイのスポーツよりも個人競技のほうに惹かれるのよ。水泳部ならどこの学校に行ってもあるし。それにこの学校は公立だけど屋内と屋外のプールがあって一年中練習できるのを知っているでしょう。かおりちゃん部活決めていないのなら明日一緒に見学に行かない」
「えっ明日」かおりは一緒に何かをしようと誘われることに慣れていなかった。突然の誘いに喜ぶところなのか面倒だと思うところなのかも分からない。水泳部に入ろうと思ってもいなかったし屋内プールがあることも知らなかった。
「そう。今日は雨だし配布物多いでしょう。明日なら身軽だし行ってみようよ」
「うん。分かった。水着持って行くの」誘われたからにはしっかりやらないと、と思いかおりはたずねた。
「えっ。いや明日はまだいいんじゃないかな。軽く雰囲気を見る程度で。かおりちゃんっておっとりしているかと思えば積極的なのね。妹か弟がいるの」
「ううん。わたしひとりっ子です」
「そうか。わたしは姉がいるの。姉は見た目はぼんやりしているくせにひとりで何でもやっちゃうの。高校も一人で決めて、親の都合で転校繰り返すのはもう嫌だって寮に入っちゃったし。かおりちゃんはどうしてこの中学校にしたの」
「わたしは家から歩いて通いたかったの」
「あ、わたしも。受験勉強するのが嫌だったのもあるけれど。家も近いから今度遊びに来てね。普通の集合住宅だけど。かおりちゃんの家にも遊びに行っていい」
「う、うん」小学校の頃は一度も友達が遊びに来ることはなかったし、江崎なつきがかおりの小学校の噂を聞いてもまだ友達として遊びに来たがるかは分からない。
「あ、ごめんね。わたし押しが強くって。この子と仲良くなりたいって思ったら一直線なんだよ。嫌なときは嫌っていってね。好きな子に冷たくされたりするのもきゅんとして好きなんだ」
「ううん。嫌じゃないの。ただ慣れていなくって」小学校で友達がいなかったとはここではいいたくなかった。この江崎なつきという子を好きになりかけていたし、自分を見つめるこのきらきらした目が冷たいものに変わるところを見たくなかった。自然に離れていってくれればそれが一番いいとかおりは思った。ちょうどそのとき教師が入ってきた。担任はひげを生やしたがっしりた体格の男でかおりの父親と同じくらいの年齢に見えた。
「みなさん席に着いてくださいね。いつまでも小学校気分でいちゃだめですよ」少しかすれた低い声だった。かおりの母親の由里子ならあら、いい声じゃないとでもいうような声だ。だが今の言葉の抑揚を聞いたら少し目を丸くするに違いない。なんというか、女性っぽいのだ。生徒たちも虚を突かれておとなしくなった。入ってきた教師の見た目からしても騒々しい言葉が出てくると思ったのだ。「お前らさっさと席に着かんか」というような。しかして男は続けた。「みなさんの担任になることができて、とっても嬉しいです。僕は野口勇次といいます。楽しくて充実した一年にしましょうね」
「先生、ホモー?」男の子の声があがった。何人かがくすくす笑う。
「ご想像にお任せします。高木君はホモはお嫌いかしら。人を好きになる気持ちが同じなら、対象が同性か異性かなんて些細なことじゃない」
「大将がどうせイカ異星人で野菜なこと?意味が分からないし。それに先生きもっ」高木君と呼ばれた子が腕をさすりながらいう。
「・・ちょっと難しかったかしら。それとも恥ずかしがっているのかな。それでは出席をとりましょうか」
学校が終わり新しい教科書で膨れた鞄を持ってかおりはなつきと一緒に帰っていた。
「変な先生だったね」なつきが鞄を右肩から左肩に持ち直しながらいう。教科書が山ほど入っていて重いのだ。さっきはその重い鞄を抱えて先に一人で教室を出たかおりを追いかけて一緒に帰ろうといってきたのだ。
「うん。変な先生。でもあれじゃ生徒に舐められちゃうよね」生徒たちは教師に合わせて態度を変える。高圧的な教師には逆らわないが、怒らない教師には今日のように自由に振る舞う。
「そうだよね。でも楽しいクラスになりそう。わたしは転校多いけれどああいう先生は始めてだ。あっ。かおりちゃんわたしこっちなんだ」十字路でなつきが声をかける。
「うん。またね」「また明日。ばいばい」二人は左右に別れて歩き出した。学校の友達と帰るなんて生まれて初めてのことだ。いつまで一緒に帰ってくれるかは分からないが今日のことは憶えておこうとかおりは思った。なつきちゃんが今後どんな態度をとったとしても今日してくれたことには本当にありがとうといいたい。雨が上がり雲間に見える青い空を見上げて歩き出したかおりは後ろからかおりを見つめる目があることには気が付かなかった。